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強く生きるということ

 以下の文章は、2022年ごろにNHKの障害福祉賞に寄稿するもリジェクトされたものである。当時は怒りの気持ちを込めて書いた文章であるため、非常に強い言葉が使われているため、注意されて欲しい。

 今現在の私の思想とはズレがあること、7000字程度あり内容が重たいこともご承知いただきたい。


はじめに

 身も蓋もないことを言ってしまうと、こういった障害の啓発活動のようなもの自体が私としてはあまり気に食わない。「障害」という属性による人のカテゴライズに加担しているし、そもそも人の苦しみなんてものはその人自身にしかわかり得ないものであって、体験談やネットで聞きかじった程度の知識が障害を持つ人たちへの本当の理解につながるとは全く思えないからだ。それでもなお、このような啓発活動がいまだ必要なほどに、現代社会がハンデをかかえた人たちにとっては厳しいものであり、あるいは生きづらさを抱え続けている人が大勢いるのだと思うと、またいっそう沈んだ気持ちになる。

 もちろん、障害などのマイノリティに対する理解を広げようとすることや、社会のしくみや常識を変えていく活動というのは、長い目で見ればとても大事なことだとは思うし、その火を絶やしてはならないと感じている。しかし、個人の生き方や人間関係、人生における幸せなどを考えたときに、あまり「障害」という属性に引っ張られて視野が狭まってしまうのは生き方的に得策ではないような気がするのである。もう少し簡単に言い換えると、個人の属性と幸福の実現は切り離して考えるべきだということだ。 

 私自身は四年ほど前にうつ病と診断され、入院や治療の過程で双極性障害というものに診断が変わったという経緯がある。基本的に完治という概念のない疾患であるため、現在も通院を続け服薬中である。酷いときには自殺未遂もしたし、今でも希死念慮的な感情や無気力感に襲われることもある。症状や治療もあって大学を休学したため一度留年もしているし、自動車学校なんか二回も中退して無免許だし、先日はうっかりでレジに置き忘れた財布を盗まれてしまったが、人生を総合的に振り返っても不幸だったとは全く思わない。 

 それどころか毎日楽しくやれているし、周囲に対して劣等感を感じることもほぼないと言える。日常生活で自身の障害を意識することもほとんどない。もちろんかなりしんどい時期はあったし、こう感じられることすら私の障害の特性と言われてしまえばそれまでの話ではあるのだが。

 だからこそ、「精神疾患=不幸、かわいそう」みたいな社会のイメージや、メディアによる印象操作に対しては強烈な違和感を覚える。多様性やマイノリティに対する理解や優しさが「オシャレ」であるかのような風潮には反吐が出る。

 SNSのプロフィールに自身の障害名を書き連ねて政治的な主張をする人や、何か問題を起こした後に自身の精神的な障害を公表する有名人などは、死んでしまえばよい。診断書でも持ち出さなければ辞められないブラック企業などは、とっとと潰れてしまえばよい。最近は障害や障害に対する理解自体がアクセサリーや無敵バリアのように使われている、あるいは使わざるを得ない時世である気がしてならないのである。これでは障害をスティグマと捉えている状態から抜け出せていないではないか。

 これらを踏まえた上で個人や社会のあるべき姿、皆が皆幸福を追求できる世界とは何かと考えると、それはある意味で障害というものを全く気にしなくて良い状態ではないかと私は思う。障害をもつ人も、その周りの人も、良い意味でそれについて無関心でいられる状態を目指すべきだと感じるのだ。

他者理解の先は無関心なのかもしれない

 ここでいう無関心というのは、何も障害を持つ人には全く配慮するなとか、障害を持つ人が自身の障害を否認することを言っているのではない。人は本来皆異なる特性を持ち、できることも価値観も何について悩み苦しんでいるのかも全く異なる存在であると理解し、行動や考え方として実践することである。ここに障害であるからとか健常であるからとかは一切関係なく、人とはどういうものか、どうあるべきかという話である。要は、自分は自分、人は人という生き方を個人が徹底すべきだということだ。

