#3 わきみち堂って何? 後編
3回に渡って記しているわきみち堂の解説投稿。
今回が最終回です。
最後は自分がやれることに於いて、どういう対象に対して、どういう風な意味合いを持たせることができるのか、などを自分なりに考えてみようと思います。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。
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[前編]
1.パン屋として
1-1.パン遍歴ということ。何故パン遍歴が必要なのか?
[中編]
2.居場所、交流、発信の空間を設けること
2-1.誰の居場所であり、何故その居場所を設ける必要があるのか?
2-2.何故芝居や音楽なのか?また芝居や音楽をそこで上演する意味は?
2-3.表現作品とはどういうものか?また表現作品をそこに展示する意味は?
[後編]
3.わきみち堂における付加価値
3-1.自分なりのパンを、味わって食べてもらうことで、相手の感性を引き出し、時に純粋な感動を得たり、時に世界を広げてもらいたい。
3-2.パン屋としての自分なりの姿勢を真摯に貫くことで、自分を卑下することなく空間に集う人達(特に若い世代や子供)と真剣かつ対等のコミュニケーションをはかれるようになる。お互いがお互いを助ける関係性が生まれる。
3-3.地域的(生まれ育った土地への愛着や繋がり)にも、歴史的(伝統的なものの継承)にも、革新的(画期的な新しい取り組み)にも、文脈としてそぐわない自分がいる。
まずは自分の[個としての]文脈を築いていく事を最初の付加価値と定め、上記の2つの行為の継続によってその付加価値を獲得し、さらに[個→個の集合体として]そこから生まれていくものを発信することで、地域的文脈までを築いてみたい
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3.わきみち堂における付加価値
3-1、自分なりのパンを、出来るだけ丁寧に味わって食べてもらうことで、相手の感性を引き出し、時に純粋な感動を得たり、時に世界を広げてもらいたい。
まず最初に自分なりのパンとは?と言う事ですが、その答えを直接的に説明すると
『自分のパンを作っていく』と定めた時から4年半程の間、別の仕事をしながら、はたまたパンの試作に何度も何度もつまづきを繰り返しながら、最近ようやく暫定レシピを定めた8種類のオリジナルパンです。
自分が敢えてオリジナルパンと記すのは、既存のパン作りとややアプローチが異なるからです。
一般的な既存のパン作りに於ける商品作りのアイデアとは、おそらくですが
○まず何々パンというもの括りがある→その何々パンを自分はどうしたいのか?→シンプルに美味しくしたいor特徴的な美味しさにしたい→その為にはどういった素材を使い、どういった製法をとった方がいいのか?
と、大体はこんな流れで考えが組み立てられるんじゃないかと思います。
自分の場合、新しいパンに対するアプローチの一歩目がまずちょっと違います。
自分の場合まず何々パンという括りより先に、テーマやモデルを定めます。
例えば
○何々という人をモデルにパンを作る→その人をパンで表すとどんな味になりそうか?→モデルのイメージに近づける為には、どんな粉を使い、どんな酵母を使い、どんな製法をとっていくのか?→それから既存の何々パンとモデルの相性を擦り合わせる
と、こんな風な流れです。
大して何が特殊とか特別とかいう事ではないのですが、自分の場合は必ずモデルやテーマありきという事になっています。
といって、前編でも述べた通り、自分には明確な技術の修行期間があった訳でもなく、オリジナルを謳ったところで極めて強烈な美味しさのパンを作っている訳ではありません。
自分がパン作りに於いて大事にしている事は、あくまでモデルやテーマの忠実な再現という事です。
例え話として、あるやり方をすれば味の良さが際立ち、あるやり方をすれば味の良さはやや弱まるが再現度は申し分ない、そんな二択がもし存在するとすれば、自分は少しだけ迷ったあと、確実に後者を選ぶと思います。
とはいえパンは食べ物なので、美味しくなさそうなモデルはまず設定しません 笑
あくまでモデルやテーマは自分の好きな人やポジティブなテーマを設定しています(現時点では)
好きな人やポジティブなテーマを自分の感覚で再現する訳だから、その味は間違いなく美味しくないものにはならないという理屈です。
実際、その簡単な理屈はオリジナルパンの追及にかなり説得力を持たせてくれていて、ここまで8つのパンを定めてきた経緯の中で、そのそれぞれの暫定レシピ決定時に
『心の中のガッツポーズ』が発生しなかった事は1度もありません 笑
基本的に自分のパンの美味しさの特徴は、凄く美味しいとか極めて美味しいというより、しみじみ美味しいとかじんわり美味しいとかの、そういった種類の美味しさに特徴があると思います。
そして、その事は自分にとって最もらしいものに思えて、自分でも割りと気に入ってます。
