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続『葬送のフリーレン』と〈母親〉の問題

 このマガジンの購読者、いつの間にかかなり増えていて、400人を超えている。人間は現金なもので、こうなってくるとますます充実させようとか、これくらいの頻度と距離感だからこそ書けるものとか、いろいろ試してみたいとか、「欲」が出てきてしまっている。まだまだ手探りだと思うのだけれど、なんというか毎日少しずつ読んでくれている人の思考の手がかりが提供できればいいと思っている。オープンなSNSに書くと、どうしてもポジショントーク的に(書いている人間の意図とは半ば離れて)機能してしまうので遠慮してしまうようなこともここなら気軽に書けるし、何より僕自身の知的なエクササイズになっている。と、いうことで、これからもよろしくお付き合いください。

 さて、今日は以前も取り上げた『葬送のフリーレン』についてもう一度取り上げたいと思う。

 再び取り上げたいと思ったのは先週に中国、香港、台湾、韓国と僕のアジアの仕事仲間を集めて『葬送のフリーレン』についての座談会を行ったからだ。北京やソウルなどの諸都市とZOOMでリアルタイムで接続し座談会を中継するという試みだったのだけれど、これが想像以上に充実したものだった。議論の内容は動画アーカイブで確認してもらいたいのだけれど、今日はこの座談会で考えたことというか、以前このnoteに書いた同作についての批評の続き、のようなものを書いてみたい。

   前回この作品を取り上げたとき、僕は『葬送のフリーレン』の求心力の本質は、あの3人の関係性にあるのではないか、と述べた。フリーレンはフェルンとシュタルクを庇護する。しかし母-娘関係のように呪いをかけることもなければ、母-息子関係のように近親姦的な依存に陥ることもない。チーム内の役割に基づいた信頼関係に支えられている側面も強いのだけれど、ビジネスライクではなくプライベートな絆が確実に存在する。この関係性の心地よさが、この作品の本質なのだと僕は論じた。ここに表れているのは家族をつくらない、少なくとも20世紀までの中産階級の幸福のモデルとして共有された核家族のそれとは異なる形態と距離感で成立する関係性のかたち、のようなもので、さらに踏み込んで言えばそれはオタク的な「歳のとり方」の一つのビジョンのようなものだと思うのだ。
 あまりマンガやアニメに興味がない人に向けて説明すると、要するにこの作品はその外見とは裏腹に、『カルテット』や『いちばん好きな花』が扱っているような、ポスト家族的な関係性のモデルを結果的に探り当ててしまっているような側面がある、ということだ。
 
 そして先日の座談会を受けて、僕は前回論じたことに少し(いや、それなりに)、つけ加えたいと考えている。それは結論から述べてしまうと、こうした新しい家族(的だけれど、異なるもの)のビジョンの背景にあるのは、はっきり言ってしまえばものすごく「後ろ向き」になってしまっているこの国の社会のモード、のようなものだと思う。未来よりも過去に目を向けがちで、世界に新しいものをもたらすよりも、日常の何気ない喜びを大事にしよう、というよく言えば成熟した、悪く言えば老いた感性の産物ではあると思う。しかし、この書きぶりから分かると思うのだけれど僕はその結果提示されているものを、好ましく思っているし、それは一周回って未来像を提示できるものに反転するかもしれないな、と思っているのだ。

 では、どういうことか詳しく書いていこう。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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