 人は皆異なるものであるということを理解し実践できていれば、他人の基準を自分に当てはめて苦しむこともなくなるし、逆に自分の基準を他人に押し付けて傷つけるということもなくなると思うのだ。自分ができることができない人がいるのは当たり前のことであるし、逆に自分のできないことをできる人がいるのも当たり前の事実であると認識すれば、自然と他者に対しては優しくなれるし、自分にできないことがあっても無駄に劣等感を感じることもなくなると思うのだ。

 これは他者と自分の違いを究極的に理解しているが故の現象であるが、同時に他者に対して無関心な状態であるとも言えるだろう。自分とその他が異なることを知っているからこそ、他者の基準は自分にとって無価値なものであり、同様に他者にとっては自分の基準も無価値であると認識できるのである。他人などどうでもよい存在だからこそ、自分の人生を歩めるのだと思うのだ。そうなることができれば、自分にも余裕ができて人に優しくなれるのではないかと考えるのである。

 少々抽象的な話になってしまったが、私の言いたいことは自分が幸福に生きたいのであれば、自分の人生に対しては自分基準を徹底すべきということである。同様に他者を幸せにしたいのであれば、他者の人生に対しては他者基準を徹底すべきとも言える。本当に他者理解、全人尊重の進んだ社会とは、誰もがその人の基準でもってして幸福を追求でき、お互いがお互いの特性に良い意味で無関心な状態だと思うのだ。

 だからこそ社会福祉はむしろ充実すべきなのだ。全人が幸福を追求するためには全人にそのチャンスが与えられていなければならない。特定の人だけが不当な扱いを受けるだとか、機会を奪われるなんてことはあってはならないことだ。

自由と平等は相性が悪い

 全人が全人に対して無関心でいられる社会こそが、他者理解の進んだ世界、障害など最初から気にしなくて良い世界なのではないかという話をしてきた。私個人としては、そういった社会を目指すべきだと考えているし、自分基準の徹底や他者基準に対する無関心を個人レベルで実践することは十分可能であると考えている。

 では社会はどこまでの平等を目指すべきなのかというのは、また難しい話なのだ。現行の社会では個々人の自由についてはそれなりに認められているのではないかと私は思う。しかし、自由な社会では必ず競争が生まれ、競争に勝てる要素は尊重されてありがたがられるが、負ける要素は切り捨てられて不遇な扱いを受けてしまう。

 例えば美人やイケメンに生まれた人は恋愛において、頭のよく生まれた人は学業や収入において、運動神経のよく生まれた人はスポーツにおいてアドバンテージを得られるだろう。逆に、容姿に優れずに生まれた人や、知的能力が低く生まれた人、運動が苦手に生まれた人は、それらにおいてハンデを背負うことになる。

 これらを一緒くたに不平等と言って無理やり是正すると、例えば異性からモテない人に対して恋愛の相手をあてがったとして、あてがわれる側の気持ちはどうなのか、逆に人権侵害ではないのかという問題が出てくる。恋愛についてはわかりやすいが、知的能力に関しては収入を平等にするということは、能力の高い人が十分に評価されないことや、その人が稼いだお金を没収することを意味するだろう。これはスポーツにおいても同様だ。

 つまり、社会に対して平等を求めるのには限界があるのだ。このこと自体、人は皆異なる特性を持っていて、一側面で見れば優劣が存在しうるという事実の反映なのである。人の自由を担保する以上、ある程度社会の不平等やある面で見たときの優劣差については目をつぶらなければならないのである。

我々は強く生きねばならない

 人の自由が保障されている以上ある程度の不平等については妥協しなければならないわけだが、ではたまたま不平等の不遇側に生まれてきた個人はどう生きるべきなのかというのが一番大事な話だ。結論としては、全てを飲み込んで強く生きるしかない、というのが私の答えである。 

 ここでの「強さ」とは「自身の幸福を追求し続ける心持ち」のことであって、成功者が展開しがちな自己責任論や努力至上主義とは異なるものだ。これ自体を強者の理屈で片付けてしまうこともできるが、どれだけ社会がマイノリティや弱い立場にある人に対して優しくなったとしても、それと人生における幸福というのは別問題であり、幸福は自分で掴み取りにいかねばやってこないことは変わらないのだ。