ですので『オリジナルパン=特別なパン』というより『オリジナルパン=自分なりのパン』という方がよっぽどしっくりきます。
そういった流れで説明を付け足していくと、自分が考える
『パンを食べて感動してもらう』というものは、必ずしも胸を震わすような種類の感動というものではなく、どちらかと言えば、パンを食べた後で何となく心が温かくなった気がするとか、そういう些細な感動の形であってほしいと思っています。
また『相手の感性を引き出す』という事に於いても、似たような形に行き着く気がします。
自分の作る大抵のパンは、表面上に味のくっきり現れたものではありません。
確実に、しっかり噛み込んでいかないと本当の味と美味しさにたどり着かない類いのパンだと認識しています。
食べて頂く方には、しっかり噛み込んでいく事で初めて現れる味や美味しさがある事を知ってもらい、その事を実感して頂いて、食べる事をきちんと自分の力で楽しんでいって欲しい。
そして、8つのオリジナルパンには、それぞれ自分との間にストーリーというような関係性があります。
誰かにそのパンを食べてもらった時、もしもその誰かにとって、そのパンが響き合うものであったとしたら 、是非そのパンに定められたモデルやテーマにも目を向けて欲しい。
自分の味覚(感覚)に呼び掛けたものが、そもそもどういったものなのか、どういった存在なのかを知って欲しい。
自分の触角で感じ取ったものを頼りに、そこから自分の世界を広げてほしい。
たかがパン、されどパン。
そこから広がっていく世界はその人の人生を豊かにする可能性を確かに秘めていると思います。
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3-2.パン屋としての自分なりの姿勢を真摯に貫くこと。
自分を卑下することなく空間に集う人達と真剣かつ対等のコミュニケーションをはかる。
お互いがお互いを助ける関係性が生まれる。
パン屋としての自分なりの姿勢とは、
『好きなものの存在や形を借りて、中途半端な自分を掛けてパンの形に表すこと』
中途半端な自分には本質的なオリジナルは創出できない。
ただ、そんな自分にも今まで生きてきた中で好きになったものや、尊敬する存在はちゃんとある。
『生まれ育った、その環境、歴史、思想、すべてぶち込んで、あらわすことができればいい』
上の言葉は、自分が好きなミュージシャン(パンのモデルにもさせてもらっている方)の唄のフレーズです。
自分のパン作りの姿勢はまさにこれです。
大層な歴史や思想はありませんが、今までもがいてきた中途半端な自分なら全部ぶち込むことができる。
そう思いました。
今は、そうして自分のやれるパン作りを真摯に積み重ね貫いていくしか、自分が生きていける道はないと思っています。
自分の真摯な姿勢を貫くことの理由は、当然パンを買って食べて頂く方々に示すべきものですが、自分にとってはもう1つそれを示すべき存在を感じています。
その存在とは、わきみち堂の空間を居場所、交流、発信の基地として利用する人達です。
自分の想いが実現化するのであれば、その空間には色んな問題を抱えた色んな人達が集うはずです。
その時、正直現在の自分では役不足という事になると思います。
まだ自分を掛けきっていない、本当の本気でない自分を痛感するからです。
そういった人達と本当のコミュニケーションをはかる為には、自分の行為に後ろめたさなんか抱えてはいられない。
とにかく何はなくとも本気である必要があるんです。
本気の姿勢が伝わって初めて、相手も本当の心を開いてくれるはず。
年齢を問わず対等で真剣かつ、そして何よりユーモアのある、そんなコミュニケーションが自然に飛び交う空間が自分の理想とするものです。
訪れる側と迎える側。
形はそれぞれ違えども、双方が切実さを携えて接すれば、必ずそこにお互いが助け合う事の可能性が生まれると思います。
自分に他人を助ける力があるなら、やっぱりそれは助けたいし、自分の存在をきちんと認めてくれる存在が居るなら、その存在の助けを借りて一緒に何かをやってみたい。
そう切に願います。
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3-3.地域的(生まれ育った土地への愛着や繋がり)にも、歴史的(伝統的なものの継承)にも、革新的(画期的な新しい取り組み)にも、文脈としてそぐわない自分がいる。
まずは自分の[個としての]文脈を築いていく事を最初の付加価値と定め、上記の2つの行為の継続によってその付加価値を獲得し、さらに[個→個の集合体として]そこから生まれていくものを発信することで、地域的文脈までを築いてみたい
自分は佐賀県有田町(旧西有田町)の片田舎に生まれ育ちました。
とはいっても、家庭の事情により幼少期は町内を転々と移り住んだり、思春期を経て青年期には、気まぐれにふらっと都会に出てみたりして、まったく地域と寄り添うことをせず今に至っています。
