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現代の奴隷!インドから来たある外国人労働者を襲った悲劇

ファーストフード店、コンビニ、食品工場……など、もはや外国人労働者を見かけることは、決して珍しいことではなくなってきました。そんな外国人労働者たちのなかで、奴隷のように扱われている方たちがいるという事実をご存知でしょうか?

この記事ではかつて来日し、奴隷のような扱いを受けたあるインド人男性の話を紹介します。


いつ・どこで起きた話なのか? 

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彼と交流のあった西暦2000年12月〜祖国インドへ強制送還された2005年夏頃までのエピソードです。また、主な舞台は愛知県岡崎市と、名古屋市となります。

当時はまだ当たり前のように行われていたこの出来事が、2019年現在では非常識、あるいは時代遅れになっていることをただ願うばかりです。

"彼"とは何者なのか?

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筆者が高校生活最後の冬休みの間、アルバイトをしていたインド料理のレストランでシェフをしていた人物です。

友人知人と食事を共にしたり、自分の作った料理を人に食べてもらったりすることが大好きで、まかないやプライベートでも店のメニューにはない美味しい料理をたくさん作ってくれました。名前や出身地など詳細は、後述します。

15人兄妹のムスリム(イスラム教徒)の子として誕生

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ここからいよいよ、彼の物語を始めていきたいと思います。

彼の名前は、インサーン。よく「インさん?」と間違えられますがフルネームは○○・インサーン・○○のため、「サーン」までが名前です。

15人兄妹の6人目の子として、カルカッタのムスリム(イスラム教徒)の家庭で生を受けました。なお、本人曰く「インドでは男の子しか数えないから、そっちの意味では4人目だね」とのことです。

15人いた子どもたちのうち5人は幼いうちに亡くなってしまい、最終的には10人兄妹になりました。

カルカッタという地名を聞いて「マザーテレサ知ってる?」と尋ねたところ、「知ってる」とのこと。一度、お菓子をもらったことがあると言っていました。

1日1食・8歳には社会に出ていた少年

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インサーンの家は非常に貧しく、食事は1日1回昼食のみ。さらに雨が降ると雨漏りがひどく、ずっと1ヶ所に固まって凌ぐのが当たり前の生活だったそうです。

「食べる物がない時には、川に入って手づかみで魚を獲っていたこともある」

と、本人は口にしています。

なお、インサーンの祖父に言わせると、「昔は土地を持っていたから、もっと豊かだった」とのこと。しかし、第二次世界大戦中に遠方へ避難し、しばらく時間を空けて帰ってきた時に、事件が起きました。なんと、見ず知らずの他人が、土地を勝手に使っていたのです!

その時、運悪く土地の権利書を紛失してしまっていたので所有権を証明できず、それから生活が苦しくなったという話でした。

そんな家に生まれたインサーンは、8歳の時にはもう社会に出て、近所の農家の手伝いなどをしていました。もちろん学校なんて、たまに行ければ良い方です。そんな生活を、彼は14歳頃まで続けていました。

15歳と18歳の時に訪れた転機

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そんなインサーンですが、15歳の時に転機が訪れます。ニューデリーにある、ホテルのレストランに就職が決まったのです。

「将来的には調理師の免許も取れるし、とにかく食うには困らないだろう」

と、ニューデリーに行くことを決意した彼は、3年間そのレストランで働き続けます。そして見事に調理師免許を取得し、18歳になったある日、再び転機が訪れました。

客として来店したある人物に、「日本でインド料理のレストランをやっているんだけど、ウチの店に来ないか?」と誘われたのです。

「日本に行けば豊かになれる」と信じきっていたインサーンは、大喜び。取得したばかりの調理師免許証を握りしめ、ついに日本にやって来ました。

最初の奴隷生活【日本国内なのに給与はルピー】

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インサーンを誘った客は日本に到着するなり、自身が経営するインド料理レストランに彼を連れて行きました。場所は、名古屋市の天白区だったそうです。

これで国にいる家族にもっともっと仕送りして、結婚している兄妹の子どもたちを学校に行かせてあげられる。雨漏りしている家だって建て直して、お母さんたちにも楽をさせてあげられるんだ!

