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私をとらえる物語~後編~

前回のつづき

櫻本真理さんのnoteを読んで、“自分が生きる物語の構造”に興味をもった。

好きな映画をいくつかあげて、登場人物や好きなシーンから共通点を探そうとしてみたのだけれど、まだ浮かび上がらない。

なんだろう、なんだろうなあ。なにかあるはずなんだけどなあ。

手段が目的化しているというか、単純に“私の生きる物語構造はこれです!”と言いたくなってきてしまった。

後編では今まで読んで、好きだと思う本を出してみたい。

1西村佳哲さん『自分の仕事をつくる』

つくる、教える、書く、と3つのお仕事を手がけながら“働き方研究家”を名乗っていらっしゃる西村佳哲さん。

西村さんの、誰かの仕事に対する向き合い方への向き合い方(ややこしい)に深い洞察力と愛情を感じる本。インタビュイーとの距離感も心地よく、彼らの働き方を丁寧にひもときながらも、読者が考える余白を残してくれる。働くことの本質的な意味ってなんだろう?と読むたびにいつも新鮮な問いをもらっている。

仕事・働き方についての本をよく読んでいた時期に、書店でこの本が一際輝いて見えた。そしてそれはページを開いてからも失われなかった。

2平田オリザさん『わかりあえないことから』

本棚にあったものの、昨夜数年ぶりに開いた。それでもここに書いてしまうこの神経。

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おわかりだろうか。数年ぶりに棚から出したものの、以前ページの端を折りすぎたようでこんなことになっている。

今この本を抜き出した意味がどこかに表れているのではないか、と折られたページをめくっていくと、こんな言葉に出会った。

しかし、そういった「伝える技術」をどれだけ教え込もうとしたところで、「伝えたい」という気持ちが子どもの側にないのなら、その技術は定着していかない。
では、その「伝えたい」という気持ちはどこから来るのだろう。私は、それは、「伝わらない」という経験からしか来ないのではないかと思う。

この本を読んだのは大学に入る直前か、入って少しした頃、遅くても大学2年までの間だったはず。幅広いな。

わかりあえなさ、伝わらなさを感じていたピークの時で、その頃のことを思い出すとぼんやり頭の中が白くなる。あまりいい記憶ではない。
でも一番残っているのが実は「伝えようとしなかった」ことだったりする。

わかってほしいと思うくせに、自ら伝わるように伝えようとはしなかった。なぜあの時、伝えることをあきらめてしまったのだろう。

勉強のために読んだという側面もあったと思う。今思えば『対話』という概念とはここで出会ったのかもしれない。

「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。

今はもう少し変化して、そもそもお互いがこの世に存在することの喜び、私たちはみんな違う人間だがその価値は等しく、一番肝心なのはひとりひとりの幸せを大切にすることだという前提を共有する場や組織、そしてその前提のもとに物事を進めていく実践に興味があるし、そこにつながる仕事をしたいと思う。

3由佐美加子さん、天外伺朗さん『・ザ・メンタルモデル』

これはかなり最近読んだ本で、好きというより納得感のあった本。

4つのメンタルモデルのうち、私はほぼ確実に「欠損・欠陥モデル」だ。

自分には何かが欠けているという意識がある。意識していない時はほとんどない。何かどころか、欠けているところを数え始めたらきっと羊を数えるよりも時間をかけられるだろう。どうでもいいけれど、「眠れないときは羊を数える」というあれは、今の人口のうち何歳くらいまで知っているのだろう。

不安から行動しがちなのでやることが増える、これも私。

実は隠れて色々努力している、これも私。

他者と比較して自分の至らなさが気になってしまう。私オブザ私。

さすがになんでもかんでも100点パフォーマンスをするのは私以外の他の人でも無理だしね、とここ数年わかってきたが、気になってしまう場面はまだまだある。

ちまちました悩みの根本がこの欠損・欠陥モデルゆえに生まれるものだとしたら、このモデルをもっていることさえ自分が理解しておけばいいのではないかと、今はそう思える。

好きな映画や好きなメディアも、人が自らの凸凹をうけとめ、そのままの価値を取り戻して進んでいくような物語をとりあげているものが多い気がする。

好きな物語が多くて無理

せっかくここまで書いてきたのにこのタイトル。

映画も本も、好きなものが多すぎる。それに、今取り上げた本はそもそも物語本ではない。小説にしたほうがよかったんじゃないか。

小説だったら、有川浩さんや橋本紡さん、吉田篤弘さんの本が好きだ。エッセイだったら森下典子さんや岸本佐知子さん、浅生鴨さん、益田ミリさん、小川糸さん、石川直樹さん、さわぐちけいすけさん、齋藤陽道さん、ヤマザキマリさんなど。エッセイで探したほうがよかったんじゃないか。

自分の生きている物語構造は、結局後半でも把握できなかった。なんのために書いたんだ。

イェーーイ!じゃない時

しかし、いま挙げた「エッセイだったら」のみなさんの顔ぶれを見ると、ひとつ思うことはある。

「自分最高!!イェーイ!!」と日常的に言っていそうな方が少ない。

もちろん、エネルギー全開部分が表現されている方もいるのだけれど、ごく一部という気がする。

浅生鴨さんや益田ミリさん、岸本佐知子さんあたりは特にそんな印象。イェーーイ!じゃない時の自分というものを見つめるのがとても上手というか、上手い下手ではない奥深さがある。

私はもしかしたら、「だめな時の自分」を語れるようになりたいのかもしれない。だめというと強い言葉だけれど、自信がない時や落ち着かない時、悲しい時、せつない時。

もう考えるのをやめてしまいたいようなとき。

頭ではやめてしまいたいと思っているのに、心がまだあきらめてくれない。

考えても仕方ないと口では言えるのに、思考がとまらない。

そういうときにこそ、「生きている」と感じたりするもする。

物語は、人と続ける

これ、一人で言語化するのは難しい気がする。

好きな映画や本をリストアップしていくことはできる。自由研究としては、十分素材が集まる。

でも、信頼のおける人たちと一緒にやるのはどうだろうか。「君の物語はどんなだろう」「私の物語を探してほしい」と、みんなで考える。

“本を通して人を知る”というコンセプトの読書会をやっている方たちが知り合いにいるのだけれど、そのコンセプトは改めて秀逸だなあと思う。

物語は一人ではつくられない。

誰かがいることで初めて生まれるし、これからも続いていく。

だったら、自分の生きる物語構造を見つめるときにも人がいたっていい。

思わぬところに発見があるかもしれない。


書き始めた時に思い描いていたものとだいぶ結論が違うのだけれど、やりたいことが増えたので、これもこれで、いやこれが、今の自分なのだなと思うことにしよう。

今日も誰かの物語に、そっとうなずける自分であれますように。















読んでくださってありがとうございます!