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1-18 ユダ王国

  • 前931年頃:ソロモン王が死去。息子レハブアムが後を継ぐも、北方に入植した10の諸部族とシケムで会談した際にさらなる重税をちらつかせたため、北方諸部族はヤロブアム1世をイスラエル王とし、ヘブライ人の統一王朝はイスラエル王国(ヤロブアム王朝)とユダ王国(ダビデ王朝。ユダ族とベニヤミン族)とに分裂。ユダ王レハブアムはイスラエルを攻撃しようとしたが、預言者シェマヤに阻止された(しかし、両者の戦争は絶えなかったとも)。やがて、東ヨルダンのアンモン、モアブ、エドムの諸国はイスラエルから離反・独立

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』

上図:イスラエル王国とユダ王国の版図

出典:Oldtidens_Israel_&_Judea.svg: FinnWikiNoderivative work: Richardprins, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前927年頃:エジプト王シェションク1世がユダ王国及びイスラエル王国に遠征(ユダ王位を主張し、かつてエジプトに逃亡していたヤロブアム1世を支持しての遠征であったか)。パレスチナの南部沿岸地方、ネゲヴ地方を攻撃し、後にパレスチナ中部・北部地方を侵略した。メギドやトランスヨルダンのマハナイムなどを占領し、イェルサレムを攻撃したか(攻撃はしていないとする説もある。ユダ王レハブアムがエジプトに朝貢し、侵攻を思いとどまらせたとも)。結果、ユダ王国はエジプトへ財宝を差し出し、貢納の義務を負わされたと考えられている。また、イスラエル王国も侵攻の被害に遭っている

  • 前914年頃:ユダ王アビヤムが即位。国境地帯にて、イスラエル王ヤロブアム1世に勝利し、イスラエルの南部領土を併合した

  • 前911年頃:ユダ王アサが即位。偶像崇拝などを粛正し、祭儀改革を断行

  • 前888年頃:ダマスクスでベン・ハダド1世が即位(ベン・ハダド王朝の創始)。彼はユダ王と同盟を結び、アッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開、時には連合した。この頃、ユダ王アサはイスラエル王バシャに攻撃され、エフライム丘陵地帯を失陥し、ラマの町を包囲されたが、アサの支援要請を受けたベン・ハダド1世がイスラエル北部に侵攻し、バシャはラマの包囲を解く。更にベン・ハダドはイスラエルの北端のいくつかの町、キネレト及びナフタリの全土(ヨルダン渓谷の西側、ガリラヤ湖に到るまでの地域)を奪取した。以後も、ユダとイスラエルの争いは絶えず。なお、アサは南方のネゲヴからシェフェラーに侵攻してきた遊牧民の集団を撃破している

  • 前885年頃:イスラエル王オムリが即位(オムリ王朝の成立)。彼は首都をサマリアとする。また、トランスヨルダンに勢力を拡大し、モアブを長期間にわたって圧迫(モアブ人を支配下に)

  • 前873年頃:イスラエル王アハブが即位。アハブはトランスヨルダンの支配を強めている

  • 前871年頃:ユダ王ヨシャファトが即位。ヨシャファトはペリシテ人とアラビア人から朝貢を受けていたという。また彼は、軍備を拡張し、モアブ人とアンモン人の連合軍をエドムとトランスヨルダン地方にて迎撃し、撃破したか

  • 前858年:アッシリア王シャルマネセル3世が即位。彼は前826年までに35回もの遠征を繰り返した。シリア・パレスチナに数次にわたって遠征し、地中海にまで達する

  • 前853年:シャルマネセル3世がシリアに遠征。アレッポとハマトを占領し、カルカルを掠奪するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世を中心とする、イスラエルなどの反アッシリア同盟(12の王国の連合)が、およそ10万のアッシリア軍とオロンテス川近郊で激突(カルカルの戦い)。結果、アッシリア軍の撃退に成功し、アッシリアの進出は一時停止

  • 前853年頃:ユダ王ヨシャファトの子ヨラムとイスラエル王アハブの娘アタリヤが結婚。南北両王国の同盟が強化される(ユダはイスラエルに服従したとも)

  • 前853年頃:イスラエル王アハブがヨルダン川東のラモト・ギレアドをアラム人の支配から奪還しようと出陣するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世に敗死(ラモト・ギレアドの戦い。諸説あり)

