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1-24 新アッシリア帝国の絶頂と滅亡

  • 前680年:エサルハドンが父王を殺害した反逆者勢力を一掃し、アッシリア王に即位。彼はバビロニア王でもあり、バビロニア及びエラム人と和睦を結んだ。マルドゥク神像を帰還させてバビロンの再建にも着手し、バビロニアに対して融和的な姿勢をとる。一方、エサルハドン王はその治世中に、かつてのバジ王朝の拠点と考えられるバジを攻撃したか。また、エサルハドンはスキタイ(アッシリアはアシュグサと呼んだか)と同盟を結び、マンナイ(現アゼルバイジャン)にスキタイが建国することを認める

上図:古代オリエント要図

出典:『古代メソポタミア全史』

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前680年頃:スキタイ人がパレスチナに侵入

  • 前679年:アッシリア王エサルハドンがタバルに侵攻し、キンメリア人と対決、これを破ったか。結果、キンメリア人の南進は阻止された。しかし、タバルとメリドは独立を保っており、一つの国家としてまとまっていたと考えられる。この後、クエにあった都市クンドゥとシッスの支配者サンドゥアリ(カラテペの支配者アザティワダと同一人物か)が、シドンのアブディ・ミルクッティとともに反乱を起こす

  • 前677年:アッシリアが反旗を翻したシドンを破壊

  • 前676年:アッシリアがアブディ・ミルクッティを処刑

  • 前676年:エサルハドンがクエの反乱を鎮圧。サンドゥアリを捕らえて処刑し、クエをアッシリア統治下とする

  • 前673年:アシュケロンがエジプト(ユダ王国と同盟を結んでいた)と連合し、アッシリアに反乱。結果、連合軍はアッシリアの撃退に成功

  • 前672年:ダーイウックの後継者フラワルティシュ(フラオルテス)が、スキタイ人の援軍を得てカール・カッシーの城砦(エクバタナか)でメディア王に即位。これにより、メディア王国が成立した。フラオルテスはエクバタナに七重の城壁で守られた城市を築き、アッシリア式の城砦包囲戦術を用いた

  • 前672年:エサルハドンが王位継承に関する誓約儀礼を行う。アッシュルバニパルをアッシリア王に、シャマシュ・シュム・ウキン(おそらくアッシュルバニパルの異母兄弟で、シャマシュ・シュム・ウキンの方が年上であったか)をバビロニア王とすることを誓わせた。こうした誓約はメディアの都市国家の為政者らとも交わされている

  • 前671年:ティルスがエジプトの支援を受けてアッシリアに叛乱したため、エサルハドンのアッシリア軍(ラクダの群れを率いていた)がティルスを攻略後、シナイ半島に侵入し、これを占領。デルタ地帯にまで到達し、エジプトのタハルカ王と約15日間激闘を繰り広げる。最終的にエサルハドンはメンフィスでタハルカ王を撃破し、エジプト王家の王子などを捕らえた。結果、エサルハドンは「エジプトの王」を一時称する。青銅製武器を主軸としていたエジプト軍に対し、鉄製武器で武装していたことがアッシリア軍の勝利の要因であったと考えられている。タハルカはナパタにまで逃亡し、アッシリア軍はテーベまで進軍するも、タハルカを捕らえることには失敗。エサルハドンはシリア・パレスチナでの反乱に対処するために、サイスの支配者ネカウ(ネコ)1世(第24王朝の末裔か)に毎年の貢納と引き換えに自治を許すなど、エジプトを小王に分治させる。しかし、後にタハルカがエジプトに帰還し、支配を奪還

上図:エサルハドン。上の石碑には、エジプトのタハルカ王の王子とシドンのアブディ・ミルクッティがエサルハドンのもつ綱で繋がれている。アッシリア軍はアルメニア山地などから鉄鉱石を集め、鉄製武器で武装していたが、エジプト軍は鉄資源の不足から青銅製武器が主体であった

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:新アッシリア帝国の最大版図(前671年)

出典:Wikipedia
  • 前669年:ティルスがアッシリアに背いてエジプトと同盟を結んだため、エサルハドンがティルスを討伐。この後、エジプトへ進軍するも途上で陣没。後継者のアッシュルバニパルは間もなく撤兵

  • 前668年:アッシリア王アッシュルバニパル(アッシュル・バーン・アプリ)が即位。治世中、彼は9度遠征を実施(フリュギア、リディア、ウラルトゥ、メディアにも遠征)

  • 前667年:バビロニア王シャマシュ・シュム・ウキンが即位。アッシュルバニパルが即位させたという形をとっており、バビロニアはアッシリアに従属。アッシュルバニパルはバビロニアにスパイまで送って内政干渉を図る

  • 前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトに侵攻し、メンフィスを占領。再びタハルカ王を南に追いやり、エジプトの反乱を鎮圧。タハルカはナパタにまで逃れた。この時にアッシュルバニパルは、ネカウ1世以外の高位の貴族を全員処刑し、テーベの市長メンチュエムハトはアッシリアに降伏。この後、アッシュルバニパルはアッシリアに叛いたティルス王バアル1世を攻撃し、降伏させる

