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文章の個性をみがくことをぼんやり考える

文体というものは、なにかにつけて書き手を困らせる、それはもう悩ましい存在なのである。

書き出しの一文にしても、いくとおりもの書き方が思い浮かぶ。そのどれがいちばんパンチがあるのか、みたいなことまで考え始めると、ほんとうにきりがない。無理である。おれの書く4000文字程度の文書には、いったい、いくつの文が入っているのか。それを数えてみたことはないが、そのすべてに神経をいきわたらせるみたいなことをいちいちしていては、よほどの達人でもない限り、文章などとても正気では書いてはいられない。素人はなんとなしで書けるようになるまで続けるしかないのだ。

人類の叡智の坩堝であるインターネットを紐とくと、誰やらわからぬ者が書き記した「わかりやすいテキストの心得」のようなものを、いくらでも見つけることが出来る。その大部分はおおよそ同じことを言っているだけなので、いい加減ひとつにまとめて欲しいと思うところだが、世の中は便利なものである、昨今は生成AI的なものに質問文をちょちょいと打ち込めば、たちまちのうちにありがたい託宣のようにシンプルにまとめられたエッセンスを頂戴することが出来るようになった。

Gemini曰く、こうである。


分かりやすい文章の書き方

分かりやすい文章を書くためには、以下のポイントを意識することが大切です。

  1. 結論を先に書く
    読者はまず結論を知りたいものです。文章の冒頭で結論を述べると、読者はその後の説明を理解しやすくなります。

  2. 具体的に書く
    抽象的な表現は避け、具体的な例を挙げて説明しましょう。数字や図表を用いるのも効果的です。

  3. 論理的に書く
    文章の構成をしっかり考え、論理的に書くようにしましょう。話の飛躍や矛盾がないように注意が必要です。

  4. 簡潔に書く
    不要な言葉はできるだけ削り、簡潔に書きましょう。長すぎる文章は読者を飽きさせてしまいます。

  5. 読みやすく書く
    適切な句読点や段落分けを行い、読みやすい文章にしましょう。

  6. 誤字脱字に注意する
    誤字脱字は文章の信頼性を損ないます。送信前に必ず誤字脱字がないか確認しましょう。


これは「分かりやすい文章」のコツについて聞いてみたものだ。まったくもってこの通りであろう。しかし、自分が文章を書くときにこういう考え方で書いているかというと、そうではない。何か違うなー、もやもやと。そう思ってもう一度聞いてみることにした。


うまい文章の特徴

うまい文章には、以下のような特徴があります。

  1. 読みやすい
    ・適切な句読点や段落分けが行われている
    ・文の長さが適切
    ・難しい言葉や専門用語を使いすぎない

  2. 分かりやすい
    ・論理的な構成
    ・具体的な例や数字を用いている
    ・結論が明確

  3. 説得力がある
    ・論拠がしっかりしている
    ・読者の感情に訴えている
    ・筆者の主張が明確

  4. 印象に残る
    ・個性的な表現
    ・ユーモアや比喩を用いている
    ・読者の心に響く内容

  5. 美しさ
    ・美しい言葉遣い
    ・リズム感のある文章
    ・余韻のある表現


そう、おれが気にしているのはこっちのほう。これですよ。「うまい」とはどういうことか、そういうことだよ。

自分でいうのは少し品のないことではあるが、おれは子どもの頃から文章力だけは、なぜだか多少なり褒められてきた。人間のとりえというものは限られているのが通常だから、せっかく良く言ってもらえるのであれば、ちょっとぐらいはその路線で頑張ってみようかな、などと思うのが人情である。

ただ何事も、思うほど簡単にはいかないのが世の常。結果、うまい文章みたいなもののナゾは、おれの頭の片隅、薄暗い奥座敷に座布団をデンと敷いて、ほなゆっくりさせてもらいまっさと、しぶとく居座ることとなってしまっている。そういうわけなのである。やっかいなことだ。