希望に満ち溢れたインサーンを待っていたのは、思いがけない生活でした。確かにお給料はもらえたのですが、日本国内で働いているにも関わらず、渡されたのは日本円ではなくルピー(インドで流通しているお金の単位)だったのです。これでは日本で、何も買うことができません。

そのためインサーンは、歯ブラシや髭剃り、着替えや下着などといった日用品を手にすることができませんでした。特に歯ブラシにいたっては、手に入らないので指で歯を磨いていたそうです。

「銀行に行って両替すればいいじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、来日して間もない日本語も全く分からない青年が、そんなことを思いつくはずがありませんでした。

そもそもインドの銀行では、行員による横領が日常的に行われています。振り込みをお願いしても窓口で現金を渡したら最後、行員がそのお金を着服してしまうのが当たり前なのです。そのため、本当に送金したいなら、相手の口座に直接振り込むのが常識となっています。

「日本の銀行なら、ちゃんと対応してくれるから大丈夫」などと、どうして想像できたでしょうか?ましてや貧しい実家に頼ることなど、出来るはずがありませんでした。

帰国から数年後、再び訪れた転機

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ウンザリするような生活が終わったのは、2年半後。レストランを退職したインサーンは、インドに帰国してまた別のレストランで働き始めました。

「言葉も分からないし、日本人って何だか怖いな」

と思っていたのですが、数年後に再び転機が訪れます。また別の客が、彼を日本のレストランにスカウトしたのです。

前回の出来事を思うと迷いもありましたが、「今度こそ大丈夫かもしれない」と信じ、2回目の来日を果たしました。

多くの心優しき友人たちに恵まれた時代

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2回目の来日は、インサーンが想像していた以上に、たくさんの幸福を彼にもたらしました。

母親のように慕える女性や日本での初めての恋人、外出先で会うと「またウチの店、飲みに来てよ」と声をかけてくれる居酒屋オーナーなど、数多くの心優しき友人たちに恵まれたのです。

「最初は日本人が怖いと思っていたけど、話してみたら楽しいもんだね」

と、インサーンは勇気を出して自分から話しかけてみたことを、心から喜んでいるようでした。やがて、彼はレストランから”母親のように慕える女性”が経営していた喫茶店に転職し、そこで料理を振舞うようになりました。

しかし、幸せだったある日、喫茶店に1人の男性客が訪れます。インサーンの作った料理を口にした男性は、

「君の料理は、とっても美味しいね。毎日食べたいぐらいだ。自分も今度、新しくインド料理のレストランを開業する予定なんだ。君が今いる店より良い給料を出すから、ウチに来ない?」

と、誘ったのです。これが、次の悪夢の始まりでした。

2回目の奴隷生活【無給+無休での労働を強制】

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男性客が提示した給与は、毎月20万円。それは実際のところ、当時勤めていた喫茶店の給与より高い金額でした。インサーンは「もっと高い給与がもらえるなら!」と、あっさり転職を決意します。

新しいレストランに転職したインサーンは、もともとお世話になっていた喫茶店とは、たまにアルバイトとして通う形で折り合いをつけました。彼の作るインド料理は、看板メニューの1つになっていたからです。

そして新しい職場のオーナーはと言うと、確かに20万円の給与を払ってくれました。しかし、本当に支払いがあったのは、最初の3ヶ月間だけ。その後は何かと理由をつけて、無給そして無休で働かせるようになったのです。

パスポートは没収、逃げたくても逃げられない

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日本の法律では、パスポートまたはそれに該当する物(外国人登録証など)を、本人が常に携帯するよう定められています。しかし、信じ難いことですが、それが叶わない場合があるのです。

「なくしたら大変でしょ?預かってあげるよ」

と、本人を言いくるめて、雇い主がパスポートを没収してしまうのです。そして雇い入れはするものの、そのうちに給与を払わなくなってしまう……。実はこれは、よくあるケースだと言われています。

少なくとも筆者がインサーンと交流していた頃には、日本人が雇い主であっても【よくある話】とされていました。そしてインサーンも例外なく、「預かるよ」と言ってオーナーからパスポートを奪い取られていたのです。

しかし、日本に来た以上は、国に残してきた家族たちに仕送りをしなくてはいけません。そのため、パスポートを携帯しないまま職場から逃亡し、違法な職場で賃金を得ようとする外国人労働者が後を絶たないのが現実です。

そして、その間に在留期限が切れ、オーバーステイ(不法滞在者)となってしまう方も多いのです。一方インサーンはと言うと、「いつか賃金を払ってくれるに違いない」と信じ、ひたすら待ち続けました。