  • 前665年:アッシュルバニパルがネカウ1世と息子のプサメテク1世のエジプトにおける自治権を認める。ネカウ1世をサイスの、プサメテク1世をアトリビスの王とした

  • 前664年頃テプティ・フンバン・インシュシナク(テウマン)エラム王に即位。彼はエラム全土を統一した

  • 前664年:アッシュルバニパルがエジプトに再び侵入

  • 前664年:タハルカ王が死去し、共同統治者であった従兄弟のタヌタマニ(タヌトアメン)王がナパタで即位。彼はアッシリア軍撤退後のエジプトに侵入し、アスワンとテーベを奪回。更にメンフィスのアッシリア軍と対決し、メンフィスをも奪回した。アッシリアを支持する下エジプトの豪族を成敗している

  • 前664年:ネカウ1世が死去し、リビア系エジプト人のプサメテク1世がサイスにて即位。アッシリアは彼のエジプト支配を承認し、エジプト第26王朝(サイス朝)が成立。以後、エジプト末期王朝時代となる

  • 前663年アッシュルバニパル王率いるアッシリア軍がエジプトの反乱を鎮圧し、メンフィス及びテーベを攻略。アッシリア帝国が全エジプトを支配。タヌタマニ王はナパタに撤退した。アッシュルバニパルはエジプトの管理をプサメテク1世に委ねる

上図:アッシュルバニパル。彼は多くの文書を集めさせたが、そのコレクションは「ニネヴェの図書館」と言われる

出典:Carole Raddato from FRANKFURT, Germany, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前656年:タヌタマニが死去し、エジプト第25王朝が終焉

  • 前656年:プサメテク1世がエジプト全土を統一

  • 前655年:エジプトのプサメテク1世が、リディアやイオニア人傭兵らの援助を受け、アッシリアより独立を達成

  • 前653年:アッシュルバニパルがエラム遠征を実施。エラム軍をウライ河岸のティル・トゥーバにまで追い詰め、テウマンとその子タンマリートゥを打倒し殺害(ティル・トゥーバの戦い。ウライ川の戦いとも)。この後、エラムは2つに分割され、アッシリアの属国となる

上図:ティル・トゥーバの戦い。かぶとをかぶり、完全武装のアッシリア兵に対し、エラム兵は軽装で頭部は鉢巻だけで表現されている

出典:Carole Raddato from FRANKFURT, Germany, CC BY-SA 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前653年:ペルシア人を服属させていたメディア王フラオルテスがニネヴェ攻略を目指し進軍するも、アッシリアとの戦いで陣没。これに対し、スキタイ王マドイェスはメディアから離反し、アッシリアと同盟し、メディア王国を攻撃。メディア軍を破り、メディアを支配

  • 前652年:バビロニア王シャマシュ・シュム・ウキンがアッシリアに叛乱(兄弟戦争)。バビロニア側を「海の国」の首領ナブー・ベール・シュマティ(メロダク・バルアダン2世の孫)らカルデア人とアラム人の諸部族、エラム王フンバン・ハルタシュ3世、西方のアラブ人諸部族(シリア・アラビア砂漠の遊牧民)が支援。一方で、アッシュルバニパルはウル、ウルク、エリドゥなどのバビロニア南部の諸都市を味方につけることに成功

  • 前651年:アッシリア軍がニップルを占領

  • 前650年:アッシリア軍がバビロン、ボルシパ、クタ、シッパルなどの都市を包囲

  • 前650年頃:スキタイ人がリディア王(アッシュルバニパルと結んでいた)からキンメリア人征討の援助を求められ、アッシリアの承認を得てアナトリアに遠征。結果、キンメリア人を破り、ハリュス川までの領域を支配

上図:スキタイ人の版図

出典:Antiquistik, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前648年:アッシリア軍によって、バビロンが陥落。バビロンは炎上し、シャマシュ・シュム・ウキンは死去。バビロニアはアッシリアのもとに戻るも、ナブー・ベール・シュマティはエラムに逃亡。以後もアッシュルバニパルはアラブ討伐のために、長期の遠征に出立。やがて残存したバビロニアの反アッシリア勢力は降伏した

  • 前647年:バビロニア王としてカルデア人の代官カンダラヌが即位

  • 前647年:アッシュルバニパルがエラムに侵攻

  • 前646年:アッシリアがエラムを崩壊させる

  • 前642年:ユダ王マナセがアッシリアに背き、捕らえられる。彼はイェルサレムの防備を固め、砦を強化し、新たな外壁を築いていた。この後、ユダ王にはアモンが即位

  • 前639年:アッシュルバニパルがエラム軍を破り、スサなどのエラム諸都市を破壊。これにより新エラム王国は滅亡。エラム人をアッシリアに強制連行した。アッシリアのエラム侵攻のきっかけは、エラム王フンバン・ハルタシュ3世がナブー・ベール・シュマティを匿い、反アッシリア勢力を結集させようとしたことであった。フンバン・ハルタシュはアッシリアからナブーの引き渡しを要求されるも、ナブーが自害を選んだために、彼の遺体をニネヴェに送った。しかし、アッシリアはエラムを許さなかったためにアッシュルバニパルの遠征を招いた。なお、アッシュルバニパルの遠征時、イラン高原南西部のパルスヴァシュ(パールサか)の王クラシュ(キュロス1世)がアッシリアに服属し、息子をニネヴェに送る

