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5ヶ月で心に残った文章たち

noteに投稿を始めて5ヶ月ほど経った。

役に立つスキルや誰かの助けになる経験談は一切書いていない。

ただ自分が残したいと思った感情、ふとした瞬間に発見したことといった小さなものばかり。

発見といえば、先日池袋駅のホームで素敵なカレーの匂いがした。

「どうしてこんな人混みの中で?」と思った瞬間、すぐ前にいる人の横顔が目に入る。

ややくたびれたスカジャンを着こなし、ワイルドなお髭をはやしているその人は、インド系(ざっくり)の顔立ち。

「この人絶対カレー屋さんだ!」となんとも安直な納得をしたが、そんな発見もなんだか少し嬉しかった。発見というより勝手な憶測なのだが。

これくらいのレベルのことを文章にして書いているので、読んだ人の世界の見え方が変わるような文章を書く人に憧れる。

今日は今年読んだ文章のなかでも、特に好きなものを並べてみたい。 

『soar』理事・鈴木悠平さんの文章

ウェブメディアsoarの記事はよく読んでいるのだけれど、最近出たこの記事は特に好き。

横浜市旭区にある、団地商店街のなかの喫茶店「カプカプ」。

私は以前、カプカプについてのムックを友人から借りて(今も返していないが)読んだことがあったので、思わず気になって記事を読んだ。

ここはどういう場所なのかというお話はこの記事を読んでいただくとして、取材・執筆を担当された鈴木悠平さんの記事の魅力を伝えたい。

インタビュイーがそこにいる

読んでいていつも思うのは、インタビュアーである鈴木さんと、インタビュイーの方が、目の前でお話をしているように感じられること。

いかにも取材してきたインタビューしてきた、という雰囲気の文章ではなく、鈴木さんたちが自然とそこにいて、見えたり聞こえたりしたものが文章になった。そんな印象を受ける。

具体的にこの段落のここが!この言い回しが!という表現はできないのだが、全体に、訪れた場をみる鈴木さんの目が広く、やさしいものであるとも感じられる。

それでいて、「なんでもあり」というのでもなく、そこにいる人たちの心を深く見つめようとする力のようなものも感じる。

なんでしょうね。好きな文章のことを説明するのはとても難しい。うまく説明できないと、好きなフリをしているみたいで、誰に向けるでもないけど悔しさがある。

言語化に苦戦しつつも、もうひとつ。

以前の投稿で、NPO法人どーもわーくで働く宮脇さんという方のsoar記事を紹介したことがある。

その前後で、鈴木さんのこの記事「吃ることがいいことだなんて思えなかった。『隠れ吃音』の僕が自分の体と仲良くなるまで」を読んでいる。

同じタイミングで吃音に関する2つの記事をよむというシンクロ。

どちらも自分にとって大切な気づきをくれたのだけど、鈴木さんの記事ではここが好き。

何かを選んだら、それを正解にするというシナリオしかないのだろうか。選びながらもためらう、前に進みながらも迷う、そういうあり方は、許されないのだろうか。

ちょうど転職を経験した私は、自然と自分に重ねながら読んでいたように思う。

何かをやめたら、そこに見切りをつけたということ。何かを始めたら、そこに一直線になるということ。そんな風潮を肌で感じることが続いていて、だからこの言葉に救われた。

「風潮」なんて大きい言葉を使うほどではないけれど。自分の選択に100%の自信なんて持てなくて、でも100%後悔してるというわけでもない。そんな気持ちを持っている人なんていないような気がしていた。

「選びながらもためらう、前に進みながらも迷う」という言葉がまさにぴったりで、何度も読んだのを覚えている。

そうか、僕はどもっている自分が、たぶんちょっと、好きなのだな。生きてる感じがするから。

私にもたぶん「隠れ吃音」がある。

毎日ずっと、というわけではないけれど、ある状況になると出てくるなあと思っている。

伊藤亜紗さんの「どもる体」は、私も発売早々に読み、身体の不思議さと伊藤さんの卓越した(という言い方はあまり好きじゃないのだけど)文章にため息が出た。

それで、吃音の何が自分にとって苦しいのかを考えてみたのだ。

思うに、「すらすらと話す生き物になろうとして、でもそれが自分としての自然な生き方じゃないから苦しい」んじゃなかろうか。

安心して吃れるとき、そこまで苦しくない。吃ってるとすら感じなかったりする。

でも不安な吃りが出ているとき、世界がどんどん遠のいていく。目の前にいる人が、違う生き物に思える。自分だけ、何をしても届かないところに身を置いてしまっている気がする。

