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40歳を迎え下積み時代が終わる感覚。これからがようやく世に価値を提供する成長段階へ。

三十にして立つ。四十にして惑はず。

 20代の頃から・起業が早かった・老け顔・態度の大きさなどから年齢に見合わないとよく言われてから20年弱、最近ようやく見た目と実年齢が追いついてきたと言われるようになってきたと思ったら40歳を迎えました。経営者歴もまもなく18年目。10年一区切りではないが、孔子の「吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。」という言葉をここ1年間でよく考えるようになった。色々と振り返りながら考えてみると「三十にして立つ。四十にして惑はず。」は、本当にそのまんまになってるなと感じたのだが、それは何故なのかを検証すべく振り返ってみる。

20代「とりあえずやってみる」

 大学進学を機に18歳で農業と出会い、20歳でインターンをしていたベンチャーで八百屋の立上げをさせてもらい、21歳では八百屋の店長、22歳で退職そして起業をするという不思議な大学4年間を過ごしていた。当時も今もこの4年間の説明は理解してもらうのに時間がかかるのだが、今の私の礎はこの4年間に凝縮されているのできちんと説明する場合は避けては通れない。が今回は避けて通ります。最初の起業では農業と大学生の出会いをうむ事業を行い、その後農業支援NPOの立ち上げを行ったりしていた。弁と想いだけは達者だったので50代以降の諸先輩経営者の方に可愛がってもらうことが多く、本当に様々な経験をさせてもらっていた。この頃のマインドを一言で表すと「やってみる」に尽きる。お金もなく仕事も欲しいこともあったが、小さな案件だろうがなんだろうが依頼されたらやれそうになくともやってみる!というのを続けてました。今も良く思い出すのは、築地の青果仲卸の小売店に関わっていた際に、店長と二人でお中元のメロンの梱包が終わらず朝7時には出勤して夜中の2時ぐらいまで作業をし続けていたこと。夜になると隣のビルでビックマックセットを買ってきて二人で食べながら。他にも、今ジーパンにワイシャツとかの恰好を好きでしてますが、それは尊敬する地域プロデューサーの方に可愛がってもらっていた時にその方がその恰好をいつもしていて憧れてしているのですが、その方に旅費を出してもらいその方の実績を見せてもらうことができたことなども鮮明に覚えている。そんな学生みたいなノリと体力とアイデアで色々とさせてもらい、全国につながりのある方が増えたり今も続くマルシェが始まったり様々なご縁が広がり、多様な経験をさせてもらいました。ただ、まだまだ実力も経験も不足している中で失敗や失礼など不義理をしてしまったことも多くありました。
 20代でやってきたことはあげるときりが無いのですが、30歳を迎える前に自分の「価値」はどうしたら高まるのか、得意分野や特性は何かを考えた結果「プロデュース」という進め方が向いているのではないかと感じ舵を切った。

 今の時代は働き方改革なども言われているので次の世代には言いにくい部分もあるけど、20代の時にとにかくがむしゃらに動き続けて働いたことが大きな財産になっているのは間違いない。能力の向上、ご縁のひろがり、やってみることの大切さの体感など効果はきりがないが、とりあえず仕方なく仕事をしていたり、夢は語れど目の前の与えられたことに全力を振り切れない人などは経営者でもサラリーマンでも30代、40代でどんどんとついていけなくなるのではと勝手に感じている。それぐらいに20代は吸収する時期であり「毒を食らわば皿まで」は言い過ぎかもしれないがまだ見えない自分自身に向かって経験値を積むターンだと思う。俺はこんなことは知っているとかもっと出来るとか言う前に目の前のことを1つ1つ積み上げていく時間というのは大事。あの大谷翔平だっていきなり160kmの球は投げれないしいきなりメジャーリーグでホームラン王をとれるわけじゃない。

30代「流れにのる大切さを知る」

 さて「プロデュース」に絞ると決めたことでそうではない仕事とは縁が離れていき、より価値が発揮されやすい仕事と向き合う時間が増えてきた30代。この10年間で一番感じたことは「流れを理解して乗ること」の大切さ。なんでもかんでもやってみよう!の20代を経てプロデュースに絞り活動してきた中で様々なお話をいただきましたが
・会社の状態
・自分の状態
・経験から来る直観
の3つをベースにして、いただいたお話は大きな流れの中で正しいのかそうではないのか(仕事の内容が正しいとかではなく受けることがという意味です)を考えるようになりました。それらも思い返すと20代でも「ちょっと違うかもな」と思いつつ受けていた仕事は結果を残すとこが難しく続かないことが多かったです。もちろん実力不足なだけのこともありました。流れの中ではまっていき実施している事業は1つ1つが大きな花を咲かせなくとも次につながっていってます。

