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のちにモネはこう回想している。「マネが私をバティニョール界隈のカフェの毎夕の集まりに誘ってくれた。

極貧のなか、モネは仲間とも離れてセーヌ川流域で制作を続ける。

セーヌ川

妻カミーユを失った後の一八八〇年代、モネはとりつかれたように旅をする(中略)この時期、モネは旅先で文豪モーパッサンと知り合い、親交を結ぶが、そのモーパッサンは、当時のモネをこう描写している。「実際、彼は画家というより狩人であった」(中略)一八七四年、ついに独自の展覧会を開く。だが、この展覧会は若い画家たちに苦い果実をもたらすだけの結果に終わってしまった。悪評粉々。批評家は出品されたモネの作品『印象・日の出』をもじって、このグループを「印象派」と命名した(中略)モネは仲間の一人にあてて、こう書き送っている。「自分の眼が捉え、理解したことを描くしかないのだ。自然を見ていると、すべてを描けるような、何でもできるような気がする。

著名な美術史家ケネス・クラーク(1903〜1983)は、その著書『絵画の見かた』の中で、「偉大な芸術作品の意味、あるいはわれわれが理解しうるそのほんの一部は、常にわれわれの人生と結びついていて、精神のエネルギーを増大させるようなものでなければならない。」と語っている。言い替えるなら「名画を正しく紐解くことができれば〝心の力〟を増大させることができる」のではないだろうか?(中略)感動とは感覚的なものだけでなく、知的な理解を伴って初めて得ることができる。しかしながら、感動とは都合良くばらまかれているものではなく、より多くのその恩恵を受けるためには、好奇心やリテラシー、感受性などの能力が必要となる(中略)こうした能力を備えた人材が、今、最も必要なのではないだろうか?(中略)・・・・・・私が、こう思いついてから、既に20年の月日が流れた。

のちにモネはこう回想している。「マネが私をバティニョール界隈のカフェの毎夕の集まりに誘ってくれた。 ・・・・・・そこで私はファンタン=ラトゥール、セザンヌ、ドガ、ゾラなど、多くの人々に出会った。彼らと際限なく意見を交わしながら話し合うのはじつに面白かった」。

パリは、モネやロダンやベルリオーズが活躍した都市であり、カンカン踊りと歌い手の街であり、ヴィクトル・ユゴーとヘミングウェイが愛した街である。

ヘミングウェイの、無駄な要素を取り除いた、徹底的に短くて簡素な文は(時には文が長くて文法的ではないこともあるが)、スタインのより厳しい実験を反映している↓

カンディンスキーは「回想」の中で、学生時代にモスクワで行われたフランス印象派展のモネの「積み藁」を観たときに受けたショックを次のように書き止めている。「その絵が積藁を描いたものということを私に教えてくれたのは、カタログであった。私は、積藁であることが識別できなかった。

モネの「積み藁」

モネは庭園の絵画作品にカドミウムイエローを使った

モネ 藤の花

モネは一文無しで、ルノワールの持ってきてくれたパンでかろうじて命をつないだこともあった。そのルノワールも、切手を買う金がなくて手紙ひとつ出せないほどだった(中略)クロード・モネは強靭な意志の持ち主で、夢中になるとまわりが見えなくなる男だった。生家は食料品店だったため、他の仲間とくらべて充分な教育は受けていない。そんなモネの親友が、「のんきな悪ガキ」と評されたピエール=オーギュスト・ルノワールだ。ルノワールはモネの肖像画を一一点も描いている。そんな画家たちを束ね、羅針盤の役目を引きうけていたのがカミーユ・ピサロ(中略)印象派の画家たちは、来る日も来る日も議論を重ねた。サロンという大きな池の小魚で終わるのか、自分たちでつくる小さな池で大魚になるのか(中略)大きな池の小魚より、小さな池で大魚になったほうがいいときもある───印象派のエピソードはそのことを教えてくれる。社会の本流からはずれると不利なことも多いが、それが逆に利点になるのだ。ピサロ、モネ、ルノワール、ゼザンヌは、権威あるサロンに合格するよりも、好きなように描いた絵を、キャプシーヌ大通りの狭い部屋で見てもらうほうを選んだ(中略)ピサロは希望に胸をふくらませながら、友人に宛ててこう書いている。「ささやかながら私たちの居場所ができつつあります。大勢のなかで小さな旗じるしを立てることができました。他人の意見を憂えることなく前進するのみです」。ピサロの言うとおり、印象派の画家たちは本流からあえてはずれることで、新しいアインデンティティを確率することに成功した。彼らは自由に創造する喜びを実感したはずだ。やがて世間も彼らの運動に注目(中略)モネ、ドガ、セザンヌ、ルノワール、ピサロたちは画家として天才的だっただけでなく、たぐいまれな知恵を持っていた。世間が崇めてやまない権威に振りまわされることなく、その本質を見抜いていたのだ。

モネ

ル・アーブルの港町を描いたモネの作品《印象、日の出》のタイトルが、嘲笑の言葉となりグループ名の由来となったのも、皮肉な運命であった。

モネの出品作のタイトルの単純さに驚いたエドモン(※ルノワールの弟)が、そのことを指摘した。その結果、出品した12点の中で故郷ル・アーブルの朝の港の風景を描いた『日の出』という作品には、モネ自身が「印象」をつけ足して、『印象、日の出』になったのだ(中略)アメリカでの人気を博したモネ(中略)元来アメリカ人は、新しいものを受け入れる度量がフランス人の富裕層よりもある。そして、アメリカの富裕層はフランスの場合と違い、そのほとんどがプロテスタントかユダヤ人であったため、宗教的題材がない印象派を受け入れやすい土壌となったのである(中略)フランスもオーストリアもカトリックが中心の社会なのである。アメリカ人がモネに夢中になることはすなわち、経済的な成功をモネにもたらす結果となった(中略)経済的に余裕を持ったモネは、傾倒するドービニーのアトリエ船「ボタン号」を真似て、小さなボートを購入してそれをアトリエ船に改造した。尊敬する人物と同じことをしたがるのは、いつの時代も洋の東西を問わず同じである。※引用者加筆.

モネ

三〇歳秋、戦争を避けてロンドンへ行きドービニーに再会、彼の紹介でポール・デュラン=リュエルに会う。(※クールベの絵を売っていた人がポール・デュラン=リュエル)※引用者加筆.

晩年になってもモネは、「自分が画家になれたのも、ブーダンのおかげだ」と語っている↓
テオ(※ゴッホの弟)は、モネ、ピサロ、ドガ、スーラ、ゴーギャン、ロートレックなど印象派の画家たちの絵を積極的に扱っていた↓
あのがんばり屋のモネのやつに肩を叩かれ励まされなかったら、絵筆を捨てていたかもしれない」(中略)ルノワールはセザンヌを尊敬していた↓
モネ

モネは画学生時代から、親友のルノワールとカンヴァスを並べて、同じ風景を描くことが度々あった(中略)この(※サンラザール)駅はパリのターミナル駅のひとつで、フランス北部ノルマンディーの港町ル・アーブルに実家を持ち、さらに当時、パリ北方のアルジャントゥイユに暮らしていたモネにとっては、慣れしたしんだ駅だった(中略)実際には駅に停車中の機関車が、このようにもくもくと煙を上げることはない(中略)この作品の制作現場に居合わせた親友のルノワールは、モネが駅長と掛け合ってわざわざ蒸気を出させたことや、光の具合が良くなるのを待つために列車の出発を30分遅らせたことなどを後年語っている。古き良き時代であった。※引用者加筆.


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