  • 前850年頃:トランスヨルダンのモアブ王メシャがアタロトのイスラエル人を破り、占領。住人を全滅させる。イスラエル王ヨラムはユダ王ヨシャファトとともにメシャ討伐を敢行したが、敗北。モアブはイスラエルから独立を達成

  • 前848年頃:ユダ王ヨシャファトが死去。以後、ユダ王国は衰退。後継のユダ王ヨラムはペリシテ人とアラビア人の侵攻を受け、息子らを捕虜として連れ去られる。なお、ユダ王ヨラムはイスラエル王ヨラムと同一人物で、イスラエル王がユダ王国をも支配していたとする説がある。また、この頃、エドムがユダの支配を脱する

  • 前841年頃:イスラエル王ヨラムとユダ王アハジヤがダマスクス王ベン・ハダド2世と激突。しかし、両王はヨルダン川の東にあるラモト・ギレアドで敗北(ヨラムは負傷)。この後、イスラエル王国の預言者エリシャはダマスクスに赴き、軍司令官のハザエルにベン・ハダド2世を殺害させる。ダマスクス王となったハザエルはイスラエルやアッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開。結果、イスラエル王国の諸都市を攻略、ヨルダン川東の全域をイスラエル王国から奪取した

  • 前841年頃:イスラエル軍司令官イエフが王を名乗り(イエフ王朝)、イズレエルに進軍していたヨラムを殺害。ヨラムを訪問していたアハズヤの命も狙う

  • 前841年:シャルマネセル3世による4度目のシリア遠征。イスラエルや、フェニキア諸都市などがアッシリアに服属

  • 前840年頃:イエフがユダ王アハズヤを殺害。アハズヤは逃げる途中に矢で撃たれ、メギドで死亡したとも、サマリアに隠れていたところを見つかり、処刑されたとも伝わる。イスラエル、ユダの両王を殺害した結果、イエフは南北の両王国を支配。ユダ王にはオムリの孫娘で、ヨラムの妃であったアタルヤが即位。彼女はヨラムの息子をすべて殺して、ユダ王家を滅ぼそうとするも、ヨアシュだけは取り逃した。彼女はイェルサレム近郊にバアル神殿を建立

  • 前835年頃:ユダの女王アタルヤが近衛兵(イスラエルから送り込まれていた兵士であったとも)に殺害される。そして、アハジヤの子ヨアシュがユダ王に即位(ダビデ王朝の復活)。アタルヤが崇拝していたバアルの神殿は破壊される。彼の治世にはダマスクス王ハザエルが攻勢を強めており、彼がイェルサレムにまで攻め上った際、ヨアシュはハザエルに貢ぎ物をして難を逃れている(ヨアシュ王はイスラエル諸都市やトランスヨルダンの地域を奪回したとも)

  • 前818年頃:エジプト第23王朝が成立。第23王朝はイェルサレムを掠奪している

  • 前805年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がダマスクスを包囲。ダマスクス王ハザエルはアッシリアに朝貢した

  • 前805年頃:ダマスクス王ベン・ハダド3世が即位。彼はイスラエル王国を侵略し、領土を奪い取って属国とする。また、ユダ王国も屈服させた

  • 前800年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がシリア及びフェニキアに進出し、これらの地を支配下として朝貢を受ける(ペリシテ人の諸都市もアッシリアの朝貢国となった)。また、ダマスクスの攻略にも成功した。加えて、ユダ王国からも朝貢させている

  • 前796年頃:ヨアシュが家臣に殺害され(ダマスクスに貢ぎ物をしたことが原因か)、アマツヤがユダ王に即位。アマツヤは直ちにヨアシュ殺害犯らを殺害する。その後、南方に進軍し、「塩の谷」でエドム人を打倒し、征服。更にイスラエル王国と要衝ベト・シェメシュで激突するも、イスラエル王ヨアシュに敗れ捕らえられる(後に解放された)。ヨアシュはそのままイェルサレムに進軍し占領。城壁の一部を破壊して、財宝を掠奪した