Geminiの回答を見ればわかるとおり、後半に行けば行くほど、具体的にどうすれば良いかよくわからなくなる。特に4番、5番に至っては、学校やビジネスの現場で教わることもほとんど無く、具体的なノウハウも乏しい。そんなの好みでしょ?とにかく書けば?と、とりつくしまもない。そんな感じだ。結局、うまくなるにはどうすればいいのだろう。

文体模写とあんばい

具体的なノウハウを見いだしづらいアート的なものの鉄則として、迷ったときにやるべきことは鑑賞そして模倣の一択である。おれもそれなりの時間をかけて、ネットのちょっと面白い文体をパクってみたり、最近読んだ本に影響されてみたりという実験を繰り返してきた。

その結果少しわかったことは、「個性的な表現」や「ユーモアや比喩」に関しては、模倣で雰囲気を寄せていくのはそこまで難しくない、ということだ。漢字が多いほうが賢そうで良いとか、豊かなボキャブラリーで華やかさを出したいという事であれば、日常あまり使わないような難しい漢字とか熟語とかをばんばん放り込めばそれで済む話だし、ちょっと工夫して語順を入れ替えてもったいぶった感じにしてみてもいい。なんかとつぜんひらがなをふやしてあほっぽくやわらかくかいてみてもいいだろう。

ひとことで言うと、わかりやすい文章のセオリーを破ってしまえば、勝手に個性的になる。簡単だ。そのままでは少し読みづらくなるが、乱暴に言ってしまえば、ちょっと読みづらいぐらいのほうが、文章を味わって感じる余韻みたいなものは強く出やすい。読みやすい文章ほどサラッと読まれて、表現の工夫とかは見てもらえなくなるというのは、本物のPROがたまに指摘していることでもある。

難しいのは、その「あんばい」の問題である。凝った文章になれば、噛み応えみたいなものは出やすくなるが、シンプルに読むのにカロリーが必要になって、読みたくならない読まれない、という問題が生じる。練習のために実験的な文体を試してみること自体はやっていいことだと思うが、いたずらにそれを続けていると、過剰になったり無駄にイキった感じになって次第に飽きられたりと良くない結果になることが多々あるだろう。つまり、最終的にどの辺が読みやすくて味があって面白いのか、うまいのか、というラインに到達すると、また「センス」を磨くしかない、みたいな暗闇に戻ってくるハメになるのである。おれの頭のずうずうしいやつが、行燈のゆれる灯に照らされながら、ニカっと笑って言う。あんさん、戻って来はりましたんか。まあ、ゆっくりしていきなはれや。

リズムと文長

個性的で美しい文章。そのナゾの答えのひとつは、リズムにあるのではないか。それは前から思っている。リズムには、語の持っている音の要素もあるが、シンプルに分かりやすく影響が出やすいのは、一文の長さである。

世の中の、書き方How toのようなものを見ると、だいたいは、一文を短くせよと書いてある。これは特に書きなれない人にとっては重要なことで、文が長くなると、主語と述語がねじくれてしまったり、修飾語がなににかかっているのかわからなくなってしまったりという事故が起こりやすくなるからである。

また、フレーズのつなげ方にもバリエーションを持っていないと、長文はつまらなくなったり、幼稚な感じになりやすい。一番簡単な例で言うと、~で、~で、~で、とか、~が、~が、~が、といった文章で、これは実際の会話では頻繁に見られるものなのだが、書き言葉としては、明らかにマズい文章に分類して良いもののひとつだろう。

そういう問題をクリアできるのであれば、たまに長い文を混ぜ込むのは悪くない。句点で区切られずにフレーズが連続する部分には重量物が加速していくような勢いが出たりもするし、途中で息継ぎを我慢させるような効果も狙える。ただ、すべてがだらだら長ければ良いということは当然なくて、短文でテンポの良い部分と、長文で重い部分とを場面場面で使い分けていくほうがよさそうである。ミソはたまにリズムを変化させること。おれが今考えているのはそういう感じのことだ。

