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ウェルテルに憧れた人間の行く末

日中に7つ、寝る前に5つ、薬を飲んでいる。
種類と数と時間は変動あれど、わたしはそんな生活を10年近く続けている。
10年、10年か。結構長いこと続けているんだな。打っている時に不意に考えてしまった。
大学生の時にうっかり自分が「普遍」とはちょっと遠い場所でしか息ができない事に気づいて以来、飲み続けて、苦しんで、でも生きていけるようにしてもらえている。

たまにそれがすごく、簡単な事にも思えるし、怖い事にも思えるし、悲しい…とはちょっと違う、でも明らかに暗い気持ちになる。
わたしはこの数種類の粒たちによって、人生や生命を維持しているし、操作されている、と考えてしまうからだ。でもまあ、実際そうなんだけれど。

大学時代、どうしても哲学がやりたくて(正確には、どうしても指導を受けたいと思える教授に出会いその人が哲学の教授だった)、早くから母校を志望し無事卒業までお世話になった。
その時もわたしの前に現れた哲学の課題が、
「人工〇〇で生きる(生まれる)人間は人間なのか?また、生命の倫理に反さないのか?」
だった。
確か授業では攻殻機動隊とかのカルチャーものから、新聞の社会面に出てきそうな話題まで、幅広く取り扱って分かり易く、でも複雑な題を取り組ませてくれた。

当時はドイツ哲学(という分野に分けられる題)がすごく苦手で嫌いだったので、すごくこの重たい話題に触れるのに嫌悪感を抱いていた。
わたしは死を考えるのがとても怖いからだ。
ホラーや人間が怖い、なんて話を聞くけれど、それらが怖いのも、死を考えたり、彷彿とさせるから嫌いなわけであって、そこにフィクションもノンフィクションもない。タナトフォビアというラベリングはされているようなので、名目上そんな感じだ。極端に怖いのだ、死。

人工〇〇っていうのは、生命を維持したり、存続させたりするための措置と思っている。だから、わたしの薬品中毒(合法)も、ある意味人工〇〇(何が入るのかは謎だけど)の対象なわけだ。自然なる人間の容体をした人工なる生命になっているのだ。
やっぱり理由は生きていく為、死にたくない為。だ。

投薬なんて辞めてしまえば、あっという間に衝動的な行動を取っている(と思う)。
でも不思議なことに、衝動的に走る理由は「(わたしなんかが)生きていたって仕方がない、死んだ方がマシ」という気持ちが発端。
死にたがるのに、生きていたい。躁鬱やうつ病って、マジで生命の糖尿病だと思う。
極端に死を怖がって、自然災害の映像も碌に見れない、事件・事故のニュースは全てフィクションだと思っていないと外どころか目覚めることもできない、そういう臆病者なわたし。
自分のことが大嫌いで、自分の存在があるから思い通りにならなくてイライラしてばかりで、自己批判を繰り返しては、機会さえあれば自ら脈を止めたがるわたし。
その二律背反を保つ為の、人工自律神経、投薬。

あー、なんて。いやそういう者として育ってしまったし、そもそもが形成されているわけだから、もう、こればっかはどうしようもないんだけども。
にしても、やっぱり怖いよ、
自分の生死が、感情を支える場所が、他者に握られているって。極端な話。
それでも生きたいんだな、わたし。なんでまた。
こうして人は大学にもう一度入りたい、とかを考えるのだろうか。学問で、なんとかなるんだろうか。
それこそ、人工決定、じゃないのか。それは。

こういうことを考えたり悩んだりして、名著・『死に至る病』は生まれたんだろうな。(冒頭だけで鬱になるでお馴染みの名著)(私見が過ぎる)
哲学者は自己陶酔をし過ぎて死ぬ、
と思った20歳頃のわたし、
無事にわたしも自己陶酔の末、
死にかけては生きているを繰り返しています。
そして、世の中の大人も結構な数、そうなっています。
安心してね。

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