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その言葉を追う―池田晶子という「場」―

最近足を運んだ書店で、どうしても気になる本があった。若松英輔氏の『不滅の哲学 池田晶子』(亜紀書房)である。

表紙を見てまず「あっ」と立ち止まった。挿画はまちがいなく、西淑さんのものだ。奥付で確認したらやはりそう。私の好きなイラストレーター、西淑(にし しゅく)さんが手がけている。

最初の数ページをめくって、もうどこか購入を決めている自分がいた。若松氏の著作をまだ読んだことはなく、この本で取り上げられている池田晶子のこともよく知らない。以前読んだ本で少し引用されていたかな…と、あいまいな記憶があるだけだった。

それでも強烈に、この本に惹きつけられている。いや、この本に「見られている」という感覚のほうが近い。興味があるかないか、読みたいかどうか以前に、この本をレジへ持っていって購入することは決まっている気がした。

言葉と共振する魂

このところ、「書く」ことに対して違和感のようなものがあった。自分は本当に自分の言葉でものを考えているのか、それを形にしているのか。話す言葉と書く言葉との隔たり、手書きで紙のノートに書くこととインターネット上に書くこととの違い。さまざまな点で、自分が「書く」ことに対して納得しかねていた。

これは書かなくては、と感じたことも、数日後に見返すと取るに足らないものに思える。どうして自分はこうも語彙力がないのだろう、と悲しくなる。論文を読み慣れている人、書き慣れている人の文章はとても読みやすい。しかし読んで理解はできても、同等の表現力を自分はもっていない。

「発音できない言葉は聴き取れない」と英語のリスニング練習で教わった。シャドウイングを積み重ねるうち、それはそのとおりだと感じたが、日本語の表現については勝手が違うように思う。「発せられなくても、読めるということはある」、裏を返せば「読んで理解できても、自分は書けない」という恥ずかしさを感じていた。

学生時代にもっと研究・論文製作にのめりこんでいたら違ったのだろうか。公的な文書を書く仕事をしていたら、違ったのだろうか。そんな考えても仕方のない「たられば」を数えてしまうのだった。


前置きが長くなったが、このような私の恥ずかしさや後悔(意味のあるものはどうかはともかく)を吹き飛ばしてくれる文章に出会った。

埴谷雄高の『死霊』序文を池田晶子が自作(『オン!』)に引いているのだという。しかしそれを「私たちは彼女の言葉として読んでよい」と若松氏はいう。そこに続けられているのが、この文章だ。

引用する言葉と共振する魂がなければ、このような言葉を引くこともできない。引用もまた、創造的な営みである。 (p.117)

一瞬で、救われた思いがした。とくに「引用する言葉と共振する魂」という言葉に。

私はこれまで、本を読んで端から端まで引用したくなることはあっても、自分なりの言葉で語れないことを恥じていた。何が響いたのか、どう気づかされたのか。読み手の自分に生まれたものを、人真似ではない言葉で語るべきだと考えていた。

そこにはおそらく「書き手」が生産者、「読み手」が消費者(あるいは受給者)という意識があったのだと思う。独自性があって人を惹きつける言葉を「生産」できる人に、羨望のまなざしを向けていた。

しかし若松氏のいうような「言葉と共振する魂」がなければ、何を読んでも言葉は単なる文字情報である。「読む」とは本来、それをする人間1人ひとりにとって創造的な行為であり、その発露として引用をすることもまた創造的な行為なのだと、納得できた。

何かを読んで、共振する魂が自分にはある。違う言葉に変えることができずとも、たしかにある。それを認められたとき、「読む」自分をさらに楽しめる気がしたのだった。

池田晶子が語る「書くこと」と「考えること」

「それはどんな本ですか」と人から聞かれたとき、納得のいくように伝えるのはなかなか難しい。『不滅の哲学 池田晶子』もその例に漏れず、近しい人にはおすすめしたいけれど、「こんな本で」と言葉にするのは苦労しそうだ。

著者のことを自分はどれだけ知っているか、著者がどのようなつもりで書いたかをどれだけ理解できているかの2つがポイントになると思う。それでいうと、私はほとんど何も伝えることができない。若松氏の著作はこれから拝読するつもりだし、本書のあとがきまでしっかり読んだところで、私が読み取れていることとは、いかほどなのか。あまり自信はない。

それでも、まだわからないなりに若松氏の考えや池田晶子の考えを知りたくて、自分のノートに写し取った文章がいくつかある。つまりやはり引用だが、これも「創造的な営み」の一歩であると願って、いくつか載せておきたい。