  • 前782年頃:イエフ王朝のヤロブアム2世が即位。彼の治世がイスラエル王国の最盛期で、彼はシリアのハマトから死海までを領有

  • 前773年:シャルマネセル4世がダマスクスを攻撃するも戦死。結果、シリアの大半をアッシリアは喪失。以後、後継者争いも発生

  • 前767年頃:ユダ王アマツヤが殺害され、ウジヤが単独統治を開始。彼は王国分裂後、最大のイェルサレムの防禦工事を実施し、ユダ王国の繁栄を回復させる。また、軍の装備を改善し、アラビア人、アンモン人との戦いに勝利したという。更にエドム、ペリシテの町々を征服している

  • 前760年頃:ヤロブアム2世がダマスクスを破り、占領に成功

  • 前747年頃:ヤロブアム2世が死去。以後、イスラエル王国は衰退。後継のゼカルヤも同年に殺害され、イエフ王朝は断絶

  • 前742年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がハマトを占領。これに対し、イスラエル王メナヘムはアッシリアに降伏し、貢納する

  • 前739年頃:ユダ王ヨタムが即位。彼は拡大政策を続行し、アンモン人から貢ぎ物を取り立て、ユダの山地に町を築き、森の中に城砦や塔を築いている。治世中に、シリア・エフライム(ダマスクス・イスラエル)連合軍が初めてユダ王国を攻撃

  • 前738年:ティグラト・ピレセル3世がシリア・パレスチナに遠征し、シリア北部の連合軍を撃退。シリアとアナトリア東部に貢納を強制した。この年までにダマスクスなどのシリア・パレスチナの諸王がアッシリアに朝貢。ビブロスを除く北部フェニキアの沿岸都市はアッシリアの属州となった

  • 前735年頃:アッシリアがユダ王国と組んで、イスラエル王国を攻撃

  • 前734年:ユダ王アハズがアッシリアに朝貢

  • 前733年頃:アッシリアがガザを占領。これに対し、ダマスクス王レツィンとイスラエル王ペカが他の諸国とともに反アッシリア同盟を結成。しかし、ユダ王アハズはこの同盟に参加せずに親アッシリア政策をとった。そのため、同盟諸国はイェルサレムを包囲(シリア・エフライム戦争)。ティグラト・ピレセルはイェルサレム神殿の宝物と引き換えにアハズを救援した。そして、反アッシリア同盟軍を破り、イェルサレムを攻囲から解放すると、イスラエルを劫掠。また、ティグラト・ピレセルはガリラヤ地方やトランスヨルダンの征服を進めた。以後、ユダ王国はアッシリアに臣従

  • 前732年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がダマスクス王国を滅ぼす。ラヒアヌ王は殺害され、ガリラヤなどイスラエルの北部もアッシリアが制圧。イスラエルはサマリア周辺のみの領土となる。更にアッシリアはセム系諸民族も破り、全シリアを掌握することに成功した

  • 前732年頃:イスラエル王国の民衆がホシェアを立てて、ペカを殺害。ホシェアを王とする

  • 前731年:イスラエル王ホシェアがアッシリアに朝貢

  • 前728年頃:ユダ王ヒゼキヤが即位。彼の時代に、シメオンの氏族がゲラルの先住民ハム族を滅ぼして、ゲラルに居住を始めたという

  • 前727年:ティグラト・ピレセル3世が死去

  • 前727年頃:エジプト第24王朝が成立するも、エジプト第25王朝(クシュ系)のピイ王の侵略を受ける。結果、ピイ王は一時エジプトの再統一に成功

  • 前724年頃:ホシュア王がエジプトと結び、アッシリアへの貢納を拒否。これに対し、アッシリア王シャルマネセル5世はホシュアを捕らえ、イスラエル王国の首都サマリアを包囲

  • 前722年頃シャルマネセル5世(次王のサルゴン2世とも)がサマリアを攻略し、イスラエル王国が滅亡(エフライムなどの10支族の滅亡)。多くの住民が強制移住させられた。また、ユダ王国と他の小国がアッシリアの属国に。しかし、ユダ王ヒゼキヤはアッシリアに属しながら、ネゲヴ国境の拡大に成功

