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初めて読んだときのこと。

何年も、通い続けているごはん屋さんがある。
大通りから少し内に入ったところにある、小さな四川料理屋さんだ。
そこの水餃子が、絶品なのである。
特製ラー油と黒酢がたっぷりかかった、金魚みたいに可愛らしい水餃子。
いつ食べても、何度食べても、本当に美味しい。
あんまり美味しいので、どうしても声が出てしまう。
「ほんっとうに、ここの餃子は美味しいですね!」
給仕のお姉さんは、忙しそうに動き回りながら、それに笑って応えてくれる。

こんなに美味しい餃子に出会えて、私は幸運だ。
と、思うと同時に、もし可能ならば今一度「この味を知らなかった私」に戻りたくもある。
だって、もう一回味わいたいんだもの。
初めてこの餃子を食べたときの、震えるような感動。
あの衝撃に、もう一度打ちのめされたいのだ。

初めて、は一回しかない。

読書もそう。
初めて読んだときの衝撃は、一度きり。

新刊が出るたび、必ず読んでしまう作家さんが何人かいる。
その筆頭が、エリザベス・ストラウトだ。
2009年にピュリッツァー賞を受賞した『オリーブ・キタリッジの生活』(小川高義 訳 早川書房)から、ずっと読み続けている。

先日、最新作『ああ、ウィリアム!』を読んだ。
この作品は、『私の名前はルーシー・バートン』(2017)と『何があってもおかしくない』(2018)の主人公、ルーシーとその元夫ウィリアムの奇妙な関係を描いた作品だ。

彼女の作品は、すべてが繋がっている。
それぞれの主人公が、他の作品の中でも生活していて、時々ひょっこり顔を出したりする。
作品を続けて読んでいると、登場人物たちがすっかり馴染みになって、「あらああ、オリーブ、今そんなんなってんの?」とか「ルーシー(ちなみに作家)スランプなのか」とか、近所のおばちゃんのノリになってしまう。

すっかり私もストラウト氏の創りあげた世界の住人ということだ。
それはそれで、とても心地がいい。
いつも片隅に波の音が聞こえているような、静かな場所。

だけど。
初めて読んだときの衝撃が、どんどん遠ざかっていくような寂しさもあるのだ。

『オリーブ・キタリッジの生活』が私に与えた衝撃は、刺し傷に近い。
グサッと貫かれた。
今でも時々、そのとき受けた傷跡が疼く。

当時の私は、物書きになりたいと切に願っていた。
いわゆる文章読本を読み漁り、上手いと言われる小説を読んでは考察し、映画のプロットを書き写してみたり、絵画や写真の構図にヒントを求めてみたり・・・と、自分なりに藻掻いていた。
『オリーブ・キタリッジの生活』は、新聞の書評で「文章を書こうと思っている人なら絶対に読むべき。こんなに上手い人はそうはいない」みたいな紹介がされていて、超インドアな私なのに速攻で本屋に走った。

一気に読み終えて(あとがきには「絶対に一回で読み切らないでください」という注意書きがあったにもかかわらず)、私は天国と地獄を同時に味わうことになった。

紹介文の通り、とんでもなく巧かった。
そして、とんでもなく心を抉る物語の連続だった。
ああっ、なんて素晴らしいの、素晴らしすぎるぅうううう!!!!!

しかし。
あまりに素晴らしすぎて、私は自分が心底イヤになった。
たぶん、作家を目指している人全員読んだら同じ気持ちになると思う。それくらい出来すぎた作品なのだ。

憧れと、尊敬と、畏怖、それから自分でも抑えられない激烈な嫉妬。
こんなスゴイものを成せる人が、今、自分と同じ時間を生きている。

それから一年もしないうちに、私は作家になりたいなんて思わなくなった。
本を読む時、プロットとかメタファーとか、そういうものを探ろうとするのをやめた。なぜこの言葉を作者が選んだのかを想像し、一行読むのに何分もかかっていた読書法をやめた。

すると『オリーブ・キタリッジの生活』は、いつの間にか普通の小説になっていた。
とても好きな小説のひとつ。
そういって人に紹介できるようになっていた。

エリザベス・ストラウト氏の小説を読み続けているのは、好きだからだ。
初めて読んだとき味わった天国だけが残って、地獄は消えたからだ。

自分の心地いいほうだけを拾い上げたこの選択は、正しかったのだろうか。
イヤなことから逃げて、私は私自身とも、文学とも向き合わなかった。
今ではもう、初めて読んだときのような衝撃は味わえない。
あのころみたいなひたむきさを持って、本を読むことは出来ない。

初恋は忘れがたい、というけれど。
初めて読んだときのことも忘れがたい。
いや、ちがうな、忘れたくないのだ。覚えていたいのだ。
だからこそ、私は今でもストラウト氏の小説を読まずにはいられないのだ。
新しい物を読みながら、私は初読の記憶を呼び覚まそうとしているのだ。
もう一度、あの衝撃に遭えることを期待しているのだ。

いやはや。
なんだか安っぽい恋愛ドラマみたいだ。
一生忘れられない人に出会ってしまった、という設定の。
でも、実際、そういう人には滅多に出会えるものじゃない。

読書を続けていると、こういう出会いがある。
安っぽかろうがなんだろうが、私と言う冴えない人間がヒロイン気取れる奇跡みたいな出会いが。






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