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文字が人類に与えた影響、W.J.オング『声の文化と文字の文化』、メアリアン・ウルフ『プルーストとイカ~読書は脳をどのように変えるのか?』

■ 『声の文化と文字の文化』を読んで文字の文化を相対化する

文字が人類または近代的な知にとって重要な発明であったことは、誰もが認めるところであろう。ただ、今日では文字や書物の存在を前提とした社会や知性というものは、あまりにも当たり前になってしまい、それを相対化して捉えることは難しくなっている。

文字が発明されてから、社会・人々はどのように変化したのだろうか。『声の文化と文字の文化』は、声の文化(オラリティ)と文字の文化(リテラシー)の違いに着目し、その謎を探求する1982年の作品である。自分が本書を手に入れたのは恐らく2000年ごろのことで、以来20年ほど、中途半端に読みながら、そのうち読破しようと思ってずっと目の届く範囲に置かれていたものだ。

語られると同時に音として消えていき、全く同じ形で再現されることがない声と比較して、記憶力に多くを頼らず何度でも読み返して吟味することができる文字は、近代的な分析的思考を補助する有益なツールであることは間違いない。また、文字を理解する人が増え、印刷物が世界中に流通することによる情報の大衆化・民主化が、社会や文化に多大な影響を与えたであろうことは想像に難くない。1450年頃、ヨハネス・グーテンベルクが発明したとされる「活版印刷技術」は、宗教革命、科学革命を可能にし、ルネサンス三大発明の一つに数えられる、というような話は広く知られているところだ。

多少趣の異なる議論として、有名なマーシャル・マクルーハンの「メディア論」がある。マクルーハンの言うメディアとは、新聞、ラジオ、テレビといったものにとどまらない。衣服は皮膚の拡張であり、自転車は足の拡張であり、テレビやラジオは中枢神経系の拡張である。つまり、人間の所与の能力を何かしら拡張するものが「メディア」であり、それは人間の拡張を通じて、我々が考え世界を認知する方法に影響を与える、といったような考えである。

そしてその理論の中では「文字」ないしは「印刷物」という「メディア」は、物事を断片化し、細分化することや、物事を一列に並べるといった性質を通じて、順序だてて物事を考える「因果」といったものを発展させ、対話によらない情報の伝達が人々を切り離し独立的に思考する存在である「個人」を生み出した、というようなことを言っている。なにぶん、マクルーハンの著作を読んだのは20年以上前になるので多少違うかもしれないが、そもそもマクルーハンの言っていることもわりとフワッとしているので、こんなところでいいだろう。

こうしたマクルーハン理論の形成には多くの研究や考察が影響を与えたと言われている。その中でも重要だと考えられるものが、W.J.オングの「声の文化」と「文字の文化」に関する考察であろう。

「メディア」が人間を拡張し、それに伴い人々の意識や思考様式が変化していくという物語はとても刺激的で魅力的だ。現在のネットを通じたコミュニケーションや膨大な情報への接続は人々にどういう影響を与えるのか。はたまたメタバース的な世界の拡張は、我々の意識や思考様式にどのような影響を与えるのだろうか。などといくらでも想像力を膨らませることが出来る。そういった想像を可能にする第一歩は、文字を持たない「声の文化」を理解することを通じて、あまりにも当たり前だと思われている「文字の文化」を相対化し、様々な知の在り方の一つのパターンに過ぎないと捉えてみることからはじまるのではないか、ということを思う。

しかし、若干気になるのは、文字や書物が情報の流通を改革したであろうことはほぼ間違いないとして、果たして文字そのものが本当に人間の意識や思考様式を変えてしまうものなのだろうか、というところだ。

