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「贈与経済」は「怪獣使いと少年」を救えない(むしろ追い詰める)という話

 久しぶりにある本を読み通して、うーん、さすがにこれは……と頭を抱えこんでしまった。その本がダメだというのではなく、この本が出版されてしまう背景のようなものに、もう少しどうにかならないものだろうか、と頭を抱えこんだというのが正確な話だ。この年齢になって、誰かのコンテンポラリーな仕事を批判して自分の株を上げる……みたいな仕草になってしまうと寝覚めが悪いので、絞り込めないように書くとそれは少し前に出版されたブロックチェーンを用いた「贈与経済」の構想について書かれた本だ。内容的には、この種の「オルタナティブな経済」の話でよく見られる地域通貨を用いた独自の「贈与経済」圏をつくる……というビジョンを批判的にアップデートしたものだ。この種の議論が好きな人向けに説明するとモースの『贈与論』における「ハウ」(精神的負債)をブロックチェーン上に記録する、というのを基本に、贈与の連鎖が共同体の関係を固着しないシステムが工夫されている……と書くとイメージし易いだろう。

「やっぱり、人情に溢れた地域の共同体ってハートフルで良いよね」という物語で誤魔化さずに、村落的な相互監視のリスクにしっかり向き合っているのはとても好感が持てるのだけど、やっぱり無理がある。ここでは「いいね」に毛の生えた程度の(もちろん、主張する当人としてはその「毛」が決定的だということになるのだが)記号のやり取りを基盤にした「贈与型経済」が提案されているのだけれど、その効果は「多少の緩和」に留まっていて、結局は中国の信用スコア(これは広く知らているように、情報技術を用いた相互監視のディストピアに社会を接近させる制度として批判されている)とあまり変わらないものになっている。長くページを割いて一生懸命、これは中国の信用スコアとは違うんだと説明しているのだけれど、これがまたよくある話だがその微細な違いを丁寧に説明することで、逆に丁寧な説明をしないと違いがわからない程度の差しかないことを自ら証明してしまっている。

 要するに、ここにあるのは結局「人間関係」をその共同体内で築いていないと必要なものが手に入らない不自由な社会なのだ。それが中国の信用スコアよりも柔軟に運用され、多少リセットの可能性があったとしても(リセット自体がかなりリスクがあり、コストが高いこともあり)、あまり意味がない。

「贈与」とか「共同体」とかをロクに考えずその表面的なハートフルなイメージに依存して主張する人は、「醤油が切れたら醤油を近所の人に貸してもらえる社会がいい」というが、それは共同体の中で相対的に良い位置にいられる人のことしか考えていない発想で、弱者のことをまるで考えていない。共同体の周辺に配置され、ときに迫害され、人間関係が構築しづらい人のことをまるで考えていない。

もちろん、こうした周辺の人にも「優しい」制度を考えることはできるが、そもそも人間関係や共同体内の位置が生活の質に大きく関与する社会の不正義と不平等を、この人たちは中学社会科の教科書の内容と一緒に(おそらくは資本主義批判というロマンチックで大きな話をしたい、という欲望をうまくコントロールできずに)忘れてしまっている。

 これは一般論だが、僕の考えはシンプルだ。たとえその人がどこの誰で、過去に何があろうと100円を商店に持っていけば100円の醤油が買える社会こそが「正義」なのだ。

 『帰ってきたウルトラマン』に「怪獣使いと少年」というエピソードがある。

 ある集落に、メイツ星から漂着した宇宙人がいる。彼は地域の共同体から受け入れられず、身を隠している。彼に寄り添うのは、同じように街の共同体から迫害される身寄りのない少年しかいない。少年は身体を壊したメイツ星人のために、なけなしのお金を持ってパン屋に行く。しかしパン屋の主人は少年にパンを売らない。少年にパンを売ることで、共同体の内部での地位が脅かされることを恐れているのだ。

 少し考えれば分かることだが、この種の贈与経済の話はこの「怪獣使いと少年」の問題を解決できない。それどころか、共同体の贈与の論理こそが、少年とメイツ星人にパンを買うことを不可能にしている。果たして、この「贈与経済」が実装されたときこの街の共同体でメイツ星人と少年がパンを売ってもらえるか、都合のいい仮定や後出しの条件追加をせず、フェアに考えてみればいい。まず、無理などころか、より厳しい状況に彼らは置かれるだろう。

 『怪獣使いと少年』では、その後打ちひしがれて帰路につく少年を、パン屋の娘が追いかける。そしてパンを少年に売る。同情ならやめて欲しいと言う少年に彼女は答える。同情じゃない。自分はパン屋だからパンを売るのだ、と。さて、ここで改めて考えて欲しい。たとえどれだけ、どれが固着しないためのサブシステムが張り巡らされていたとしても共同体内の人間関係に依存した「贈与」経済と、現金を持っていけば「誰でも」パンが買える資本主義経済、弱者に優しいのはどちらだろうか?

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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