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あなたはシェイクスピアの中で、誰が好きですか?

シェイクスピアを読む愉しみは、自分の分身を探すところにあると思う。

シェイクスピアによって、人間はすでに描きつくされている。
とは、開高健の言葉だったろうか。
彼の残した37作品のどこかに、必ず一人は自分に似た登場人物を見つけることができるのだという。

私はまだ3作品しか読んだことがないのだが、ちゃんと見つけた。
私の分身ちゃんは、『マクベス』のマクベス。
魔女にそそのかされて、君主殺しという大罪をやってのけるのだが、罪の重さと復讐におびえ、最後までオロオロ、ブルブルしている小心者だ。
屈強な武将であるらしいのに、何一つ自分で決断できないという体たらく。
君主を殺すにしたってウジウジしており、見かねた妻に尻を蹴とばされて、やっと剣を突き立てることが出来たぐらい。
このダメダメな感じ、わかるなあ。

加えて、子どものころ「私は不幸になる」とずっと思い込んでいた。
なので、くじ引きで特賞が当たったり、イラストを褒められたりすると、嬉しさよりも恐怖が勝った。イイことがあるたびに、私は運命の帳尻合わせに怯えていたのである。可愛くないガキだったと我ながら思う。

そんなわけで、マクベスを他人とは思えないのである。

『塀の中のジュリアス・シーザー』というイタリア映画がある。
本物の囚人たちに、『ジュリアス・シーザー』を読み込んでもらい、演じてもらうというドキュメンタリー(調、かもしれない)だ。
囚人たちの罪は軽くない。強盗、詐欺、殺人で終身刑というものもいる。
そんな彼らが、本を読んで言う。
「このセリフ、俺は言った(もしくは言われた)ことがあるよ!」
何百年も前の人が、自分のことを解ってくれている。
解ってくれる人がいた、ということ。
その驚き、嬉しさ。
彼がセリフを演じたときの気迫は、スクリーン越しでもビリビリ伝わってきた。

それを見ながら、私は、彼という生身の人間を通して『ジュリアス・シーザー』の登場人物を、血の通った存在として理解することができたのだった。

人生は、良くも悪くも一回きりである。
私は『マクベス』に分身を見つけ、映画の中の彼は『ジュリアス・シーザー』に見つけた。
けれども、その他36作品の中には、全く理解できない人物もいるはずなのだ。実人生で経験できることは、そんなに多くはないのだから。

私は『ハムレット』の中の人々が理解できない。
父親の亡霊を見て、叔父と母に復讐を誓うハムレット。
冒頭の、父親の亡霊との対話がすでに狂気である。あまりにハムレットに都合が良すぎることばかり言う亡霊が、なんだか一人芝居じみていて怖い。
狂うふりをして、恋人のオフィーリアを自殺に追い込むというけれど、私には最初から狂ってるように思えてしかたがない。

オフィーリアも、よく解らない。
王子であるハムレットと恋仲になるよう、父親に仕組まれていたように見えるのは私だけなのだろうか。ハムレットから貰った手紙は父親に全部見せてるし、彼の言動もいちいち報告しているし。
本当に好きなの? 好きになれって言われたから、従順に「ふり」をしているんじゃないのか、この小娘は。

その他の登場人物についても、「はぁ?」と突っ込まずにはいられない。
それぞれが、微妙にズレているのだ。
シェイクスピアの四大悲劇のひとつに数え上げられているけれど、なぜだろう、私には不条理ギャグコントのように思えてしまった。

イギリス人は、シェイクスピアについて何かしら語ることができるという。
それが都市伝説でないのならば、私は本腰を入れて英語を勉強しようと思う。
ほんで、バーだかパブだかへ繰り出して行って、紳士淑女の皆様方に片っ端からお尋ねしたい。
「あなたはシェイクスピアの中で、誰が好きですか?」と。

きっと何人かは「オフィーリアって私みたいなのよね」とか、「ハムレットのあのセリフ、わかりすぎて驚きました」とか言う人が出てくるはずだ。
私はその人にビールなりウイスキーなりを奢って、語り合いたい。
どんな人生を送ってきたのかを。
そうすることで、私は『ハムレット』を本当の意味で「読んだ」ことになるのではないかと思うのである。

イギリスに行かなくても、日本でそれができたらもっといい。
私は、自分とは全く違う人生を歩んできた人のことを、理解したい。
でも、初対面でいきなり「あなたの人生を教えてください!」とはさすがに言えない。
だから、シェイクスピアを隠れ蓑にして、そうっと聞き出したい。
「あなたはシェイクスピアの中で、誰が好きですか?」と。

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