しかしその間にも、オーナーの親戚が遊びに来た時に全員分の外食代を負担させられたり、オーナーから数万円単位で借金を申し込まれたりすることが何度もありました。

所持品は売却され、財布からは現金を抜かれた

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当時インサーンは、オーナーが自分の名義で契約して暮らしていたアパートに、オーナーと同居する形で身を寄せていました。しかし、オーナーは長期不在にする際に公共料金を平気で滞納し、ガスや水道など使えない状態にすることもあったのです。

「なんでオーナーが自分の名義で契約して住んでいるアパートなのに、水道代やガス代をこっちが払わないといけないんだ!?あの人は何も言わずに、私が代わりに払うことを期待しているんだ。そうすれば、自分は払わなくていいから」

と、インサーンは激昂しました。

そのうちに、奇妙なことが起こるようになりました。シャワーを浴びた後に財布を見ると現金が減っていたり、買っておいた物が姿を消したりし始めたのです。

「あの紫色のサリー、どこに行ったの?知らない?」

紫色のサリーとは、当時インサーンが仲良くしていた女友達(筆者)のために、わざわざインドから取り寄せたものでした。彼の実の兄がサリーを作る工場で働いていたので、代金を払った上で用意してもらったのです。

「ああ、売っちゃったよ」

オーナーはまるで、それが当たり前だとでも言わんばかりの態度で、言い放ったのでした。

インサーンを待っていた顛末

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まず、未払いの賃金はもらえませんでした。貸したお金も、女友達(筆者)へのプレゼントとして用意したサリーも、何1つ返ってきませんでした。それどころか、ある日オーナーは店を畳み、あっさりインサーンを解雇したのです。

もちろん帰国の手配など、してくれるわけがありません。おまけに預かっていたはずのパスポートも、「なくした」と言って返してくれませんでした。

アパートも追い出されたインサーンは以前勤めていた喫茶店に事情を話し、「また雇ってもらえないだろうか?」と交渉しました。しかし、すでに彼のビザは期限が切れてオーバーステイとなっていたため、断られてしまいました。

いよいよ宿なしになってしまったインサーンはなりふり構わず、見ず知らずの会社や飲食店の戸を叩きまくりました。その努力が実り、どうにか自分を雇ってくれる寮付きの職場を新たに見つけたのです。

しかし、ある日東京にいる友人の家を訪ねた時パトロール中の警察官に声をかけられ、身分証明書の提示を求められました。そこでオーバーステイが発覚し、入国管理局に収監され強制送還となってしまいました。

私たち日本人にできることは?

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筆者も調べまくったり、当時大学生だったので、国際問題の授業を開講している教授に相談したりもしました。そして、可能な範囲で動いてみましたが、はっきり言って出来ることはほとんどないと感じました。

そのスジの問題に詳しいエキスパートではないので、当時の筆者が見聞きした範囲で分かったことを3つ書いていきます。

まず1つ目、根本的にその人を救いたいのなら、結婚してあげることです。そうすることで外国人労働者だったその人は、「日本人と結婚し、婚姻生活を共に送ること」を目的に永住権を取得することができます。

2つ目の方法は、その人の国の大使館の連絡先を教えてあげること。少なくとも、母国語で相談する窓口ができるため、日本の一般人よりも有益な情報が掴める可能性が高いです。また、大使館に行けば、パスポートの再発行にも協力してもらえます。

最後に3つ目ですが不法滞在者(オーバーステイ)と分かったら、外国人労働者を支援するNPO団体に相談するか、本人に自ら警察に出頭するよう促すことです。

NPO団体でどんな支援が受けられるのかは、団体によってまた異なるでしょう。警察に関しては、当時筆者が警察署に電話で問い合わせたところ、以下のような返答が返ってきました。

「少なくとも自分から出頭したことで拘束はされないし、帰国の手伝いもしてあげられる」とのことです。

外国人労働者への受け皿の用意が急務!

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ここまで西暦2000年12月~2005年夏頃まで交流のあった、インドからの外国人労働者インサーンの話をしてきました。

日本での就労を希望する外国人は後を絶ちませんが、その一方でインサーンのような悲劇はあちこちで起きているのが事実です。

このような悲しい思いをする外国人労働者が増えないよう、法律の整備と外国人労働者への受け皿を用意することは急務だと言えるでしょう。

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