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プラットフォームと「中動態の世界」(『庭の話』#9)

昨年末から僕が『群像』誌で連載している『庭の話』を、数ヶ月遅れで掲載しています。今回載せるのは第8回目です。過去の連載分は購読をはじめると全部読めるように設定し直しておいたので、これを機会に購読をよろしくお願いします。


1.既に訪れている? 中動態の世界

 今回は、後半の議論に入るための補論的な内容になる。同時にこれは、前号に掲載された國分功一郎との対談の延長の議論にもなる。一般的に國分の議論は、とくに『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』といった一般書の体裁を取るものは、大げさに言えばオルタナティブな社会を構想する原理を提示するものとして受け止められている。前者は消費社会を正面から、かつ原理的に批判し後者は人類が長い歴史の中で培ってきた法という概念に代表される「審判する言葉」のもつ限界を指摘するものとして受け止められている。國分の意図としても、おそらくこうした建設的な野心があったのではないかと個人的に想像している。
かし、私の考えでは、これらの試みが露呈させている問題は出版当時の受け止められかたよりもずっと厄介なものだ。

 たとえば『中動態の世界』は一般的にこう解釈されている。私たちの生きるこの近代社会は能動/受動のパースペクティブをもつ言語に縛られている。インド・ヨーロッパ語族の文法研究史を参照すると多くの言語の古語が、能動態/中動態のパースペクティブから能動態/受動態のそれに変化した経緯を持つと推測される。それは、社会が法の概念と並行して責任の概念を発達させてきた経緯として考えることができる。責任の所在を確定させるためには、自由意志という論理的には成立することができない虚構の存在を導入することが必要であるためだ。
 この視点は同時に私たちが生きるこの世界をとらえ直すことにつながる。私たちは、往々にして法の審判する言葉に違和感を覚える。それは言い換えれば自由意志と責任という、社会を運営するために導入された虚構に対する違和感だ。國分はこの違和感を同書の結末で引用されたメルヴィル『ビリー・バッド』が読者にもたらす後味の悪さに象徴させている。
 法という審判の言葉で、行為の方向と責任を結びつける今日の世界では、登場人物たちがそう行為せざるを得なかった背景を吟味することができない。たとえば不本意ながらも主人公ビリーを処刑しそのことを終生後悔していたヴィア艦長が、歴史に呪われた不自由な存在であったことを切り捨てるほかない。しかし、人類がこの近代社会への至る長い道の中で、それも極めて早い段階で切り捨てた中動態の世界を取り戻すことで、取り戻さないまでもその「抑圧されたものへの回帰」に耳を傾けることで、私たちは『ビリー・バッド』の後味の悪さが象徴する不自由さから解放されることができる。
 たとえば同書の冒頭にはアルコール中毒患者との架空の対談が掲げられているが、このような依存症に対するケアにおいては、審判する言葉はほぼ機能しない。そこに必要とされているのは、私たちが古代に置き忘れた中動態の世界を回復することだ。具体的に國分が示すのは、実質的に中動態の世界で思考していたと國分が位置づけるスピノザに依拠した現代の一般的な用法とは異なる「自由」に接近することだ。
 この「自由」という概念が厄介だ。スピノザ≒國分が提示する「中動態の世界」における「自由」は「自由意志」という虚構を当然のことだが前提としない。ここで提示される自由とは、「自己の本性に基づいて行動する」ことだ。具体的には人間の行為は多かれ少なかれ外部からの刺激に対する反応(変状)として現れる。この反応が、その人間の本質をより強く表現することが「自由」に接近することだとされる。ここで述べられている「本質」の概念がまた抽象的で分かりづらいのだが、ここではそれぞれの個体ごとに(一人ひとり異なって)存在する外部からの刺激に反応する「力」のことだと述べられている。そして、この「力」は(個体ごとに異なる)自己を維持するために働き、そのために外部からの刺激に応じて常に変化し続けている。この「力」が行為のなかでより発揮されることが、「自由」への接近と同義だという。

 ここから先は私の解釈だが、前述のアルコール中毒患者の例で述べるのなら、患者の回復に必要なのは自由意志という虚構を信じ、強い意志で禁酒することを勧めることではなく、むしろ自身が飲酒に依存することになったその背景に自覚的になることが重要だということになる。なぜならば、彼/彼女の生活(行為)が本質(力)を発揮しているとは到底考えることは難しく、それが発揮されない原因やその背景の構造を自覚しないかぎり、精神的な自由は確保されないからだ。
 同じように、前述の『ビリー・バッド』の例で述べるのなら、歴史に与えられた文脈に縛られたヴィア艦長が「自由」に接近するためには、自身がまずその歴史的な文脈に対して自覚的ではなくてはならないことになる。

 國分の一連の議論は、私たちが日常的に感じている違和感ーーそれは「法」のような審判する言葉でしか社会を運営することのできないことに象徴されているーーから出発し、ケアの現場などを通じて、具体的にいま私たちが直面している問題にまで届く幅広い射程を備えている。
 そして、ここからが本題だ。私もまた、この國分の問題提起を重く受け止めた。なぜならば、私の考えでは「中動態の世界」は既に回復されてしまっているからだ。それも、抑圧されたものの回帰というよりは、むしろ情報技術による人間性に対する侵略としてそれは既に実現されてしまっている。いや、たしかにそれは抑圧されたものを回帰させるどころか、ほとんど「解放」させたと言っていい。私の考えでは私たちは既に半ば、中動態の世界を生きてしまっている。それは少なくとも、國分の意図したものではないだろう。しかし、彼の議論を追う限り、これは中動態の世界のひとつの現れたかたであるとしか考えられないのだ。そして、この「抑圧されたものの回帰」、いや「解放」は既に経済的、政治的に(情報技術を用いて)「活用(悪用)」されているのだ。そのために、國分の一連の議論はもしかしたら本人が想定した以上にアクチュアルな重要性を帯びてしまっている、というのが私の理解だ。

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