意識や思考様式が人体のどこにあるかというと、十中八九脳にあるだろうと思われる。素朴な試みとして、読み書きを習得し、読字に熟達していくことが人の意識に影響を与えるのであれば、何かしら脳の機能に影響があるのではないか、と考えてみることができるだろう。死体を解剖して脳の質量みたいなものを計測するしかなかった昔と比べて、現代ではイメージング技術の発達により脳の活動状況を調べることが可能となりつつある。そうした技術の進化に伴う研究の進展により、「読字障害(ディスレクシア)」の研究を通じて、脳が文字を読むメカニズムに迫ったものが次に紹介する『プルーストとイカ』である。

■ 脳はどのようにして読字を学び、読書に熟達していくか。

著者のメアリアン・ウルフは、認知神経科学、発達心理学の専門家でディスレクシアの研究者である。ディスレクシアとは、いわゆる学習障害のひとつのタイプであり、文字の読み書きに困難を抱える障害である。症状や原因は様々であるが、大雑把にまとめてしまうと、脳での情報処理の方法が平均的な人と異なっていることが原因となって、文字を読むことの難易度が著しく高くなってしまうといったものだ。英語圏ではおよそ1割~2割が何らかのディスレクシアの症状を持っているとも言われている。日本では比率は少なく数%程度であり、言語によって違いがあるらしい。

なぜそういうことが起こるかというと、人類にとって読字能力というものは生まれつき備わっている機能ではなく、様々な脳の基本的な機能を連携させることによって、初めて可能になる複雑な能力だからだ。何らかの理由で、一部の機能がうまく働かなかったり、機能間の連携や処理の自動化がスムーズに行かなかったりすると、文字を読むことに多大な労力を要したり、文字を正確に記述することができなかったりということが起こる。

文字は言葉を記述するためのシンボルのシステムから成り立っている。単純に考えると、ある視覚的シンボルとそれが意味するものを照合する作業が「読み」なのではないかと思われるが、実際はそう単純ではない。初期のヒエログリフ・・・要するにアイコン・・・を見てそれが指し示すものと結びつけるのは割と簡単でも、アルファベットのような完全な記号ではそうはいかない。アルファベットは原則として単語に含まれる音素を並べる事で単語を表現する。そういった言語に熟達していくためには音声的な要素からの連想も必要であり、例えば英語の習得には音素認識スキルが重要になる。

様々な言語の中でも多用なルーツを持つ英語は厄介な代物だ。英単語は、形態素(*1)と呼ばれる意味の最小単位を組み合わせたものであると同時に、音素(*2)と呼ばれる音の単位の両方を融合させたスペルを持っている。英語を学習したことがある人なら、発音されない文字があったり、同じ文字の並びでも複数パターンの発音があったり(*3)という英語のナゾの仕組みに頭を悩ませたことがあるだろう。それは、母国語として英語を話す人たちにとっても同じである。不規則な単語を多数有する英語を流暢に読み書きできるようになるためには、視覚的な処理能力だけではなく、音の処理能力も必要で、両者をうまく組み合わせて効率的な処理回路を形成する必要があるようだ。視覚的に単語の形態を識別するだけではなく、音素に注目して音を分類し単語を分析的に捉える能力を高めていくことが、語彙力のスムーズな発達には欠かせない。

ちなみに、日本語は原則的に表語文字(1字が1つの言葉に対応する)である漢字(*4)と音節文字(1字が1音節を表す)である仮名という全く異なる2つの文字体系がミックスされた書記体系を持つ悪名高い複雑怪奇な言語である。それであるにも関わらず、仮名が平明で効率的であるために、アルファベットの読み手が必要とする音韻処理の領域を使わずに視覚をベースにした「読み」が出来るという特徴があり、アルファベットの読み手とは平均的に使われる脳領域が異なる。つまり、日本語だと読み書きに不自由しないのに、英語の学習に並みならぬビハインドを感じるというのは日本語の読み手には十分あり得ることで、それはもしかすると英語にさほど苦労しない人とは脳の構造が異っている隠れたディスレクシアである可能性も考えられなくはない。