心臓の動きに問題はないけれど、「生きる」がおぼろげになっていく感覚。

たぶんこんなことは、鈴木さんが感じたものとは違うのだけれど、それでも「生きてる感じ」と「吃音」がなにか関係している、という自覚をもったように思う。

古賀史健さんの文章

そうなんだよなあ、言わなくてもそれが「自分」ってことだから。

「思う」と「言う」は延長線上にあるみたいに思われがちだけど、「思っても言うことはしない」だって、ひとつの選択なんだよなと納得した。

ただ古賀さんの言うように、「言いたくなる」仲間がほしいという気持ち、すごくある。

だからきっと、私は人と会うのが好きなんだろうし、心のどこか通じる部分があると思える人にはすり寄っていくのだと思う。

塩谷舞さんの文章

なるほど。

知識とも感情ともちがう「持論=オピニオン」。

対話相手がまた異なるオピニオンを持っていて、それらが共鳴したり相反したり、そのズレを認識したりすると、私たちの過ごす時間は見事な傑作になる。そうした対話からは、作品が生まれたり、文章が生まれたり、ビジネスが生まれたりする。

私はなんでもかんでも自分に引き付けて読んでしまうところがあるが、塩谷さんのこの文章もまた同じ。

私に決定的に足りないのは、このオピニオンなのだなと思う。あと知識も。

感情はいちいち揺れ動くので、在庫過多になりやすい。でも知識やオピニオンが不足している。

こちらのオピニオンが貧弱でも、一緒に過ごすと「ふくよかな対話」になる人もいる。いや、私がそれを享受しているだけで、相手にとっては物足りない時間になっている可能性が高い。

ふくよかな対話。

すてきな言葉だし、目指したいところだ。

Nobu Moritaさんの文章

日本にいても、異文化交流なんていくらでもできますよ。

「海外に行かなきゃ!ちがう文化を体験しなきゃ!」と息巻く人にはそう言ってこの投稿を読むことを勧めたい。

これを読む何日か前、ちょうど「異文化交流なんて、日本にいてもいくらでもできるんだなあ」と感じながら夜の街を歩いていた。

会社でも学校でもどんなコミュニティでも、その場所なりの「文化」がある。えいやっと飛び込んだ先が、それまでとは全く異なる文化を持っているなんて、ざらにあるのだ。

でも、いやだからこそ、うまくやれない自分を責める必要はない。

どうしてうまくやれないのか?という苛立ちや焦りが、「自分は駄目なやつだ」という呪いに変わらないよう、この記事を読んでほしい。

さまざまな文化に身を置くことで現れるのは、駄目な自分じゃない。どんな時になにを思うのか、どんな行動をするのか。自分の解像度が、ひとつひとつ上がっていくさまなのかもしれない。

読みやすい文章、好きな文章。

いくつか好きなnoteを紹介した。

これらは読んだ時からずっと心に残っていて、きっとこれからも頭のどこかに残るのだと思う。

この投稿を書いていて、あらためて「文章ってやつはどうしてこうも面白いのだろう」と感じた。

読みやすい文章というものが、必ずしも自分の好きな文章とは限らない。読みやすいけれど、特に好きじゃない、心に残らない文章もある(これはいわゆるブーメランというやつではないのか。読みやすくなくて心に残らない文章を私は書いているんじゃないか…とにわかに不安になる)。

でも、好きな文章は往々にして読みやすい。

「読みやすいから好き」は一概に言えないけれど、「好きだから読みやすい」はほぼ言える気がする。

「読みにくいけど好き」の分類をされる文章もきっとあるなあと思いつつ、今はこの面白さをただ味わっていたい。


2019年の最後まであとすこし。

もう少しだけ文章を読んで、書いて、新しい年を迎えに行きたい。


#エッセイ


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