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進む原動力は「違和感」。

多様性という言葉。自分らしさという言葉。

隣にいる人は、あなたとまったく違う考えを持っているかもしれない。あるいは一緒に暮らすあの人も。遠い国にいる知らない人も。

そういった人と人との違いに目を向け、大切にしようとする動きが増えている。

でも、「ちがうね!」で終わりではない。

ちがう中にも、おなじを見つけたい。おなじじゃなくても、そのこと自体を理解したい。互いを生かせる道を探したい。人間には、そんな手探りで手間のかかる行為ができる。

「ちがい」を、ちがいっぱなしにしない。そこに何があるのか、どんな想いが包まれているのか。

自分や相手を知ろうとする時、ヒントになるものがある。

はじまりは、だれかの違和感

自分や相手を知るヒント、それが「違和感」。

美容ライターの長田杏奈さんが、あるサイトについてツイートされていた。

「セクシュアリティ分析anone,」は任意団体anoneが運営するサイト。

anone, では 2,000通りのセクシュアリティの組み合わせから、あなたに「もっとも近い」パターンを分析します。あなたが普段感じている、性に関する疑問や不安が解消されるきっかけになるだけでなく、これまで性に触れてこなかった人でも、潜在的に気づけなかった自分を見つけることができます。

66個の質問に答えていくと、4つの切り口「こころの性」「恋愛的指向」「性的指向」「表現したい性」から、今の自分に“もっとも近い”パターンを教えてくれる。

上のサイト引用文にもある、この“もっとも近い”というところがポイントだと思う。

今出てくる結果が絶対ではないし、この先ずっと当てはまるということでもない。

ただ、セクシュアリティや人との関係において日頃感じている違和感があれば、やってみると面白いんじゃないかと思う。

セクシュアリティについての認識が広がってきている(と私は信じたい)が、これは誰かの「違和感」が始まりだったのではないかと思う。

女らしく。男らしく。女は男を好きになって。男は女を好きになって。愛しているならセックスをして。

え?私はそうじゃない。
あの人、なんか苦しそう。

セクシュアリティに関することだけでなく、人がどこかに進もうとするとき、そこに「違和感」が生まれている。

自分や相手、そして社会

産業や経済だってそうだ。

誰かが違和感を覚えていなかったら、今当たり前に生活にあるものの、どれだけが生まれていただろう。

違和感を発明意欲に変えて、社会全体を変えてしまえることもある。

違和感は、常に「進む」ためのヒント

一度生まれたものが、なくなることもある。

たとえば、カラオケという場所の誕生。今もあるけれど、「歌をうたう場所」という認識は、ちょっとずつ変化している。集まって勉強をしたり、仕事をしたり、もしかしたら仮眠をとったり。「カラオケって、べつに歌わなくてもいいんじゃない?」という誰かの違和感が、利用目的を広げている。

違和感によって、このように引き算の発想が生まれることもある。あるいは足し引きではなくて、横に枝分かれする発想も。

でも、私は常に進んでいると思う。前の状態に戻ってしまったのではなくて、進んだからこそ選べる、戻る発想。戻っているようで進んでいる。

言い換えるなら、すごろくの4マス目から6マス目に進んだ時に感じた違和感から生まれる発想だ。

「なんかおかしい。4マス目まで戻ってみるか」

このとき、最初にいた4マス目と、戻ってきた4マス目は同じではない。

6マス目を経験したからこそ見えた景色。4マス目から、4マス目は見えない。

だから、その時その時の「違和感」を大切にしてみる。その違和感からどんな発想が生まれるのか、観察してみる。やりたくなったらやってみる。

それが、自分の考えや相手への考え、もしかしたら社会をも動かしていくのではないだろうか。

「違和感」の扱い方

そう考えると、「違和感」とはなんて豊かな資源なのだろうと思う。

ひとりひとりが何かしら持っていて、日々頭に浮かべては消えていく。でも完全に消えたわけではなくて、またどこかのタイミングであらわれる。

「そういうもんだから」で片付けてしまっては、あまりにもったいない。違和感を押し込めないで!と言いたくなる。

その一方で、迷うこともある。

たとえば「なんで人を殺しちゃいけないの?」という違和感が誰かの中にあるとしたら。

これについては、「やりたくなったらやってみよう」とは決して言えない。

でも、違和感を感じていること自体を殺すのも違う気はするのだ。

感じるものを、感じなかったことにはできない。ただそこには、まだぼやけている何かがある。

違和感の扱い方に困るとき、私たちは何ができるだろうか。

感じたことをちがうものにすり替えるのではなく、かといって極端な手に出てしまうのでもなく、どうやって進んだらいいのだろう。

穏やかな気持ちで違和感について考えていたら、書いているうちにハードな問題にぶつかってしまった。

今の段階でひとつ思い浮かべる方法は「何人かの人に話してみる」「違和感の主語を、自分(わたし)に変えてみる」くらいなのだが、あくまで行為であって、本質的かどうかわからない。

よし、聞いてみよう。聞いてみたい人に。

「違和感の扱い方に本質的な正解があるかどうか、わからない」というこの気持ちを。






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