縁と発信がつながりを生む

 もう1つはやはり縁ですね。これも流れに類似していますが様々な流れの中で色々な方に出会います。そして仕事というのはこうした縁から生み出されていくことだと感じています。今いただいている仕事もどういうご縁が何層にもつながっているのかほとんど全て説明ができます。あの時ああしたからこれがあり、その中でこういう人と出会ったから巡り巡って今のこれがあるなど。こういうご縁で大切なのは①何を発信しているかと②タイミングは今ではないかもしれないということ。①の何を発信しているかについては、どんなことをしたいのか目指しているのかなどを常にその時その時に発言をして想いを伝えられているとその方とのご縁から違うご縁が生まれることが多くあると感じました。伝えなければ伝わらないという当たり前のことですが日本人は意外とみんなシャイなのか言わないことが多いかもったいない。②のタイミングはその時の出会いからは何も生まれなくても、発信したことなども重なり数年後とかにふと連絡を貰って仕事につながることが出てきます。なのでご縁というのは即効性のあるものではなくこれもまた大きな流れの作用の1つなのではないかと考えます。

 話は戻りますが、流れに乗るということで30代を振り返ると、大きな流れの成功の1つは「東神楽町」での事業展開。一方で多額の勉強代を払う形になったのが「SouseiMarche」事業(これに関しては次の記事で書きます)。東神楽町に関しては32歳の時に初めて町長とお会いしてから今ではどっぷりと地域商社や廃校利用などへと展開しそれを見て他の自治体からも声をかけてもらえる状態にまで成長してきました。実はこれも別の人との出会いから生み出されたものでその方との出会いも私が農業支援NPO立ち上げることになった出会いからでその出会いも・・・・と、東神楽町の町長に仕事を依頼してもらえるようなタイミングで出会えるために元を辿ると22歳ぐらいまで遡ったりします。

 20代で培った経験を30代では流れという感覚にフィットさせていきながら事業を構築しました。繰り返しになりますが、がむしゃらな20代での数多くの経験があってこそだと思うのでやはり良かったと思います。そうした中で流れに沿って事業をしていく中で「プロデュース」の中でもより価値を出せそうなことに絞ってたどり着いたのがまさに40歳を迎えた年でした。ふわふわと頭の中で整理をしていたものを2023年から東神楽町事業からの派生やマルシェの次の展開など見えてくる中でやるべきこととして「農業支援」「マルシェ」「地方創生」の3事業だということが自分自身でも腑に落ちしっくりと来ました。会社の方向性が「小学生のなりたい職業1位を農家にする」ことなので全事業が農業支援ではあるのですが具体的なプロジェクトベースでは大きく3つの1つとして打ち出しました。

40代「成果を出す」(仮)

誕生日が年末ということもあり年末年始でこの腑に落ちた事業整理と40代のこれからをどうしていくかを考えていました。3事業に絞ることで会社全体のデザインも分かりやすくなり説明もしやすくなると感じたのでこれは今の直観では間違ってはいないはず。そして孔子の通りに40にして迷うことが無く自立しこれから進むという状況になりました。ではこれらを40代としてはどう扱うのか、それが「成果を出す」こと。これは20代の時から感じていたことですが、関わらせていただいていた事業などで一定の成果は出ているとは思いますが私の中では成果を出せた!という達成感はありません。これは目指している完成形が大きすぎたり遠すぎたりするのかもしれませんが、感覚としては目指すべき頂に向かっている最中なので途中の評価を意に介してないからかもしれません。ただ40代ではこの感覚から一転、成果を出せた!という達成感を味わえるような仕事の内容にしていきます。そこにはより多くの方々に価値を提供できている姿がはるはずです。

 20代の頃にある人に占ってもらったら30歳までは不遇で40歳以降一気に開花するということを言われたり、他の手相占いでは徳川家康と同じ手相だと言われたり(こちらも大器晩成)としているのでそれを信じて邁進していきます。10年後は子曰く、「五十にして天命を知る」とのことで五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できたとのこと。そうなれるような生き方をしていきます。自分自身に乞うご期待。


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