語りと文章

さっき、少しだけ会話の話をした。そう、文体に特徴を持たせるために誰もが一度は思いつくプランのひとつに、話し言葉を取り入れるという戦略がある。もっとも、完全な話し言葉というのは、文字起こしをしたことがある人なら分かると思うが、まあ、まともに読めたものではない。小説などに出てくる「かぎかっこ」に入ったような会話文でも、よく見てみると、たいていは、どこの世界にこんなに流ちょうに喋るやつがおるんや、と言いたくなるぐらい、芝居がかったセリフになっているのがほぼ通常である。つまり、話すように書くこと、これは、現実の会話を書くことなく、いかに会話のようなテイストを文章に盛り込むかという実に奥深いチャレンジなのだ。

おれは、大昔に、文字を持たない声の文化についての本を読んだことがあって、それ以来、話すみたいに書くにはどうすればいいか、という問題意識をずっと持っている。その結果、普通に自然体で文章を書くと、口語表現が多めになるのがだいぶ癖になってしまっているが、やはり難しいなと思う事が今でも多々ある。

口語表現を文章に入れるコツは、「まずはじめに」みたいな二重表現的な決まり文句や、「なので、」から始まるような間違った接続詞の使い方とか、「ような」「みたいな」といった余計な婉曲言葉をバンバン入れるとか、日本語的にいうとあんま正しくないな、というところをうまいこと突いていくことにあるわけだが、より本物に近づけようとすると、ほんとうはもっと文法を間違えたり、意味不明な文章を書いたり、おんなじ言葉を反復したり言い直したりとか、そういうことを取り入れていかないといけないわけなのである。これが難しい。

もっと言えば、「語り」というものは、聞き逃して意味がとれなくなることを防ぐために、くどいぐらいに冗長である必要がある。そうでないと、込み入った話とかは全然わからなくなるはずなのだ。そういう要素までテキストに入れようとすると、それはもう日常会話にもアンテナを立ててインプットをする必要があるし、いかに文章にいいあんばいで落とし込むかについて相当な修練と創意工夫が必要となるだろう。そして、なにより結果面白くなるのかどうかがイマイチわからない、という難問をずっと抱えたまま悶々としなければならなくなるのである。ひさしぶりでんなあ。えらい難儀なこと考えてはるようでぇ。結構、結構。気が付けば、またこの奥座敷で目を覚ます。どうすれば外に出れるのか。

結局名文に学ぶしかない

そんな奥座敷にとらわれたひとりなのかどうかはわからない・・・・多分違うだろう・・・・が、最近、町田康の小説作品を読んでいる。関西弁も大胆に取り入れた独特の文体が良く知られているパンクロッカーにして作家であり、おれの好みそうな要素をふんだんに持っているにもかかわらず、実は今の今まで全然読んでなかった。読んでみると、かなりの機会損失感に打ちひしがれる部分はあるが、非常に刺激を受け、うまいなーと感心すること仕切りであると同時に、少し自分の書くものを客観的に見れるようになった気がした。なぜ今まで読んでなかったのだろう。繰り返しになるが、ひたすらそう思う。

関西弁が目立つのはしょうがないが、そこは除くとしても、地の文の書き方が面白いと感じた。なんというか、情景や場面の説明と登場人物の心情と、作者の言葉が混ざったような、不思議な地の文だ。時代小説にも、たまに現代的な語彙が混ざったりして、迫力の中に、ふいっと肩透かしを食らわせるような柔らかいユーモアがあり、そして、なにより語りの中に感情がある。しかも、しっかり触れられるようにある。

さてはて。書き続ければ、いつかはそうした文章が書けるのかどうなのか。表現というものにあらためて関心を持っている昨今である。


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