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災害時に「この機会に敵を貶める」ことに躍起になる政治家と言論人は以降一切信用すべきではない、という話

 この問題は触れようかどうか、少し迷ったのだけど慎重に書いていこうと思う。僕がこの文章で述べたいことはシンプルだ。単純にこのレベルの災害が起きたとき、救助や復旧や今後の対策ではなく「この機会に敵を貶める」ことに躍起になる政治家と言論人は以降一切信用すべきではない、ということだ。

 それは僕らが3.11から学んだ最大の教訓の一つだと思う。以前にも書いた通り、当時僕は万単位の人間が死ぬような出来事を、こんなふうに「活用」するのか……と、とてつもなくおぞましいものを見た気がした。

 そして同じようなおぞましさを、今回の震災後の一部の政治家や言論人の動きに感じる。なかには、僕にとって大切な友人もいる。しかし僕は、少なくともこのタイミングでこうした「政局」に災害を利用する行為こそ慎むべきだと思う。自分の敵視する誰それの行為は見え透いた人気取りだ、被災地支援の足を引っ張る、という議論はいま本当に必要なことなのだろうか。

 僕は山本太郎という政治家をまったく支持しない。政策にも同意できないところのほうが多いし、東日本大震災時の風評被害を拡大しその責任を取っていないことなどを考えて人間的にもあまり信用していない。しかし彼一人が被災地に趣き炊き出しのカレーを食べたことが(その追随者が発生することも含めても)、少なくともこのタイミングで批難に値することだと判断することはできないし、どう考えても大きく取り上げるべきことだとは思えない(同じことが小泉進次郎の横須賀駅前での募金呼びかけにも言える)。

 山本や小泉の行為が、被災地支援のマクロな状況に決定的な影響を及ぼすような大規模なものならともかく、限りなく個人の活動に近い規模で行われたことは明白だ。こういったものを「ここぞとばかりに」あげつらうことが、むしろこのタイミングで世論を政局に集中させてしまうことのデメリットが大きいことくらいが分からないはずはない。悲しいことだが多くの人は、表立っては認めないだろうけど分かってやっていると思う。

 たとえば

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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