 障害というものは特定の面から見れば確かにディスアドバンテージとなるかもしれない。ものによっては大変な苦労や苦痛を伴うものも存在するだろう。だから私は決してその苦しみを軽んじたり、わかった気になったりすることはできない。簡単に努力を謳うことがどれだけ残酷で想像力に欠けたことなのかというのも、自分の経験だけでは計り知ることはできない。しかし、それでも人が幸福に生きるためにはその当人が幸福を追求する必要があるということは確信している。自分を幸せにできるのはどこまでいっても自分だけなのだ。

 もちろん、自分のできないことに関してや、どうしても辛いときには人を頼るべきだ。そういった行動も含めての「幸福追求」である。自分にとっての幸せとは何なのかを追求し、常にその心を忘れずに自ら行動を起こし続けることでしか人は幸せにはなれない。だからこそ、人生に対して不満を抱えている人ほどがむしゃらに行動に出るべきだと思うのだ。当然だが、人々が幸福追求のために行動しやすい社会・システム作りを怠ってはならないのが前提となるだろう。

自助努力の限界

 しかし一方で、自らの幸福を追求するために動けるだけの行動力や気力のある人がどれだけいるのかというのもまた難解な問題だ。個人の幸せというものは、その個人による幸福追求がなければ成立しえないという意見を曲げるつもりはない。だが、この「強さ」を持ち続けられるだけの人は障害ぐらいではへこたれないのではないかという考え方もあるだろう。それに、重いうつ状態の人にとって希望を持つというのは土台無理な話であって、私自身早く死んでしまいたいという想いに苛まれた時期は何度もあった。死ぬことだけが救済であると本気で思っている人は少なからずいるだろうし、私はたまたま運良くそこから抜け出せただけなのだ。

 つまり、人が幸せになるためにはその人自身に幸福を追求するだけの強さが必要であるが、精神を病んでしまった人や重い障害をかかえた人が人生に希望を持ったり、そういった強さを持ち続けたりすることは難しい場合があるのだ。この点において、私の理屈も所謂「強者の理屈」であり、自らの恵まれた環境や能力を顧みずに自己責任論を展開する輩と何も変わらない。

 こうしたことを踏まえた上で、私たちが精神を強く病んでしまった人たちに対してできることは、せいぜい適切な標準治療と、社会から追い出さずに復帰の選択肢を残すことぐらいなのである。自助努力には限界があるし、公助についても限界があるのだ。これ以上の助けとなると、もう安楽死的な制度を設けるぐらいしかできないが、それは倫理的な問題からも難しいだろうし、私のようにたまたま抜け出せたはずの芽をも潰すことになる。この助力限界による袋小路が、障害や格差の問題を扱うことの難しさの種であると私は考える。

 では実際社会や私たちには何ができるのかということで、こういった啓発活動によって少しでも理解を広げたり待遇を改善したりというのがあるのだろう。冒頭でこういった啓発活動が気に食わないと述べたが、こんなことぐらいしか我々にはできることが存在しない上に、その結果がファッション的な理解やレッテル貼りの助長、都合のよい免罪符化や感動ポルノ的なコンテンツとしての消費であるのだから、本当に救いようがない。こんなことを言うとますますタブー視されてしまうのかもしれないが、誰かが問題提起をすべきことのように思える。

「普通」とは何か

 ここで一旦、障害の対立概念としての「普通」について考えてみたい。私の観測する限りでは、弱みや欠点のない人間などは存在しないと感じるし、「普通に生きていれば」という枕詞を使う人で碌な人間を見たことがない。「ガイジ」などと言って人を貶す人間などもってのほかである。こういった想像力に欠けた輩が大きな顔をしてまともぶっていることの方がよっぽど問題であり、品のない人が増えたように思える。

 少し話は逸れるが、最近はファッション理解者だけでなく、ファッションガイジとでも言うべき存在が現れてきているのではないか。公の場で奇声を発したり、わざと奇行に走ったりすることで、仲間内で「ガイジ」と言い合うみたいな、大学生の痛いノリを至るところで見かける。しかし、奇行に走ると言ってもその集団の中で許される範囲に留まり、その集団内でネタにできることまでしかしないという暗黙のルールが存在する。個人的にこの現象は、人の普通ではいたくないというアイデンティティ確立の心と、仲間はずれにされるような普通でないことはしたくないという集団依存的な心がせめぎ合った結果の妥協点であると考えている。なんとも中途半端でダサい態度である。