自己主張や「意見表明を表現の原動力としている人は多いが、そんなものが言葉(ロゴス)の正確さと両立するわけがない」、だがそれでも書くのは「言葉=存在の側からの促しを時に受けるからで、それ以外には、この世でものを書く理由など、少なくとも私には存在しない」(『ロゴスに訊け』)と池田はいう。 (p.132)
彼女にとって「書く」とは、日常生活とはまったく別な次元の営みだった。書き手にもとめられているのは、自分を顕わすことより、言葉が顕れる場になることだ、というのである。自分が言葉を書くのではない。言葉が自分を用いるのである。それが彼女のもう一つの「日常」の経験だった。「精神もしくは自己の方こそ言語にとっての道具なのであって、その逆ではないと知ること、これが、本当の人が書く理由である」(『ロゴスに訊け』)と池田は書く。 (p.133)
「悩むな、考えろ」と再三にわたって池田は書く。悩みから解放されたいと思うなら、悩むことをやめて、考えよう、という。池田にとって悩むことは、考えることの対極にある。考えるとき、人はどこまでも創造的に想像力を用いることができるが、悩むとき、人はむしろ創造性を見失ってしまう。  (p.138)
 考えることは、悩むことではない。世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」が考えられていなければならないからである。……(『残酷人生論』)(p.139)
「考える」ことができていない、と彼女は読者を責めているのではない。むしろ、考えている自分を、悩んでいるなどとおとしめることはやめようではないか、というのである。 (p.139)

長文を何カ所も引いてしまったが、どれもとくに私を揺さぶった箇所である。しかし衝撃を与える揺さぶりではなく、「知っていた」、「そうであった」、「思い出した」というような懐かしさを伴う揺さぶりだった。

若松氏が言及する池田の言葉は、彼女の著書『あたりまえなことばかり』からのものが多いように見受けられる。図書館ですぐに借りられたので、そちらも読みはじめた。

「考えるとはどういうことか」という章の中に、このような一節がある。

私が考えているのは、決していわゆる難しいことではないんです。というのは、読者の反応を見ますと、「わかる」という一言で返ってくる場合が多いんですね。つまり、わかる人にはどういうわけか必ずわかる。そのことは私も最初から確信していて始めた仕事だったのですが、これは裏から言うと、わからない人にはまったくちんぷんかんぷんかなというところもあるわけです。 (『あたりまえなことばかり』p.76)

やはりそうか、と膝を打った。安心したというべきか。池田晶子の言葉は、その思索を若松氏がひもといて引いているということもあるが、それでもなぜだかすとんと理解できるように感じていた。

このあとに池田は、「わかる/わからない」の認識について、そして自身の考えていることとの関係性に触れている。著者自身に、その言葉が「わかる」(あるいはわからない)理由を説明してもらうというのは不思議な体験だが、これでさらに彼女の著書を読みたくなってしまった。

書くことに意味はあるのか

ここ数年の私は仕事を通じて、そして趣味の文章投稿を通じて「やっぱり自分は書くことが好きなのだ」と感じていた。いや、そう感じたかっただけかもしれない。今は書くことよりも、「考える」ことのほうが圧倒的に合っていると感じる。書くことにかけての自信はないけれど、「考える」時間と質ならば、そこそこに保っているようだ。

考えたことを、納得のいく文章に書きしたためることができれば理想的なのだけれど、どうもうまくいかない。もしそれを「多くの人が読んでくれる」文章にまで仕立てようとすれば、もっとうまくいかないだろう。

「言葉」という言葉ほど、つかめないものはない。「言葉」の本質とは、何だろうか。本質的な言葉を用いずとも、書くことはできてしまう。しかしそれは、自分が本当に願う「書く」行為なのだろうか。

このようなことをずるずると考えていると(池田晶子には「悩んでいるだけ」と言われるかもしれない)、途端に何も言葉にできなくなる。言葉にしようとすることが無意味に思えて、立ち尽くしてしまう。

私はきっと、意味を見つけたいのだろう。自分なりの言葉でも、引用でも、とにかく「何かを書く意味」を。書く意味として今のところ正当に思えるのが、池田のいう「言葉が自分を用いるから(書く)」というものだ。

書こうと思えないときは、言葉が私を必要としていないのだとみてもいいかもしれない。道具としての私が機能しない状態であり、言葉はほかの誰かを用いる。その誰かに宿った言葉を私は読み、時にはっとする。これは私に宿っていたかもしれない言葉だと、どこか落ち着かない気持ちになる。

きっと、今の私は「読み手」なのだろう。ときに読み手としての創造性を発揮し、書き手に宿った言葉という種を、自分が根を張る場所にまく。ときに、その種をさらに遠くまで運ぶ。種に水をやった新たな書き手や、読み手が生まれる。

「書く」という行為に、もはや誰が主体かという区別は要らないのかもしれない。もちろん法律上、書いた本人や譲渡先に権利がある。しかしそこに自分が関係しないからといって、その文章とまったくの無関係と思わなくてもいい。「共振する魂」をもつ者として、ある「書く」行為で生まれたものとのあいだに、目に見えない関係を結んでいる。

書くことや考えること、そして生きること。誰もが不思議に思ったことのあるであろう事柄から、池田晶子は目をそらさない。生前の彼女は、自らの文章をどのような表情でしたためたのだろうか。そして若松氏が世に送り出した『不滅の哲学』をどのような思いで読んでいるのだろうか。その姿を想像しながら、彼女の思索をたどる冬になりそうだ。






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