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『PERFECT DAYS』と事物の問題

正月休みにヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』を観てきた。これは役所広司演じる主人公のミニマリスト的な生活を描いたものなのだけど、思いっきり感化されてしまいこの正月は連休明けまでダラダラしていようと思ったのに(11月、12月が多忙でほとんど休めなかったので……)その翌日から早起きして読書……のようなルーチンに復帰している。

役所の演技がカンヌ映画祭の主演男優賞を獲得し話題を集めているが、僕が感心した……というか、共感したのは彼がそのミニマルな生活の中で、(人間関係にそれほど依存せずに)事物をしっかり味わっていることだ。朝のコーヒー、移動中にカセットテープで聞くレトロな音楽、休憩時の木漏れ日の撮影、夜の食事、銭湯でのひととき、就寝前の読書……この主人公は、ひとつひとつの事物をしっかり味わっている。話題の作品に大喜利的な解釈(考察)コメントを載せて注目を集めたい……といった昨今のSNS的な事物の消費とは真逆の、事物そのものを「味わう」姿勢(國分功一郎のいう「浪費」)が、それも「消費」より「浪費」が正しいのだという言説ではなく、あくまで主人公の暮らしを淡々と描き、その楽しさを観客に共有させることで伝える、という姿勢にも好感を持った。

今日はこの映画が提示している人生観のようなものについて考えてみたい。先に結論を書いてしまうと僕はこの映画で示された、ミニマルな暮らしのビジョンに概ね共感する。それは前述したようにこの映画の主人公がミニマルな生活で出会う事物の一つ一つを丁寧に味わう一方で、人間関係には相対的に依存していないからだ。

その一方で、この映画が彼の生活を「完成」させるために、不可欠なものとして提示する女性的なものの侵入とそれに対する距離感については、評価を決めかねている。以下、その理由を書いていこうと思う。

前提として、僕はミニマルな生活の欠落を、人間関係で埋めようという考えにかなり批判的だ。まあ、主張している人たちはハートフルな思いやりの共同体的なビジョンを考えているのだろうけれど、それは2つの点で安易だと思う。第1にローカルな人間関係にアイデンティティを見出すということは、その共同体で認められないといけないという焦燥を生みやすい。趣味のコミュニティなどで他人にマウントしたがる人が出てきて、他のメンバーの居心地が悪くなる……というのはよくある話だと思うけれど、ここにその原因があると僕は思う。そして第2に、共同体の居心地が良いのはその中心メンバーだけで、周辺のメンバーは引き立て役か、最悪「悪役」にされてしまうことも少なくない。そして共同体は持続すればするほど、メンバーの暮らしにかかわるほど、つまり長く深くなればなるほど中心と周辺の分かれた構造が生まれてくる。ミニマルな生活の物足りなさを人間関係で埋めようとする人たちは、(社会的な強者がビニールハウスの中から主張していることが多いこともあり)このようないたって基礎的な問題が視野に入っていないことが多いように思う。

僕の考えはシンプルで、ミニマルでもしっかり事物を受け止めて、味わえばよい。それは複数で楽しんでもよいし、独りで楽しんでも良い。ただ独りで楽しめないのだとしたら、それは事物ではなく人言関係を味わっているだけだ。人間関係がくだらないと僕は考えないけど、事物それ自体「も」ちゃんと楽しめたほうが僕は豊かだと常々考えていて、それはこの映画でヴェンダースが描いた世界観にかなり近いものだと思う。

その上で、この映画で気になるところが2つある。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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