 こういった例を見て思うのは、普通という概念は個人や集団の中に形成された暗黙のルールであるのではないかということだ。アインシュタインは「常識とは十八歳までに集めた偏見のコレクションでしかない」と言ったそうである。彼の発言の意図との文脈は異なるかもしれないが、「普通」とは大概そんなものなのかもしれない。

 そしてやはり、自分にとっての普通と他者にとっての普通は異なるものであるということを理解することが、人間理解や偏見の改善のためには非常に重要なことであると感じる。日本では中高ではほとんどの人が部活動の名の下に、大学ではその学部や部活・サークルなどに、社会に出ればその業界に、といった感じで特定の集団に人間関係を依存することが多いのではないか。特定のコミュニティに人間関係を依存することは、その集団のイデオロギーに染まり、その集団の「普通」が刷り込まれる危険性を孕んでいる。これを回避するためには、一つのコミュニティだけに属することを辞め、多くの人種と関わりを持つことが肝要だ。そうしているうちに、自身にとって住みよい環境というのも見えてくるのではないだろうか。

他者や社会に期待しないこと

 さて、マイノリティな属性を持つ人がどうやって他者や社会から理解してもらうかという話に戻ろう。私自身は自分の特性などについて理解してもらいたいという気持ちがそもそもあまりないし、理解できるものだとも考えていないし、その必要性も感じていない。というより私自身、自分のことをそこまで理解していないし、他者にもはなから期待していない。一緒にいて心地のよい人のことは大事にするし、心地の悪い人に関してはちょっとずつ距離を置くようにしている。障害がどうこうとかは全く関係なく、それだけのことである。

 マイノリティへの理解だとか、多様性を認める社会だとか、壮大なことを考えるからややこしくなりがちなのだが、元をたどれば単なる人間関係の話である。他者に自分のことを全て理解してもらいたいだとか、社会そのものを変えようなんて意識は、最早傲慢な態度であって、個人の生き方としては付き合う人間や所属する集団を最適化するというのがベターであろう。

 そもそも論としては、人間関係なんてものは心が傷ついて当たり前なのだ。ここまで、人とは皆異なる存在であるということを一貫して述べてきたが、イデオロギーが乱立している以上その衝突は避けられないものであり、他者とコミュニケーションを取り続けていればどこかで自分が傷つくのは当然のことなのである。もちろん同様に自身の何気ない発現が他者を不快にさせることも日常的に起こっているのだろう。人間関係とはそういうものである。

 だからこそ、他者の意見に左右されない強い自分軸が必要だと感じるのだ。他者に対して無関心でいられるだけの余裕が必要だと感じるのだ。自身の幸福追求を見据えられるだけの強さが必要だと感じるのだ。他者や社会に期待するよりも、自分だけの生き方を模索していくことの方が大事なのではないか。

おわりに

 そういうわけで、やはり私は障害の啓発活動のようなものは嫌いである。まるで社会に対して、自分で自分自身の幸福を追求できるだけの「強さ」がない、弱くて哀れで不憫な存在であると表明し、世界に対して屈しているかのような感覚を覚えるからだ。誰だって、勝手に人から「かわいそう」だと思われることほど屈辱的なことはないのではないか。自分の人生は自分と愛すべき人たちのためにあるものであって、不愉快な言動で他者を傷つける品のない人のためでもなければ、表面的な理解を示して教養があるかのように振る舞う偽善者のためでもないのだ。

 自助努力には限界があるということを述べたが、それでもやはり人が幸福になるためには幸福追求を諦めない心こそが必要であると確信している。これは人類誰にとっても不変の真理であり、意識しているかは別として誰だって闘い続けることでしか幸福を掴み取ることはできないのだ。

 皆が自身の心をいたわり、気持ちに余裕を持てるようになったときこそ、全人が全人に対して優しくなれる世界がやってくるのではないか。

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