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これからの地方に必要なのは、「共同体」ではなく「社会」だという話

昨日は安宅和人さんの主催する『風の谷を創る』の会合に参加してきた。

この日の主な議題は秋学期から新しく参加してくれた学生さんたちの顔合わせと、各チャンクへの割り振りだったのだけど、少しだけ中期的な活動方針について話し合う時間があった。僕が担当しているのは全体デザインという、その名の通り運動全体のコンセプトを考え、統括するチャンクのメンターなのだけど、その立場から少し長めに話すことになった。

そこで話したのは要するに、僕たちが創る「風の谷」は「共同体」ではなく小さくてもいいから「社会」じゃないといけない、ということだ。ん? それってどういうこと? 「共同体」の集まったものが「社会」じゃないの? とか考える人も多いと思うし、人間をばらばらの「個人」にしてしまう資本主義に「つながり」を大事にする「共同体」で対抗するべき……といったことを考える人もいると思う。でも、後者の疑問について言えば、僕はどちらかと言えば逆なのではないかと考えているのだ。

そこで今日はなぜ「共同体」ではなくて、「社会」じゃないといけないのかについて少し書きたいと思う。(批評の好きな人は、昔の柄谷行人のようなことを述べていると感じるかもしれない。たしかにものすごく大げさに言えば、僕は当時の柄谷への回帰を主張している)。

日本中どこに行っても、「筋の良い地方創生」の景色は似通っている。島国らしい森と海の風景、隈研吾風の和モダン建築の道の駅(的な何か)、おしゃれなパッケージにリニューアルされた地酒、廃校を利用して作られたコミュニティーセンターとそこに東京の識者が招かれて開かれる環境問題と地方創生のワークショップ……。もちろん、「だからダメ」という話なのではなく、この成果を足場にどうやっていくのかが問題なのだけど、ここで重要なのはそもそも僕たちが考えてるよりもこの国の地方の文化は画一化していて、そこに東京のスローフード趣味のクリエイティヴ・クラスといったそれ以上に多様性を欠いた(同じような趣味の)人たちが出かけていっても、この両者の掛け算では同じようなものしか生まれないのでは、ということなのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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