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いままでの人生への恩返しと、最後の置き土産と思いこの本を書きました

「お願いだから働いて・・・」 と母から懇願されて、小学校三、四年生ごろから新聞配達を始めました(中略)今日まで有意義な人生を送ってこられたのは、すべて、そのときは地獄だと思っていた貧乏のおかげでした。貧乏が、私に不屈の精神力を与え、成功願望を植えつけ、やがては漫画の本や映画から宝の山となるヒントを抽出させ、そして極めつきは図書館で読んだ 〝読心術〟だった。いままでの人生への恩返しと、最後の置き土産と思いこの本を書きました。

「貧困が隔世遺伝のように世代をひとつ飛ばすことはめったにない」ことを指摘し、貧困家庭に育った両親と自身のことを率直に語り、格差社会について冷静に論じています───訳者あとがき

飢えた貧農(小作人より下の水呑み百姓)の子供たちは、「餓死するよりはマシだ」と、江戸、京都、大阪に流れ込んだ。このとき、彼らは行方不明者となって村のお寺が管理していた宗旨人別帳から外れたので、非人と呼ばれた。非人は穢多(部落民、山の民)とは違う。

江戸の人口比率でいうと、独身男が異常なまでに多いんだけど、これは里山で居場所がなくなった次男坊とか三男坊とかがこぞってやってきたからだ。大都市である江戸は、いろいろなかたちでの労働力を必要とするから、とりあえずそこへ行けばひとりで生きていける程度には稼げる。当然、結婚して家庭を持つことのできない男たちもたくさんいたので、酒を飲むところや吉原の遊郭みたいな場所もできた。つまり、江戸というのは里山の人口の調整弁みたいな役割も果たしていた

(※幕府公認の)女郎たちの値段は高かった。前述した一両二分(12万円)だ。金持ちたちしか、そんな散財はできない。だから、もっと近場で、かつ安く遊べる深川などが栄えた(中略)江戸にたくさんいた女郎(遊女)たちの中で、最下級の売春婦は、局見世とか夜鷹という。河原にござやむしろだけを敷いて、安いお金で、40代の老婆たちが売春をした。江戸時代は、40歳で老人だ。40歳でほとんどの人は死んだ(中略)吉原の高級女郎たちは、28歳で年季明けで、退職した。この歳で女郎を本当に辞めさせられた。当時の28歳は、今の40歳ぐらいだと思う。その後の人生は人それぞれだ(中略)「吉原炎上」は、何十回も起きている(中略)火付けの真犯人は権力者たち(※火付盗賊改役)自身であった。伝染病の蔓延を防ぐために都市を人ごと焼き払った(中略)江戸のヒーローとしてのイメージが定着した(※鬼平犯科帳の)長谷川平蔵(※平蔵は密貿易の田沼意次失脚までの間、意次への賄賂受け取る役目。また1から2万人の浮浪者や失業者の面倒も見ていた)(中略)長谷川平蔵の配下の一人、穢多頭の弾左衛門。明治になって弾直樹と名乗って大きな西洋式の製靴業者となった(中略)吉原を支配した非人頭、車善七(※髭の意休)の屋敷は、吉原の遊郭の隣(中略)弾左衛門も車善七も 〝大名待遇〟であった(中略)非人たちは江戸の堀割りの清掃や衛生を受け持った。両者とも13代まで続いて、明治時代を迎えている(中略)〝歌舞伎十八番〟(9代目市川團十郎が明治に復活させた)の代表演目、あの「助六」の真実のストーリーは何か。それは、幕府の許可で歌舞伎役者達が非人頭の支配下から自由になった。このことの喜びを表して、2代目市川團十郎が初演したのである(1680年ぐらい)(中略)売春施設と、歌舞伎の世界は深く関係している。合わせて花柳界という(中略)吉原の花魁(高級女郎)たちの中の、頭がいい女たちは、密かにキリシタンであった(※西郷隆盛も)(中略)長谷川平蔵の経歴を調べてみると、自ら相場、博奕を張って、銅とか銀とかの取引市場にも手を出している(中略)鬼平(※平蔵)はここで利益を出して資金を作った。それで佃島の人足寄場を経営したようだ。大したものである。そうでもしないと幕府(公議)にいくら頼んでも、資金を出してくれなかったからだ。長谷川平蔵はこういう人助けをやったので、江戸の庶民から大変立派な人物として尊敬された。人々の脳裏に深く刻み込まれて、今に名前が残っているのである。それぐらいでないと歴史上の人物になれない。※引用者加筆.






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