一般的な処理回路を何らかの理由で形成できない人は、全く異なる回路を形成して文字を理解しようとする。脳はエコノミーを優先するので、最大限負荷がかからない処理方法を自ら探るわけだが、多くの人にとって効率的である回路が形成できない人は、書かれた文書の処理に、より多くの負荷を要する回路に頼らざるを得ない。処理速度が僅かに足りないだけでも、歌唱等のシチュエーションでは問題になる場合があるし、長い文章を読みこなしたりする上でもハンディキャップになる。

そして一定のスピードで負荷なく文章を読む力がなければ、真の読みともいうべき、読みから得た情報を脳内の多彩なデータベースと照合し、関連する情報を想起して、推論と洞察に結びつけていくことができない。読書は、単に与えられた情報を理解するのではなく、それを超えていくことに価値がある。単に正確に読めるだけでは足りないのだ。

文章を読解し、そこから何かを得ていく能力まで獲得した脳は、文字が読めない脳とは大きく異なることとなる。すると確かに、文字というメディアが人間の意識や思考様式に変化を及ぼすということも、必ずしもbeforeがわからないのでどのような形かは断言できないものの、あり得ないことではないような気がしてくる。今となっては全く文字若しくは文字を有する文化と接点を持ったことがない人々を探すのにも苦労しそうではあるが、いずれこの分野でも文字を持たない文化に暮らす人々の脳内活動をイメージングする研究が行われるかもしれない。そこから、我々は何を学ぶことができるだろうか。「声の文化」において、卓越した詩人が聴衆を前に物語を紡いで見せる・・・韻律と記憶している定型的な言い回しを駆使して、聴衆を魅了し熱狂させる時、脳内で何が起こっていたのだろうか。文字を読むことを知的活動のベースに置いている我々とは全く異なった発達をした脳を有しているのかも知れない。

ディスレクシアの研究は、読字に困難を抱える一方で、非凡な才能を有した人々の存在を明らかにしている。普通とは異なる脳を持つということは、ユニークな才能を持つ可能性があるということだ。もちろん、全員が非凡な歴史に残るレベルの才能を持つわけではないが、脳の編成に適した仕事を見つけることができれば意義のある活動をすることは十分できそうだ。我々は、つい近代的な合理性みたいな雰囲気を身にまとい、流暢に活舌よく話す者を知的であると認識しがちであるが、全てをの人をその尺度に当てはめてみる必要はない。文字の発明は偉大だ。しかし、「文字の文化」が人間にとっての最終到達点かどうかはまだ分からないのだから。

■ 新たなメディアは我々の脳を変えるか

さて、マクルーハンに話を戻すと、「メディア論」は単なる読字能力の話ではなく、テレビのような新たなメディアも我々の意識や思考様式に影響を与えるのだというような話になっている。

ただ、『プルーストとイカ』を通じて我々が学んだことは、読字能力の習得・・・つまり読字を可能とする脳のアップデートを成し遂げるためには、脳が複雑な処理を効率よく行えるようになるまで、十分な訓練が必要になるということだった。

「文字」は瞬く間(原初の文字が発明されてからだと数千年だが、印刷術により広く一般に普及してからだとそんなに時間は立っていない、いずれにせよ歴史的にはあっという間)に世界を席巻した強力なテクノロジーで、読み書きする能力は“良きこと”として近代国家の教育プログラムに必ず組み入れられるほどのインパクトを持っていたものである。その結果、世界中で読字が積極的に訓練されるようになり、文字を持つ人々の脳は文字を持たない文化の脳とは異なる発達をするようになった。

テレビやネットも世界を席巻していて、娯楽や文化に与えた影響は甚大であると思うが、「文字」に比肩し得るほど汎用的に価値あるものとは今のところ評価されていないように思われる。ぼーっとテレビばかり見ていると脳はどうなるのか、といった素朴な疑問にすらまだまだ答えが出ていないように思うが、少なくとも「動画視聴能力」を習得するために人々を訓練するということは行われていない。たぶん自然にできるからだ。そうすると、直感的には、動画みたいなものはあまり人類の脳をアップデートしたりとかはしないのではないかという気がしてくる。

