見ないことにしていた自分が多すぎる/2019.02.25

今日は”考える”ということを考える。

私個人は、物事をあまり深く考えない人間だ。考えずに行動する派であるかというとそうでもない。つまり、ただ考えないだけなのだ。浅瀬で考えたことにして、それ以上深く潜らない。

人は大人になるにつれて、より深く考えるようになるものだという気がする。しかし、私の場合は大人になるにつれて浅くなった気がする。それは、考える体力を失ってしまったからだろうか。いや違う。深く潜ったところには、今まで見ないことにしていた自分がいるからだ。見ないことにしていた自分を見るだけの心の整理がまだついていないのだ。

しかし最近は、”考える”ことをテーマにした物語に引き寄せられる。特に、自分の在り方や自分自身を見つめることをテーマにしたものが多い。例えば、①考えることを放棄していた登場人物(ら)が”思考する”物語や、②自分の生き方を模索して”何者か”になっていく主人公の物語、③すでに”確固たる自分”を持っている人たちの物語に。

具体的には、以下。
①「Let's Think.」(日曜ドラマ『3年A組』より)
「考えろ、考えるんだマクガイバー。」(伊坂幸太郎著『魔王』より)
②「自分の人生を決められるのは自分だけ!」(SEEC作アプリ『ネバーランドシンドローム』より)
「何者でもない僕は考え続けなければならない。」(SEEC作アプリ『紡ロジック』)
③警察庁科学特捜班:通称STに所属する5人のスペシャリスト(今野敏著『ST 警視庁科学特捜班シリーズ』)。

物語の登場人物を追って、「考える」経験や「自分を見つめる」経験を疑似体験する。そうしていくうちに、知識として蓄積されたことがある。

「何者かになるためには、考えなくてはならない。」
と、ここで気づく。ああ、私は何者かになりたいのだ。

自分のことが分からない。しかし、分からないのではなく、分かりたくないのだと思う。過去と向き合いたくないからだ。私はずっと、過去に囚われて現実を生きてきた。やりたかったのにできなかったのか、それともやらなかったのか。今となっては恐らく分かりきったその判断を、未だ下せずにいる。

私が自分の部屋にこもらなくなったのはいつからだろうか。それは、高校・大学生ではなかろうか。自分の部屋に幼き自分がいる。自分と向き合い続けていた、じっくり考える”私”がいる。私が他人と向き合えなくなったのは、自分と向き合うのがこわいからだ。

ふふふ、というかこの文章自体が過去の自分に囚われている。
もっと軽くふわっと、目の前のことへ向かって歩き出せばいいのではないか。そう思う自分がいる一方で、まだ清算できていない過去をそのままにしていいのかとぐじぐじしている自分もいる。

この気持ちにどう折り合いをつけるのか。どう表現するのか。

私は主観がこわい。事実は一つしかないのに、視点の数だけ解釈が無数にある。しかし、それを楽しむのが人間のようだ。そんなことに私は最近気づいた。私は主観をできるだけ取り除いて、事実を持ち出すようにしていた。私の主観を否定されるのがこわかったからだし、私のバイアスを他人にかける責任が持てなかったからだ。それは、他人に私の眼鏡を評価されるということでもある。

東大生たちが知らないことを知らないと、素直に言えるのがなぜなのか、私は知っている。知らないということに、コンプレックスがないからだ。そこに学びがあることを彼らは知っている。

翻って私はどうだろう。知らないことを知らないと言えない。それは、知らないことを責められるからだ。知らないと怒られる。知らないことにコンプレックスを抱いているからだ。知らないと怒る人たちこそ、知らないことにコンプレックスを抱いているのだが、それはまた別の問題である。

自分の時間を大事にしよう。自分を見透かす人といると疲れる。それは、常に姿勢を正していないといけないから。しかし、その緊張感はマイナスなことばかりではない。いずれ、その緊張感は習慣になり、本質になるだろう。

話がポンポン飛ぶ。連想ゲームは得意だ。しかし、まとめなければならない。私はいい文章を書くらしい。しかもすごいスピードで書くらしい。これは、続けるほうがいいのではないか。私は直接話すよりも、書き言葉にする方が好きだ。それは、私を作れるからだろうか。しかし、素直になれる気もする。伝えたいことを、齟齬がないように伝える順番を考えられるからのような気もする。ああ。まとまらないね。

しかし、音楽は好きではない。なんでだろう。鑑賞するポイントが分からない。音楽がまとまりに聞こえないからかもしれない。コンサートは気が散る。音が複数あるから。それぞれが一本ずつ聞こえるということもないが。

考えることは人にしかできない。私は人を考えたい。
もっと抽象的な概念としての人を考えたい。
それは学問だろうか、個人としての人ではないのだ。
私は評価されたくないのだ。透明人間になって、人を考えたい。この人はこういう人で、あの人はああいう人で。うーんでも、その先に見えるのは何だろう。それは、ドラマとは違うのだろうか。私は何を根拠にそうしているのだろう。どこに向かって生きていきたいのだろう。

というより、”考える”ことを人に任せるのは楽だ。”考える”ことを放棄すれば、責任を負わなくて済む。
というより、私は考える人ではなくなってしまったように思う。

考えるだけではない。表現しなくてはいけない。考えることは疲れる。考えずにいれば、誰かの判断に乗っかっていれば、責任を負わなくて済む。

思いつくままに、書いてみればいいのかもしれない。思いつくままに、動いてみればいいのかもしれない。天才型か努力型か、ということだ。思いつくままに、が難しいのならとどまる必要はない。考える、動く必要がある。

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下書きはここまでだった。
今の私と重なる部分も、異なる部分もある。
冒頭の私へ一言。

「これだけ考えてるやつは、考えてるやつだよ。」

2020.01.17

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