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『夜明けのすべて』と「弱さ」の問題

映画『夜明けのすべて』については、やはり書いておきたい。劇場に足を運んだ理由は、僕がNHKの朝ドラ『カムカムエブリバディ』が好きで、そこで夫婦役を演じた松村北斗と上白石萌音がW主演をつとめる、というミーハーな理由だったのだが、これが端的に言えば傑作だった。

PMS(月経前症候群)のせいで月に1度イライラを抑えられなくなる藤沢さんは、会社の同僚・山添くんのある行動がきっかけで怒りを爆発させてしまう。転職してきたばかりなのにやる気がなさそうに見える山添くんだったが、そんな彼もまた、パニック障害を抱え生きがいも気力も失っていた。職場の人たちの理解に支えられながら過ごす中で、藤沢さんと山添くんの間には、恋人でも友達でもない同志のような特別な感情が芽生えはじめる。やがて2人は、自分の症状は改善されなくても相手を助けることはできるのではないかと考えるようになる。

https://eiga.com/movie/98942/

この映画の、特に演出面の巧みさについては既に多くの指摘があり、僕から特に付け加えることは今のところはない。だからむしろこの映画の物語面について、とくに原作小説との差異について、ここでは論じたいと思う。そして結論から書いてしまえば僕はこれは素晴らしい作品だと考えているのだけど、しかし少しだけ引っかかることがあって、それは要するにこの映画全体を支配するオブセッションのようなものについてのことだ。具体的に述べれば、この映画は登場人物の全員が「弱さ」を強制されているーーこうした息苦しさを僕は感じたのだ。だから映画がよくない、ということでは当然なく、そのことの時代的な意味について、僕は考え込んでしまったのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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