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イエスとブッダが説いた「愛」とは何か

人生はクローズアップで見れば悲劇。だがロングショットで見れば喜劇だ(チャップリン)───臨済宗大徳寺派香林院  金嶽宗信住職(著書名失念)

呼気被曝で副甲状腺ホルモンによるビタミンD活性が低下する(マグネシウムの吸収率の低下)↓

年を取るほど時間が短く感じるのは、年を取るほど憶えにくくなっているからだ(中略)関連知識が多ければ多いほど、新しい情報は忘れにくくなる。つまり、どんどん知識が増え、どんどん学ぶことができるということになる。そして憶えていることが多ければ多いほど、世の中を知ることができる。世の中を知ることができるようになれば、もっと記憶できるようになる(中略)自分の人格と行動は、基本的に、自分が憶えていることによって決まる(中略)記憶が人格を作る(中略)世界をどう認識し、その世界でどうふるまうかは、何をどう記憶したかによって決まる(中略)仏陀の教えは400年間途切れることなく口頭で受け継がれ、紀元前1世紀に初めてスリランカで書き残された

筋肉中のマグネシウム濃度が低い場合は、元に戻すまでに数週間から数か月間、このミネラルの補給が必要↓
ユーモアとは悲劇に時間を加えたものだ。───マーク・トゥエイン↓
世の中を知ることができるようになれば、もっと記憶できる

私たちは一般的に「時間は過去から現在、未来へと流れてる」と考えています。これは「絶対神がビッグバンを引き起こして宇宙を創造し、そこから玉突きをするように次々と因果を起こして現在に至っている」という古いユダヤ・キリスト教的な考え方にもとづく時間観です(中略)アビダルマ仏教哲学では、「時間は未来から現在、過去へと向かって流れている」とされています。現代分析哲学でもそういう見方があります。私はこの時間観に賛同するものです。

アビダルマ仏教哲学
アビダルマ仏教哲学では、「時間は未来から現在、過去へと向かって流れている」

ファインマンの方法は極端で、一見ばかげているように見える。科学志向の文化では秩序が好まれる。われわれには、時間と空間について断固とした考え方がある。時間は過去から現在、そして未来へと進むのだ。ところがファインマンに言わせれば、時間は過去から現在、未来へ進む、というようなルールに縛られない自由なプロセスこそに秩序があるのである。

みなさんは日本国民です。政府に従う義務があります」───山下俊一 二本松市講演にて(中略)信じられないのなら、日本国民をやめてもらうしかない。事故直後、福島の教員は保護者に向かってこう言い放った───元東電原子力技術者、Onodekita医師

重要度が変わると過去も変わる

網膜で捉えた視覚情報は凄い情報量だけど、それを認識するには自分の重要度によるわけでしょ。重要と思わない情報はそこでカットされるわけだ。ただし、重要度によってカットされた情報は消えてしまうかというとそんなことはなくて、側頭葉その他に記憶されているわけね。だから、重要度が変わると過去も変わるわけだ。それまで意識していなかった過去情報が引っ張り出されて、過去の解釈がガラッと変わる。ということは、情報はすべて受けて次第ってことだよ。

本当の達人だったら、たぶん、たぶんだよ、たぶん、なんとか踏みとどまれるかもしれない↓

「空気を読め」という同調圧力が支配する世間(中略)これは強者・権力者側から見ると支配にとても都合が良い(中略)日本的解釈の「無我」とセットになっている概念が、「寛容」である。寛容とはつまり、他者を許すことではなく、「我を貼るな」ということ

記憶が人格を作る

ひまわりの花はつねに太陽に顔を向けて咲くと信じられ、この向日性ゆえに「信仰心」や「愛」の象徴として用いられてきた。「ひまわりが太陽に顔を向けるように、信仰心の強い人はつねに神とキリストに心を向けつづける」、あるいは「愛する者はつねに愛の対象に顔を向けつづける」というアナロジー(類比)からである。このような意味はファン・ゴッホの時代にも生きつづけていたことがわかっており、牧師の息子でもあったファン・ゴッホがこの意味を知らなかったとは考えにくい。

映画『この世界の片隅に』では、主人公がつらい状況にある中で、画面の片隅に花が咲いています(中略)今から死のうという時に、ふっと、川辺の桜のつぼみを見たら、「花が咲くところを見てからにしようかな」と思います(中略)映画監督は、映画の登場人物が悲惨な状況の時、必ずそこに美しいものを入れます。

ゴーギャンには、自分に残された時間が少ないとわかっていた。この絵を最後の作品にするつもりだったのだ。だから描き上げると、パペーテの裏手の山へ自殺しに行った(中略)死体がすぐには見つからないようにして、アリに食べてもらおうとしていた。ところが死にきれず、ゴーギャンはプナアウイアへ戻る。残された命はわずかだったが、彼はがんばることにした(中略)日に六フランの仕事に就いたのである。

ここで日本人にとっての「愛」というコトバの使い方について、少し触れておく。今の日本人には愛は英語のラブ(love)だ。しかし古くから日本人は、「愛」というコトバを「胸いっぱいに詰まる感情のこと」として使った。広辞苑にもそう書いてある。これは第2定義であり、premanという。そして愛の第1義は煩悩割愛(tanha)である。第3義が却(業、karma)である。第4義が慈悲(あわれみ)である(中略)女たちにとって愛とは「その人(男)と一緒にいて、うれしいこと、楽しいこと」である。一緒にいて気持ちが良ければそれでいいのだ。ところが男にとって愛は、やはり女との性欲(愛欲)のこと(中略)そこでイエスとブッダが説いた「愛」とは何か(中略)愛とは、自分たち貧しい人間を動物みたいに惨酷に扱わないでくれ、確かに能力がなくて愚かではあるけれども、それでも少しは大切に扱ってくれ、という貧しい者たちの必死の願いのことであった。それが「愛」の正体である。そして、イエスとブッダは本気で、この人々(衆生)を助けようとした(中略)そして、イエスもブッダも民衆を救済することはできなかったのだ。そして、そのあとに残されたものは、無残にもそれぞれの宗派の僧侶(坊主)たちのために存在する巨大な宗教組織であった。彼らは問われれば必ず、自分自身のことを「修行中の身だ」と、しおらしそうに言う。必ず言う。大きな宗教団体として残ったプロの僧侶(聖職者)集団に私は一切、何も期待しない。私は、ただひたすら、イエスとブッダ本人にだけ問いかける。

呪縛から自由になるための最後の手段は、あえて過去に戻り、過去を新しく解釈することで、新しい過去を作り出してしまう「バック・トゥ・ザ・フューチャー」法である。これは理にかなった戦法である。なぜなら、過去は変えることができないが、昔のできごとやその意味を、いまの活動に照らし、どう解釈するかはまったく自由だからである。できごとをどう解釈するかは、リーダー的立場の人の大切な役割である。


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