  • 前720年:ハマト率いる反アッシリア連合軍がサルゴン2世に敗北、ハマト王国が滅亡。ユダ王国やシリア・パレスチナの小国はアッシリアに服属させられた

  • 前720年:サルゴン2世がガザにてエジプト軍を破る

  • 前715年:サルゴン2世がアラビア人をサマリアに定住させる。サルゴンはアラビア地方にも遠征していた

  • 前715年頃:エジプト第25王朝のシャバカ王がエジプト全土を再統一。この後、エジプトはフィリスティヤ平野と、エジプトへと通じる街道を巡って、アッシリアと争う

  • 前715年頃:ユダ王国がエジプトと結び、反アッシリア同盟を確立しようとする試みを開始

  • 前713年頃:ユダ王ヒゼキヤがエジプトの支援を受けて、トランスヨルダンのエドム人やモアブ人、都市アシュドドとともにアッシリアに反旗を翻す。また、彼はアッシリアやカナーンの神々を追放して、ヤハウェ神崇拝の復活も図っている

  • 前711年:サルゴン2世がアッシリアの支配に反発したアシュドドを攻略

  • 前711年頃:ユダ王国らのアッシリアへの反乱が鎮圧される。アッシリアがユダに侵攻したか

  • 前705年:アッシリア王サルゴン2世が戦死。これを受けて、各地の属州で叛乱が勃発。ヒゼキヤもアッシリアからの独立を宣言。更に彼は、アッシリアやカナーンの神々への崇拝を粛正

  • 前704年:アッシリア王センナケリブが即位。ユダ王ヒゼキヤはセンナケリブの侵攻に備えて、上下水道トンネルの建設を行い、水をイェルサレム城内に取り込むことに成功

  • 前702年頃:ヒゼキヤがイェルサレムの城壁を築造

  • 前702年頃:エジプト王シャバタカが即位。彼はパレスチナやフェニキアのアッシリアに対する反乱を支援

  • 前701年春:センナケリブが、叛乱を起こしていたフェニキア地方に遠征、ティルス領を侵犯。フェニキア地方以外のシリア・パレスチナ地方にも進軍。フェニキアやパレスチナ南部の諸都市、トランスヨルダンのモアブ人やアンモン人を従わせる。更にユダ王ヒゼキヤがアッシリアの属王エクロンのパディを捕虜としたことを受けて、ユダ王国にも侵攻し、アシュケロンやヤッフォなどのユダの沿岸の町を占領。エジプトのシャバタカ王は息子タハルカ率いる軍をユダ王国への援軍として派遣したが、アッシリア軍はエルテケでこれを破った後、要塞都市の占領を開始。ラキシュはアッシリア軍による攻囲戦の末に占領され(ラキシュ攻城戦)、イェルサレムとその周辺以外は占領された(46の要塞都市が占領されたという)。加えてイェルサレムも包囲したが、攻略には失敗し、アッシリア軍は撤退(野営地で病気が発生したためか)。ヒゼキヤがセンナケリブに貢ぎ物を贈り、領土の削減を受け入れたことがアッシリア軍撤退の要因の一つか。なお、この取り上げられた領土は、沿岸平原とシェフェラ地方の属国に与えられている。以後、ユダ王国はアッシリアに臣従

上図:ラキシュを攻撃するアッシリア軍の攻城兵器。ラキシュからはセンナケリブが攻城のために築いた傾斜路、住民が作ったと思われる防御用の傾斜路も発見されている

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前700年頃:アッシリア帝国がペリシテ人の領域を属州化

  • 前681年:アッシリア王センナケリブが息子らによって暗殺される。センナケリブは治世末期にパレスチナを再度攻撃。ユダ王マナセはアッシリアに服属し、自治権を与えられた。他にも、マナセは異教祭儀をイェルサレム神殿に導入している

  • 前680年頃:スキタイ人がパレスチナに侵入

  • 前673年頃:アシュケロンがエジプト(ユダ王国と同盟を結んでいた)と連合し、アッシリアに反乱。結果、連合軍はアッシリアの撃退に成功

  • 前671年:ティルスがエジプトの支援を受けてアッシリアに反乱したため、アッシリア王エサルハドンがティルスを攻略

  • 前671年:アッシリア王エサルハドンのエジプト遠征。この遠征にユダ王国も協力したか。アッシリア軍はテーベまで遠征するも、エジプト王タハルカを捕らえることには失敗。エサルハドンはシリア・パレスチナでの反乱に対処するために、サイスの支配者ネカウ(ネコ)1世(第24王朝の末裔か)に毎年の貢納と引き換えに自治を許すなど、エジプトを小王に分治させる。しかし、後にタハルカがエジプトに帰還し、支配を奪還

