見出し画像

2日に渡る親父の葬儀を追えて、人生の比較優位論についてちょっと考えてみた

2日間に渡る父の葬儀が終了した。多くの方々に集まっていただき、メッセージやお花を供えて頂き、とても感謝の気持ちでいっぱいだ。家族を代表して、ここに深く御礼申し上げたい。

親父は葬式という行事が嫌いだったと思う。自分の母の葬儀も、父の葬儀も父の横顔だけ覚えている。そんな親父のDNAを受けてか、僕も葬式が大の苦手で、できる限りパスしたい行事だった。そんな僕にある日、突然訪れた親父の葬式だった。いつもは気が乗らずに参加する側だったのだが主催する側になった初めての葬式となった。

親父は悲しむ作業が苦手で、喜ぶ作業が得意な人だった。だから僕も泣きじゃくるお袋をなるべく見ないようにして、喜べる要素のみを探そうと頑張った。告別式の弔電を読んでいただいたゼミ長は、親父に習ったことの中で自由貿易における比較優位論についてお話をされた。絶対的な格差ではなくて、相対的な優位性で、国の財を決める。有利なものを輸出し、不利なものを輸入する方がいい。自国の得意とする生産に特化し、それ以外は貿易によって賄うのがベストプラクティスである。開発経済論を教えていた親父がよく口にした言葉だった。

親父が母と作ってきた僕が育った浜田家というのは、ペシミスティックな環境にとことん不利なチームだったと思っている。そのデメリットをトレードオフしたのが、このよくわからないオプティミスティックなところだろう。だから僕らはそのポジティブな楽観性のようなものを対外的に放出したのだ。それこそが浜田家の財そのものだったと思う。決して裕福でもなかったが、小さなアパートに住む家族、家族の時間をとにかく大切にした家族の姿があった。家族と一緒に得られる共有体験をもって、父も含めて人生における悲観的な側面を打ち消していたのだと思う。人の感情を経済における貿易に置き換えるのは乱暴だが、今こうして親父が旅立って親父に影響を受けた方々の言葉を聞くと、親父が実に多くの方々にポジティブなメッセージを与えていたことが分かる。

実のところ親父と僕は17歳までしか生活は一緒にしていない。だから、時折実家を訪れても、一人の学者として客観的にみていた自分がいた。「寿人、これからは半球の時代だ、この本を読んでみたらいいよ。」パラフィン紙で丁寧に巻かれて、ハイライトが随所にされている書籍は、キショール・マジョバニの「アジア半球」の原書だった。人生の節目には必ず登場してくれて、よく相談をした。とくに彼から何かのアドバイスがあるわけではなかったが、常に聞き手に周り色々と思考しながら、母親のことを見るのが常だった。そんな母は、お父さんに聞きなさいよといつもキャッチボールをしていた。「で、寿人、おまえはどうしたいんだ?」それが小さい頃からの結びのセリフだった。

家でも料理はよくしていたから、僕が料理人になるといってもびっくりすることではないが、僕が初めて店で鮨を握ったときは偉く驚いていた。まだ下手くそな自分の握りを誰よりも嬉しそうに食べて、「ついに寿人は寿司も握るようになったのか、面白い時代だよ」と嬉しそうにつぶやいたことを覚えている。

僕が何をしようが、寿人が決めたことだから、と反対意見を聞いたことがなかった。映画とITの仕事をしてから、和牛を触ると言って普通の親だったら心配しただろう。子どものときにインターに行きたいと頼んだときは、金がかかる話は絶対頷かなかったが、自分に関係のない資本の中で行われる僕の自由な判断については、信じているんだったら頑張ればいいというのが親父のスタンスだった。親父の比較優位論はこんなときにも発揮された。自分の長所を伸ばし、短所は外から補えばいい。大学でのメッセージでも、実生活でも、比較優位論を信じる親父の姿勢は変わらなかった。私生活では短所の全てはお袋におんぶにだっこだった。何をするにもお袋の同行を求めて、お袋の都合が合わないときはやってこなかった。だから親父とサシで飯を食べたのは、人生の中でも数回しかない。男同士の話を直接したいと親父にいっても、常にお袋がセットでやってくるそんな夫婦1ユニットが当たり前のデフォルト設定だったのだ。

棺の中で頂いたたくさんの花に囲まれて、痩せていつもより鼻が高くなった親父はどことなく亡くなった彼の親父、そう僕の祖父に似ていた。親父を抱きしめるようにして語りかけては涙するお袋のことを正直直視できなかった。人の涙をもろに受けるタイプの僕には、その状況を直視して支えられる余裕などなかった。花を詰める作業に夢中の1歳の娘の方をみて気を紛らわしていたが、やはり彼が僕に与えたインパクトはとても大きく、隠そうとしていた告別式の最後の挨拶では、決して泣くまいと堰き止めていた自分自信の感情がドロドロと滲み出してきてしまった。久しぶりに色々な方々と出会った。数十年ぶりに出会えた人もいるし、初めて出会った人もいる、僕が潰した会社のカフェグルーヴの古い面々も多くがやってきてくれた。家にどんな人でも招いた親父なりの最後のホームパーティのようだった。

葬式はやっぱり苦手だが、ちょっといいもんだなっと少し思ったのだった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?