だから、正直自分の田舎とか地元とかいったものに、自分の意識の範疇としては愛着というものがほとんど存在していません。
それが寂しいことだなぁと思う事もありますが、今の自分ではどうにもできないと諦め感があるのみです。
田舎の町なので、農業が割りと盛んなはずですが、自分の実家は農家ではなく、農業に特別関心も持たなかった為、いまだ町内の農業事情には乏しいままです。
町内には伝統的な芸能として、地域の浮立なんかもありますが(実は実家の場所は浮立の担当部落)、幼少期にひとところに落ち着かなかったせいもあって、そういった芸能とも一切縁がありませんでした。
伝統的なものに携わってみたいと思った事もありますが、何せそこには愛着が備わっていないので、思うだけ思ったあと大抵の事は記憶の片隅へと消えていきました。
ならば、1から何かを始めて自分で町起こしをしてみたら?と考えたこともありますが、如何せん何もないところから物事を考える素養に欠けている為、しっくりするような自分の考えやアイデアにたどり着くことはありませんでした。
そうなんです。上の事が示すように、現在の自分には地域に対する文脈の結び付きがほとんど何もないのです。
別に地域との文脈がなくても生きてはいけるのでしょうが、自分が生まれ育った場所と何も繋がりがないというのはやはり、それはそれで違和感を覚えたりする訳です。
おそらくですが、今回わきみち堂を地元の地域に拠点を構える事に決めた裏には、そうした違和感を払拭したい想いがあるように思います。
ですので、現在この身に備わった地域との文脈がない以上、自分は自分のやり方を通じてその姿勢を継続していく事が、
まず第一の『個としての文脈』を築く事に繋がると考えました。
その個としての文脈を継続的に築いていき、その個が自分独りではなく、それぞれの個の集まりとして影響力を持つようになった時、それは間接的か もしれませんが確かに地域的文脈の意味を持って、町を少し元気にする事も可能なんじゃないかと思ったりしています。
今回のわきみち堂としての取り組みすべてに於いて共通する大事な鍵があると思います。
それが『付加価値』という事です。
今まで散々御託を並べ立ててきましたが、そうする必要があった理由というのも、その付加価値をきちんと定めようとする為です。
ただパンを作り、ただ売って、ただ金を儲けたり、ただ有名になりたい訳じゃない。
ただ成り行き上や建前上の慈善活動として居場所を設けたい訳じゃない。
ただの金儲けや娯楽の為に、その舞台や表現展示が在る訳じゃない。
当然、弱い存在同士がお互いの傷を舐めあうだけで、自己満足の殻に閉じ籠ったまま全てが完結してしまえば、それはそれでどこか違う話という気がします。
だから、わきみち堂の取り組みのそれぞれの事にはきちんと意味合いを持たせて、物事の表面上に現れるだけじゃない、何か自然な説得力のようなものを、それぞれの取り組みを継続していく中で獲得していきたいという想いがあります。
本当に自分でも少し食傷するくらい全編に於いて、理想論のような事ばかり並べてしまいました。
気分を悪くされた方も少なくないと思います。
それでも、自分がこれから自分のやりたい事を現実的に実行していく為には、自分で示し自分で課した道しるべが必要だったんです。
曖昧でモヤモヤしたものを多少強引にでも言葉にして自分の解る形にしていかないと、単純に前に進む事が出来なかったんです。
ですが、今回の3編の投稿で現時点吐き出せる物はほとんど全部吐き出させてもらったので 笑
後は身軽になった身体とともに、現実の行動へ注力していくのみです。
最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
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終わりに
わきみち堂って何?のもう一つの解答。
屋号の由来について少し触れておきます。
わきみちとは
王道でも正道でもないが、邪な道、邪道ではなく、
一本隣に逸れた、ただの脇道
という意味合い。
尻尾に堂をつけたのは
今回のわきみち堂の取り組みに於いて、最初のパンの試作で思い悩んでいた時に、たまたま何かの縁で出会い知り得た方
『永井隆』さんの
終の棲家[如己堂]からインスピレーションを戴いたものです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E9%9A%86_(%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E5%8D%9A%E5%A3%AB)
https://www.nippon.com/ja/features/c02301/
http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa3.html
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