上図:アッシリアの版図(前671年)

出典:Wikipedia
  • 前669年:ティルスがアッシリアに背いてエジプトと同盟を結んだため、エサルハドンがティルスを討伐。この後、エジプトへ進軍するも途上で陣没

  • 前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトに侵攻。再びタハルカ王を南に追いやり、エジプトの反乱を鎮圧

  • 前664年:タハルカ王が死去し、共同統治者であった従兄弟のタヌタマニ(タヌトアメン)王がナパタで即位。彼はアッシリア軍撤退後のエジプトに侵入し、アスワンとテーベ、さらにメンフィスを奪回

  • 前664年:ネカウ1世が死去し、プサメテク1世がサイスにて即位。アッシリアは彼のエジプト支配を承認し、エジプト第26王朝(サイス朝)が成立。以後、エジプト末期王朝時代となる

  • 前663年:アッシュルバニパル王率いるアッシリア軍がテーベを攻略。アッシリア帝国が全エジプトを支配

  • 前655年:プサメテク1世がリディア王国やイオニア人傭兵らの援助を受けてアッシリアから独立。この頃のエレファンティネにはユダヤ人の傭兵が定住させられた(エレファンティネ島はユダヤ人の軍事植民地に)

  • 前642年:ユダ王マナセがアッシリアに背き、捕らえられる。彼はイェルサレムの防備を固め、砦を強化し、新たな外壁を築いていた。この後、ユダ王にはアモンが即位

  • 前641年頃:ユダ王アモンが宮殿内で家臣に殺害される

  • 前640年頃:富裕な地主たちがユダ王にヨシヤを即位させる

  • 前633年:アッシリアで内乱が勃発。これを契機として、スキタイ人がシリア・パレスチナに侵入

  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)

  • 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退

  • 前626年:スキタイ人がシリア・パレスチナを破壊し、エジプト国境にまで支配領域を拡大

  • 前626年10月26日:ナボポラッサルのもと、バビロニアがアッシリアから独立(新バビロニア王朝の成立)

  • 前621年頃:ユダ王ヨシヤがアッシリアの国家祭儀を排除し、偶像破壊を推進。また、アッシリアの衰退に乗じて、版図を北に広げ、イスラエルを奪回

  • 前612年新バビロニアのナボポラッサルとメディアの連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを攻略

  • 前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍

  • 前609年夏:ユダ王ヨシヤがネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とした。富裕な地主らはユダ王にヨアハズ(ヨシヤの子)をつけるも、ネカウはヨアハズをリブラに幽閉し、3ヶ月で退位させる。そして、別の子であるエリヤキム(改名させてヨヤキムとした)を即位させた(ユダはエジプトの属国に)。ヨヤキムはユダ領内で軍事的・政治的権利を与えられていたアム・ハアーレツ(自由民)を弾圧し、エジプトに対して忠誠を示す。一方のエジプト軍は更にカルケミシュやハランにまで侵攻したが、ハラン救援に関しては果たせず、新バビロニアがエジプトの援軍を破る。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡。しかし、エジプト軍は以後もシリアに残留

  • 前605年8月1日:新バビロニアの皇太子ネブカドネザルがシリアに遠征。シリアにまで進出していたエジプト軍(アッシリアの残党軍と合流)をカルケミシュやハマトで破り、シリア・パレスチナの支配を一部確立

  • 前605年ネブカドネザル2世が新バビロニア王となる

  • 前604年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナに数次にわたる遠征を開始(~前601年)。シリアにてネカウ2世を破り、パレスチナを南下、ペリシテ地方のアシュケロンを占領する。アシュケロンやエクロン、アシュドドやティムナなどのペリシテ地方の諸都市は恐らくこの時に破壊されたと考えられている(エジプトと結びつきの強いペリシテ地方を消滅させることが狙いであったか)。また、この時にユダ王ヨヤキムが新バビロニアに臣従したと考えられている。ネブカドネザルはパレスチナからエジプト勢力を一掃すると、更にエジプトの川にまで到達し、エジプト軍を南方まで追撃した

