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批評家が自撮るワケ

基本的に自分の顔をイイとかカッコイイとか思ったことは一度もないが、最近部分的にであれ褒めてもらう機会が多く、「へー、そういうもんかねー」と勉強になりつつ、使えるもんはなんでも使っていこうと思っている。



「顔」というのは自分のど真ん中にある巨大な謎だ。
自分の目では自分の姿を覗き込めないのと一緒。だから人に教えてもらうしかない。
もともと、顔出しは作品に親しみを持ってもらうため(ヒヒョーなんて言うと、どうしても敷居が高く思われてしまうので·····)、自撮りは自分の顔の効果と飛距離を図るために始めたが、今では定点観測みたいになっている。
定点観測というか、休日のコンディション確認というか、なんとなく、撮ると安心するようになった。
そんなわけなので、いつも自撮ラーとしてはありえないクソテキトーな撮り方だ。
装うとコンディションが見えないので。


自己プロデュースとしては「そりゃ悪手じゃろ🐜んこ·····」の一手だろう。
よーするに僕の場合、演出がすべて悪癖に変わる。
最初は演出として始めても、だんだんそれ自体がおもしろくなっていって、観客そっちのけで実験と探究を押し進めるハメになってしまうのだ(笑)
「好きなものは全部中毒にしなくちゃ意味がない」


どうやら僕の顔は、大衆にはウケが悪く、一部の人間には刺さるものらしい。というか、パーツがフェティシズムを唆るのかな?
「顔」を構成するパーツとその全体像との乖離はおもしろこわい問題だと思う。
空間というカンバスに置かれたわたしと、輪郭というカンバスに貼り付いた皮膚の。
まー、時代的に薄顔が流行りなので、ようやく俺の顔に時代が追いついてきたって感じ?
作品に追いついてこいばかたれえ!!!


ただまあ、顔出し以前と以後の反応の相違を踏まえた上で、一般的にというか数の観点から見た場合、僕の顔出しはやはり「そりゃ悪手じゃろ以下略·····」であるらしい。
実際「脱輪さんの顔から入って批評読みましたあ♡♡」という人には一度もお目にかかったことがない(笑)
多少謎めかしておくぐらいの方がよいようだ。


男からの嫉妬も増えた。
嫉妬というのは僕の顔がイイからではなく、「顔がイイと思って自撮り上げまくってモテるアピールしまくってるこいつの鼻持ちならない自意識!(本当は俺がしたいのに!)」という例によって例のごとくの投影=projectionだ。
これが敵意や反感に変わり、クソリプを量産する(笑)



「なんかわかんねえけどなんかこいつ気に障るんだよなあ·····」という状態の原因の9割はフロイトが発見した“投射”(自分が無意識に叶えたがっていてでもできない欲望を目の前で叶えている“ように見える”他者への嫉妬)なので、これを覚えてよく注意しておくだけで、感情は一気にコントロールしやすくなる。
これに関わるのがナルシス(自己愛)の問題だが、少なくとも「こいつは自撮りを上げまくってるから自分大好きな人間に違いない」というようなあほみたいに単純な認識に収まるようなものでは到底ない。
僕に関して言えばたぶん、「自分コンプレックス」のようなものだろう。
このコンプレックスという言葉も誤解されていて、ネガティブな意味合いは本来ない。
「〜complex 観念連合」というのは「〜についてのあれこれに脳の容量を大幅に持ってかれるせいでいつも頭がごちゃごちゃになってるよー」という心理状態を指す。
通常言われているようなネガティブな意味での「コンプレックス」は“Inferiority complex”と呼ばれるもの。「ひょっとしてわたしは人より劣っているのでは?という考えに脳の容量を大幅に裂かれるせいでいつも頭がごちゃごちゃになってるよー」というわけだ。


他方、以上のようなメカニズムを知れば、「complex 観念連合」をわたしから切り離し、ある程度の距離を置いて「ごちゃごちゃ」を楽しんだり、分析して解剖したり、実験材料に使えるようにもなる。
僕の「自分コンプレックス」はこのようなものとしてあり、ジブンなるものも実験材料でしかない。
そして、「顔」というものはもともと巨大な謎としてわたしの中心に居座り、どでかい異物なり腫瘍としてわたしの表面にマッピングされているに過ぎない(ように思える)ぶん、切り離して楽しむにはうってつけの素材なのである。


こーゆー基本的なことがなにもわかってないくせに、「こいつは自撮りを上げまくってるから自分大好きな人間に違いない」と短絡するような連中は心底救いがたいというか、自分自身についてまともに考えたことが一度もないんだなあ·····と哀れになる。
なぜなら、「まともに考える」というのは「自分の一部を切り離して人に教えてもらえるよう改造する」ことを指すからだ。
つまり、自分では考えず、みんなに代わりに考えてもらう。そしてその意見をこだわりなく受け入れられるよう、できるだけからだを柔かくしておく。
文章を書くのも一緒。
自分の言葉を自分から切り離して人に教えてもらえるよう改造するための試み。
批評なんてまさにそう。
というわけで、批評と自撮りは見事に繋がっているのであった(笑)



「わたしたちはいつも大文字の他者から反転した形でメッセージを受け取るのです」
ーージャック・ラカン




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