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世界音痴、ここに。

穂村弘さんの『世界音痴』を読んでいる。
歌人の方だということはもちろん知っていたが、これまでその文章には触れてこなかった。

いまはもっと早くその世界を知りたかった、と思う。

本の中の「世界音痴」という話で、
穂村さんは、“飲み会が苦手だ”と書いている。

私も苦手、と頷きながら読む。

飲み会が苦手ではない人は、“飲み会が苦手だ”と言う人がどうしてそう感じるのか、予想できるだろうか。 お酒が好きじゃないから?お酌したりされたりが嫌だから?集団でのクロストークになって話しにくさを感じる?

飲み会が苦手、にもいろいろあるだろう。
かくいう私は、穂村さんのこの言葉に深く共感した。

飲み会が苦手である。友だちにそう云うと、飲み会なんて、ただ自然に楽しめばいいだけじゃないか、と不思議がられる。だが、私はまさにその「自然に」楽しむことが、いちばん苦手なのである。(30ページより)

そう、そうなのだ。
穂村さんの言うように、「自然に席を移動する」も苦手だし、あとは「自然に話に加わる」「自然にトイレに行く」「自然に料理を食べる」も苦手だ。もう、何が楽しいのか。

そんな人間にはあなたも「だから自然でいいんだって、リラックスリラックス」とでも言いたくなるかもしれない。

しかし、私は自覚している。
自然に楽しめばいいんだ、誰も私のことなど気にしちゃいない。よし、自然に自然に。

ほら、「自然に食べよう」「自然に話に加わろう」と一生懸命に自然さを求めている時点で、自然じゃない。それは不自然と言う。

穂村さんは飲み会が苦手というほかに、「15年生活している部屋の窓が友人によって初めて開けられて、衝撃を受けた」「毎年半袖に着替えるのが町の人々より1日遅れる」といったお話を書いている。

思いつかないわけではなく、ぼんやりしているわけでもない。けれど、世界から「隔てられている」。

「ほむらくんは、ぼんやりしてるから」と云われることもある。「だから、もう半袖でいいことに気づかないんだよね」と。ええ、まあ、とその度に応えてきたが、本当は私はぼんやりなどしていない。むしろ普通の人がなんとも思わないことまで、ひとつひとつの出来事を痛いくらいに意識しているはずだ。「自然さ」を奪われた者は、そうしなくては生きていけないからである。だが、どんな努力も「自然さ」の代わりにはならない。人は私の「不自然さ」にあるとき必ず気づく。「魔女狩り」のない時代で本当によかった。(34、35ページ)

引用が長すぎてもはや引用と言っていいかわからない。「わっかる〜〜〜」と共感の念が深いあまり、自分の書いた文章だったらよかったのになあとさえ思う。穂村さん、すごい。

ぼんやりしているつもりなどないのだが、他の人が世界に溶け込んでいるのを見ると、自分がひどく「ぼんやり」「どんくさいやつ」に思える。そして、世界から「隔てられている」気分。

私の場合、慣れると世界に「近づく」こともある。新しい職場での動き方や、物の使い方などに関しては。

それでも、時々人から笑われたりすると、深く傷つく。やっぱり私はだめなやつなのか、と思いそうになる。

だから私が「世界音痴」という穂村さんの言葉を知ったことは、私の世界をワントーン明るくしてくれた。

世界音痴か、世界音痴。世界音痴。
なんと言っていいかわからないこのもやもやに、名前をつけてもらった気がする。


#エッセイ #世界音痴 #本 #穂村弘



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