昨今の「メディア」の中で多少毛色が違うとすれば、ヴィデオゲームである。一部の熱心なゲーマーはゲームでよいパフォーマンスを発揮するために、多大な労力を投じて訓練を行う。これは、一部の人の脳の在り方に影響を与えているかも知れない。自分が多少ヴィデオゲームびいきな自覚はあるが、とりあえず眺めていればなんとかなるものと、良い結果を得るために介入が必要なインタラクティブなものとではやはり話が違うような気がしてしまう。

とにかく、「文字」の優れていた点は、それが素晴らしいものだと人々の価値観をあっという間にアップデートしてしまったところだろう。そういう強力なメディアになり得るものが現時点であるかというと、なかなか難しそうである。「文字」は、それほどまでに人類にフィットしていたテクノロジーだったということだ。

敢えて次点で言えば、録音メディアは人類に害を成すとも言われていないし、なんなら音楽鑑賞として学校教育にも入り込んでいる「メディア」である。ただ、複雑なことを伝えるのを音はあまり得意ではない。「声の文化」は「文字の文化」に既に駆逐された歴史を持っている。

音声メディアも昨今では様々あるが、結局は音楽のような特定のジャンルのものを届けるところに落ち着いていくだろうという気がする。同じ情報量であれば、読んだほうが効率が良いという点がネックである。ながら聴取ができるという利点はあるものの、そもそも文字が読めないような環境で複雑なことを考えるのには限界があるような気がするので、やはりどちらかというと娯楽向けのように思う。

「文字」がなぜ人類にとって優れているかということを考えていくと、それが視覚メディアだからではないか、というところに気がつく。人類は感覚器官の中でもとりわけ多くの情報を視覚から得ていると言われている。「文字」が成し遂げたブレークスルーは、その強力な視覚に言語(音声)を結びつけたことなのではないだろうか。視覚と言語能力(複雑な発声をする能力)という人類を特徴づける優れた2つの能力(厳密には目を使う運動能力なども)を結びつけた極めてコスパの良い「メディア」であったため「文字」は世界を変えることができた。そんな風に思えてくる。

そうすると、人類を拡張するレベルの「メディア」の可能性は、既存の人体を変えない限りかなり低いのではないかという気がしてくる。脳を直接プログラミングする方法とか、何かしら人体を拡張する方向のものとか、そういったものにならざるを得ないのではないか、そんな風に思う。

*1 例えばunpackedという単語は、un・pack・edという形態素が組み合わさって、梱包を解かれた、という意を表す単語として形成されている。一般的な接頭辞、接尾辞が識別できるようになるなど、こうした構造を理解していくことで、語彙の習得能力が向上する。流暢な読字には語彙力は不可欠であり、語彙を習得するスピードが遅いと学習には当然時間がかかる。

*2 例えばcatという語は/k/+/a/+/t/という音素からなる。なお、英単語の中でどうしようも説明がつかないものをsight wordsと言い、yacht(yät)みたいなやつは丸暗記の対象となる。いずれにせよ最終的には、ぱっと見で瞬時に意味が浮かぶようにならなければスラスラと文章を読むことはできない。

*3
“There once was a beautiful bear who sat on a sheat near to breaking and read by the hearth about how the earth was created. She smiled beautifically, full of ideas for the realm of her winter dreams.”
(『プルーストとイカ』より)

この例文に現れる、母音であるにも関わらず多彩な”ea”の発音を見るにつけ、仮名がいかにシンプルかということがわかる。まるで規則性がないわけではないが、どういう塊(チャンク)であればどういう発音になるか、ということが直感的にわからないと、スラスラ読むのは難しい。

*4 漢字はいわゆる書き取りによる学習を行うためか、読むときに運動記憶領域も賦活されるらしい。

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