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今、振り返る19世紀からの思想の歩み(11) 結果の結果、その結果

 今を生きている、というのはなかなか厄介というか、それ自体はいいんだけれど、今しか見えない。しかも見ているものが、人それぞれである。何がどう議論されようとも、必ず反発がある。それで結構と思うこともできるんだけれど、思考放棄のあげくではかなわない。極端な表現だが、なんだってありだ。
 そういう場合、欲求不満を解消するやっつけ言葉を見つけて言えばよい。それで溜飲を下げる手合いがいるだろう。ネットなら、偉そうなことを言って、他人の意見をバカにしくさった言葉を投げつけ、自己満足が得られるだろうからね。一回やって止められなくなった人もあるだろうと思う。何しろ誰からも特定されず、叱られることもないんだから。成績や偏差値や学校名で序列づけられた過去とか、今の不満とか、少しでも、ほんの瞬間でも、解消できる。
 もし、そうであるならもうやめませんか。違うことを考えて欲しいと思うのだ。誘惑に当の本人が負けているのではないかと思うからだ。「自由の意味」をここでじっくり考えて見ようではないか、と声を掛けたくなってしまう。

 話は余計だったかもしれないから、続きで本題に立ち返る。自由社会としても、様々な制約があるのは当たり前。社会秩序とか、ルールというものが無くては野放図な、無秩序、危なっかしくて外も歩けないことになるのは誰も分かる。では、秩序だっていればいい?秩序って、金縛りにあっていることを意味することもある。一概に自由があるかどうかという議論にはならない。それが現実である。
 自由について、本格的には、ジャンジャック・ルソー(1712年~1778年)の主張がある。18世紀、誰でも知っているフランスの思想家だ。周知のことと思うが、彼の『学問・芸術論』(1750年刊行)は、彼を最初に有名にしたのだが、後に「よくいって平凡なもの」(1764年の「はしがき」で、平岡昇訳)であるという。『人間不平等論』(1755年刊)以下へと続く彼の思想の発展を鑑みれば当人としてみればそう言いたくなるであろうし、この議論はルソーの独創ではなく、知識人にはすでに話題に上っていたことでもあるようだ。
 しかしその辺の詮索はとも角、実に若若しく、邦訳でも、ヴィヴィッドでワクワクする。余計なことだが、正直、ぼくは15~16歳の時これを読んで、圧倒的な影響を受けたのだった。学問や芸術に対する基本的なイメージはここに発したということを、久々に紐解いて有難いことだと思わずにはいられない。
 基本的な美徳を、「学問・芸術の発達」が見失わせて、持って回った知識と享楽的な文化に導く。それは不平等の起源であって、道徳の堕落と併行するものだという。言うまでもなく、ルソーは人間の平等を唱えた思想家であり、その意味でまことに近代そのものであろうと思う。当然、「自由」は、ルソー思想の前提だ。

 そして、産業革命の時代、資本主義が「先進国イギリス」に根付き始めた時代になると、非常な勢いで人々の暮らしぶりや社会のあり様が変わっていく。新しい技術と土地と労働力を獲得して、産業中心、工場中心の会社を営んでいくことを欲求する人には「お金」が必要である。
 お金すなわち資本を稼いで、ドンドン突き進んでいくというのは、いつまでも土地にしがみついていてはダメで、仕事へ抜本的な転換が必要だ。多くの人を長時間働かせ、利益をため込んで事業を維持、拡大することを考える。やれるだけやる。農村から離れ、自分の周りに集まる田舎の人々は大歓迎、というわけである。
 しかしながら、弱小の少年を始め、無知文盲をそのままに新たな事業などできはしないし、ぼろを身にまとって極貧の暮らしは続けられないし、「働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりじっと手を見る」と歌った石川啄木(1886年~1912年)の一首が頭をよぎるが、1日14~15時間働いても、なけなしのお金しか与えられないのでは、先行き真っ暗である。
 詳しくは当時をうかがい知る文献に困ることはないからお任せするが、働く人たちが声を上げるのは当然で、中には荒れ狂う状況が生じたりする。資本家も読み書きができ、新たな技術に対応する若い労働力の確保という課題に直面する。こうして、法とか契約という社会的取り決めが公私にわたって重要になってくるのである。

 その初期資本主義の産業、工業の勢いが、弱者をいたぶり、弱者からできるだけ多くの利潤を荒稼ぎすることに狂奔する一方では、機械の打ちこわしを筆頭に、都会を中心とする社会全体が荒れ模様になるのは当然だろう。この辺が日本と大いに違うところで、「革命」と称する急進的な主張が顔を出す。「革命」は、イギリスでもフランスでも、歴史を動かしてきた非常概念である。
 現状を厳しく糾弾する考えや主張は、労働する人間を動かす。分けても、論理というか理屈をつけて訴える。特に1776年のアメリカ独立宣言が、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文があったし、フランス革命(1779年~1795年)の「自由・平等・博愛」があるではないか。
 だが、宣告=実際になるには時間が必要だ。上の宣言など今もって実際とは言い難い位である。だからと言ってその大きな意味は大きいものでこそあれ、無くしてはならないことは言うまでもないのである。いやいや、ことによると無くなってきていることに気付くべきであるかもしれない。

 なぜなら、CMなぞ典型的だが、巧みな映像や音楽がテレビから流れ、新聞を中心とする報道は、どうなるこうなるという予想記事で一杯になり、原因究明という場合も、どうなるこうなる式の論調の為のもので、本格的とはお世辞にも言いかねる。長い年月、すなわち数十年かけて、それがなに不思議でなく、当たり前になってきたから、ほとんど疑問にすることができなくなった。
 点数付け、序列づけ、あるいは食べ物紹介、売り物紹介に奔走するのが日常茶飯になり、みっともない姿かたちが映像に流れる。電波や報道に接するたび、一体何を考えているのだろう、と思わざるを得ないのである。言うまでもなく、いい番組はあるんだけれども…。困ったものだと感じる人びとが決して少ないとは思えないのだが、ことに日本を思う時、もう限界線を越えてしまったのではないか、とぼくは思っている。ちょっとキツイかな?
 なんかいも繰り返すことになるが、このツケは前世紀から、あることをすっ飛ばした結果で、それがそれ、沢山の見事な発言を受けながら、その結果の結果ということを、これからぼくは述べていきたいのである。

和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com です。ご連絡ください。     

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