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『インド夜想曲』という白昼夢。

旅行をするなら、なるべく「まっさらな状態」がいい。
これから訪ねる場所について、県名と、名物のひとつぐらい知ってるていどの、ぼんやりした感じでいい。

知らない街を、てきとーにぶらぶらする。
大抵、迷う。
でも、スマホがあるから私はちっとも慌てずに、むしろ優雅に、思う存分彷徨える。

住宅街のまん中に、突如行列。
おお?! 何だなんだ、隠れた名店ってやつか???
ビルの隙間に、お稲荷さん。
わわっ、ミスマッチだけどそれが良い感じ!
謎の銅像。
えっ?? だ、誰なの???

唐突に出てくる、さまざまなもの。
たぶん、その土地について予備知識があれば、なぜそこにそういったものがあるのか、理由なり由来なりが解るのだろう。
でも、私はあえてそれをしない。
私は景色をバラバラで覚えていたい。線ではなく、点で覚えていたいのだ。

時代背景なり、その土地の歴史なりを知ったうえでの街歩きは、興味深いけれど、とたんに物語に組み込まれてしまう。
苦難の時代があってとか、交通の便が良かったことからとか、うんぬん。
そういうものを知ってしまうと、景色そのものを味わえない。
物語の一部として、感慨深げに眺めねばならなくなる。
それは、なんだか堅苦しい気がするのだ。
私はただ、その景色なり、ものなりの印象だけを覚えていたい。

夢を見たときと同じかもしれない。
夢には物語がない。あったとしても、脈略もなければ、前後もない。
目が覚めて「あれはなんだったんだろう」と思う。
ただ、そこでみた景色だけはよく覚えている。
霧雨にけぶる山並み。
落ち葉に埋もれた私の両足。
病院と思しき窓から見渡す、崖の街。
そういうものから、フロイトよろしく夢判断をしようとは思わない。
旅の景色同様、それらに意味は必要ない。
なんとなく、好き。それだけでいいのだ。

『インド夜想曲』(アントニオ・タブッキ 著 須賀敦子 訳 白水社)は、旅と夢、その両方を愉しめる一冊である。

主人公は、失踪した友人を探している。
いちおう、そういうことになっている。

まず、熱意がない。
ロンドンから、はるばるインドまで追いかけるほどの友人であるはずなのに、主人公は相手の写真一枚持っていない。
記憶の中でさえ、その顔はおぼろである。
手がかりもほとんどない。
友人と一緒に暮らしていた(らしい)女からの手紙に書かれていた、その女の名前と住所だけ。

それだけを頼りに、主人公はインド各地を彷徨い歩く。
スラム街らしき場所にある安宿、病院、バスターミナル、修道院、砂浜・・・。
章が変わるたび、主人公は別の土地に立っている。
インドの地理はまるでわからないが、その移動には「跳び越える」という感覚がある。
そこには、時間も距離も、過去も未来も、夢と現すらも超越してしまうような、なんともいえない浮遊感があるのだ。

その感覚があまりに気持ちがよいので、友人を探すという主人公の目的なんて、読んでいるこちらが(主人公よりも先に)どうでもよくなってしまっている。

ただ、場所を愉しむ。
その雰囲気に溺れる。たゆたう。
意味はない。目的もない。
ただ、そこにいることを感じる。
旅をするとき、夢を見るとき、私がいつもしているように。

『インド夜想曲』に出てくる場所は、実際に存在しているらしい。
けれども、私はそこを訪れようとは思わない。
なぜなら、私がこの本を読んで受けた印象は、きっと実在の場所では感じられないだろうから。
本を読むことでしか見られない、白昼夢。
それが、私にとっての『インド夜想曲』だ。









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最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。