  • 前633年:アッシリアで後継者を巡り、アッシュルバニパルの4人の息子の間で内乱が勃発。これを契機として、スキタイ人がシリア・パレスチナに侵入

  • 前629年:カルデア人がバビロンを占領

  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)。ナボポラッサルはウルク知事の子であったが、反乱を起こしウルクを追放されたとも

  • 前627年:アッシュルバニパルが死去

  • 前627年:バビロニア王カンダラヌが謀反を起こした果てに死去。以後、1年間バビロニア王位が空位に

  • 前627年9月:ナボポラッサルがアッシリア軍とニップルで激突し、ウルクにまで撤退

  • 前626年:メディア人がアッシリアの首都ニネヴェを攻撃

  • 前626年:スキタイ人がシリア・パレスチナを破壊し、エジプト国境にまで支配領域を拡大

  • 前626年:ナボポラッサルがウルクにてアッシリア・ニップル連合軍を撃破

  • 前626年9月:ナボポラッサルがバビロン近郊でアッシリア軍を撃破し、バビロンを掌握

  • 前626年10月26日:ナボポラッサルがバビロニア王に即位し、新バビロニア王朝(カルデア王朝、バビロン第11王朝)を樹立(首都はバビロン)。アッシリアからの独立を宣言した。即位直後にアッシリアはバビロニアに攻め込むも、ナボポラッサルはこれを退け、10年間もアッシリア軍の攻撃に耐え抜く。これに対し、エジプトはアッシリアと同盟を締結

  • 前625年頃:フェニキア地方がアッシリアより独立

  • 前625年頃:ダマスクスが新バビロニアに服属

  • 前625年:メディア王フヴァ・フシュトラ(ギリシア語でキャクサレス)が即位。彼はスキタイ王マドイェスを宴会に招き謀略で殺害、その支配から脱する(メディア王国の再建)。その後、メディアはスキタイ人をコーカサス山脈の北方に撃退。なお、キャクサレスはアッシリアの軍隊組織を模範とし、メディア軍を槍兵・弓兵・騎兵の三軍から成る常備軍に改める軍制改革を実施

  • 前623年頃:宦官シン・シュム・リシルがアッシュル・エテル・イラニからアッシリア王位を簒奪

  • 前623年:アッシュルバニパルの子シン・シャル・イシュクンが簒奪者シン・シュム・リシルから王位を奪還

  • 前623年:新バビロニアが、バビロニアからアッシリア人を追放

  • 前621年頃:ユダ王ヨシヤがアッシリアの国家祭儀を排除し、偶像破壊を推進。また、アッシリアの衰退に乗じて、版図を北に広げ、イスラエルを奪回

  • 前616年:ナボポラッサルがアッシリアに対して反撃を開始。以後、毎年アッシリアに遠征

  • 前616年:メディア王国がニネヴェを攻撃

  • 前616年:エジプトがアッシリアを支援

  • 前615年:ナボポラッサルがアッシュルを攻撃するも、攻略に失敗。ナボポラッサルはタクリタイン(現ティクリート)に拠点を確保し、その要塞に避難

  • 前614年:メディア軍がアッシリアの諸都市を掠奪し、ニネヴェ近郊のタルビツを占領後にアッシュル市を攻略。ナボポラッサルはアッシュル陥落後に到着した。これを受けて、ナボポラッサルはメディア王キャクサレスと同盟を結ぶ(メディア王女が新バビロニアの王子ネブカドネザルに嫁ぐ)

  • 前612年メディア王国の王キャクサレスと新バビロニアのナボポラッサルの同盟軍(スキタイ、ペルシアも参加していた)がアッシリアを攻撃し、3ヶ月の包囲戦の末にニネヴェを陥落させる(氾濫したティグリス川にて、破城槌を筏に乗せて攻撃したとも)。このときにアッシリア王シン・シャル・イシュクンは殺害された。ニネヴェは破壊されたものの、一部のアッシリア人はハランに逃れる

  • 前611年:アッシリアの残党が集ったハランにてアッシュル・ウバリト2世(アッシリアの貴族)が即位。彼らは帝国西部の属州をいくつか支配しつつ、エジプトに援軍を要請

  • 前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍

  • 前610年:メディア・新バビロニア連合軍がハランを攻撃し、その一部を破壊

  • 前609年夏:ユダ王ヨシヤがネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とし、エジプト軍は更にカルケミシュやハランにまで侵攻した。しかし、ハラン救援に関しては果たせず、新バビロニアがエジプトの援軍を破る。その後、エジプトの支援を受けたアッシュル・ウバリト2世はニネヴェを2ヶ月間包囲するも、撃退される。以後、アッシュル・ウバリトは消息不明となる。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡

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