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若さをこじらせちまった方に、よみぐすりを処方いたします。

もし、10代をもう一回繰り返すことができますよ、と悪魔だか天使だかにそそのかされたとしても、私の答えは決まっている。

「お断り申し上げます」

だって、若いって、すっげー面倒くさいから。
見た目は少女で、中身がおばはん、だったらもう一回やってもいいけど。
私の場合、10代がずば抜けて面倒くさかった。

ひとりでは何にも出来ないくせに、正論とか正義とか、そういった概念を振りかざして、いわゆる「理論武装」していたのだ。
特に顕著だったのが「友だち」について。
何をもって「友だち」とするのか、その定義がまあ本当に面倒くさかった。

一緒にいて楽しいこと。
つまらないと思うことがないこと。
嘘をつかないこと。
以心伝心ができること。
ほんの少しでも、相手を軽ろんじたりしないこと。

おいおい、お前何様なんだよ!?
かぐや姫か????

当然、そんなパーフェクト・ヒューマンは存在しないので、私に「友だち」と呼べる人はいなかった。本当に些細なことでも、上記の条件が破られた場合、私は即座に関係を断った。
今思い返すと、本当に恥ずかしい。
10代のころ出会った人たちには、とても顔向けできない。

当時の私は、自分が最低であることに気付いていた。
だから、猛烈に自分が嫌いだった。世界で一番、憎んでいた。
にも拘わらず、私は誰かに必要とされたがっていた。

とんでもなくイヤな奴で、面倒くせえ奴。
私みたいな人間、他には誰もいないんだろうなあ。

世界一孤独な人間であるかのように感じていた私が、図書館の隅っこで見つけたのだ。同志みたいな一冊を。

それが、『愛のごとく』(山川方夫 講談社文芸文庫)


版元ドットコムより。

 私はいつも自分にだけ関心をもって生きてきたのだ。自分にとって、その他に確実なものがなにもなかったので、それを自分なりの正義だと思っていた。私はいつも自分を規定し、説明し、自分の不可解さを追いかけ、自分をあざけり軽蔑してくすくす笑いながら、でも仕方なく諦めたみたいに、その自分自身とだけつきあってきたのだった。(中略)私にはいつも自分はもっとも嫌いな他人だった。私は自分が誰も愛せないのを確信していたのだ。

『愛のごとく』冒頭

冒頭からイヤな奴である。そして、理屈っぽくて面倒くさい。
太宰治の描く作品にも、同じような奴はたくさん出てくるが、『愛のごとく』の主人公は可愛げがない。
太宰版なら、自己嫌悪に浸ってしくしく泣くところを、山川版はニヤニヤ自分を嘲笑っている。

古い女友だちで、今は友人の妻となっている女が、たびたび通ってくる。
なりゆきで一線を越えるが、「これは愛じゃない」と言い張る。
ちゃんとした理由がないからだという。
なんなんだ、そのお子様みたいな正義感と倫理観は!?

あああ、もう!!! 信じられない!!!
まるっきり、私じゃないか、私の生き写しがいるぞ!!!

私は、初めて自分と同じ生き方をしている人間を知った。
ページをめくる指が、喜びで震えた。
私だけじゃないんだ、こういう考えをしているのは!

『愛のごとく』の主人公は、最初から最後まで、考え方を変えることはない。ずーーーーーーっと、イヤな奴である。
だからこそ、10代の私には沁みた。同志だと心から思えた。

最初はイヤな奴だった主人公が、恋をして、挫折を味わい、徐々に大人になっていく、という話だったら、私はきっと反発したと思う。
「世の中、こんなにキレイに出来てねえんだよ、けっ」と。
そういうお話は、どこか説教くさい。上から目線だ。対等ではない。
私のように、こじらせまくっている人間にとっては、胡散臭い宗教のように思えてしまうのだ。

イヤな奴は、イヤな奴のまんまでいい。そうやって生きていくしかない奴もいる。
擁護もしないが、否定もしない。
そんな『愛のごとく』の主人公に、10代の私がどれだけ救われたことか。

『愛のごとく』を読んで、脱こじらせは叶わないだろう。
だが、なぐさめにはなる。
君の苦しみは、君だけのものじゃない。
昔も今も、たいして変わらないはずだ。
若いってのは、こういうものなのだ。
全員がキラキラしているわけじゃあない。
イヤな、面倒くさい人間になってしまう奴だっているのよ。
何でも疑って「ごとく」とか付けちゃうような、どうしようもない時期なのよ。

若者、と呼ばれるのは34歳まで。
作者の山川方夫は、まさにその歳で亡くなっている。
若者の、若者による、若者のための代弁書。

若さをこじらせちまった方には、きっと、深夜の味噌汁くらいには沁みるはずである。

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