  • 前601年:新バビロニア王ネブカドネザル2世のエジプト侵攻軍をエジプト軍が東デルタの国境線で迎撃。更にフィリスティヤ南部にて、エジプト軍が新バビロニア軍を撃破。結果的に新バビロニアによるエジプト遠征は失敗に終わった。これを受けて、ユダ王ヨヤキムが叛乱を宣言し、エジプトと結ぶ

  • 前599年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナ諸国及びアラブ遊牧民に対する遠征を開始(~前598年)

  • 前598年12月:ネブカドネザル2世が西方遠征を開始し、ユダ王国のイェルサレムを目指す。新バビロニア軍はネゲヴの重要都市アラドを破壊し、イェルサレムを包囲。この包囲戦の最中に、ユダ王ヨヤキムが死去したか(殺害されたとも)。なお、この頃の新バビロニアにはティルスやガザ、シドン、アルワドやアシュドドらが服属していた

  • 前597年3月16日:ネブカドネザル2世がイェルサレムを攻略。ユダ王ヨヤキンはネブカドネザルに降伏。ヨヤキンなどの王族や有力者らはバビロンに連行された(第1回バビロン捕囚)。この後、ネブカドネザルはヨアハズの実弟マッタニヤ(ゼデキヤと改名させる)をユダ王とし、ユダ王国は新バビロニアに臣従

  • 前592年:ユダ王ゼデキヤが、エジプトのヌビア遠征に援軍を派遣。両国の間に密約が存在したか

  • 前591年:エジプト王プサメテク2世がユダ王ゼデキアを支援するために、南パレスチナに派兵。これにより、ユダ王国の新バビロニアへの反抗が活発に

  • 前589年2月:エジプト王アプリエス(ウアフイブラー)が即位。彼はキプロス、フェニキアに軍事遠征を実施

  • 前589年:ユダ王ゼデキアが、エジプトの教唆でエドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの諸王らと共に反バビロニアの陰謀を企て、新バビロニアに叛乱。ゼデキヤは再びエジプトの属王となり、イェルサレムに籠城する

  • 前588年:ネブカドネザル2世がユダ王国領に侵攻し、ラキシュ、アゼカ、イェルサレム以外のほぼ全域を制圧

  • 前588年1月15日:新バビロニア軍がイェルサレムを包囲。これに対し、アプリエスは自ら出兵。エジプト軍接近の噂によって、イェルサレムの包囲は一時解かれるも、再度包囲される

  • 前587年:新バビロニア軍が2年間包囲したラキシュを攻略し、焼き払う

  • 前587年:ネブカドネザル2世がアプリエスの軍に大勝。エジプト軍は撤退

  • 前587年7月19日:ユダ王国領のアゼカの町が新バビロニアによって陥落した直後、イェルサレムも陥落。市街及び城壁、イェルサレム神殿が完全に破壊される(ユダ王国の滅亡)。以後、ユダ王国領は新バビロニアの属州となり、州都はミズパへと移された。しかし、強制移住させられたユダ王国内の人々にはある程度の信仰の自由が保障されていた。ゼデキヤは逃亡するも、イェリコの平野で捕らえられ、ネブカドネザルの本営であるリブラにて残虐な刑罰の後にバビロンに連行された(第2回バビロン捕囚)。これ以降、ヘブライ人の宗教がユダヤ教として確立されていく

  • 前582年:ユダ統治を任された属州総督のゲダリヤがダビデ家出身のイシュマエルの奸計によって殺害され(アンモン王の教唆とも)、イェルサレムの上層階級の一部がバビロンに連行される(第3回バビロン捕囚)

  • 前539年10月12日:アケメネス朝のキュロス2世がバビロンを無血開城させ、新バビロニアを滅ぼす

  • 前538年アケメネス朝キュロス2世がバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放(帰還許可勅令)。帰還民の指導者としてシェシュバツァル(ユダ王ヨヤキンの子)を任命し、属州ユダヤの初代総督とする。イェルサレムの城壁再建の試みが行われるが、サマリアの支配勢力などから武力による妨害を受けることもあったようである

  • 前515年3月12日:イェルサレムに第2神殿が完成

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