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1-21 中アッシリア時代

  • 前1363年頃:アッシリア王アッシュル・ウバリト1世が即位。以後、中アッシリア時代となる。彼は対外的には「アッシリアの王」や「大王」を名乗る。軍事的には王の武装勤務の名のもとに、自由農民中心の軍隊を組織。定期的な軍事訓練によってアッシリア軍を強化した。また、スバルトゥの地と呼ばれていたアッシリアをアッシュルの地と命名している

上図:メソポタミア要図

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前1359年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ2世が即位。彼は当初、アッシリアを属国と捉えていたが、アッシリア王アッシュル・ウバリト1世の娘を自身の息子の妻とする

  • 前1351年頃:エジプト王アメンヘテプ4世が即位。彼はアジアへの親征を行わず、シリアの都市国家間の反目が激化。また、ミタンニとの同盟政策も破綻

  • 前1350年頃:アッシリア王アッシュル・ウバリト1世がヒッタイト王シュッピルリウマ1世の支援を受けて、ミタンニ王トゥシュラッタを攻撃。結果、アッシリアは独立。後にアッシリアはミタンニ王トゥシュラッタに抵抗するアルタタマ2世が築いたミタンニ東部の根拠地を占領する

  • 前1333年頃:カッシート王ブルナ・ブリアシュ2世が死去。後継者の選定に関して、アッシリアの影響増加を危惧する一派が蜂起したため、アッシリアが直接介入。結果、カッシート王子とアッシリア王女との間に生まれたカラハルダシュがカッシート王に即位するも、アッシリアの干渉に反対する一派に暗殺される。代わりに素性不明のナジ・ブガシュがカッシート王に

  • 前1332年頃:アッシュル・ウバリト1世がナジ・ブガシュを処刑し、クリガルズ2世をカッシート王に擁立。カッシート王朝はヒッタイト王シュッピルリウマ1世に王女を嫁がせている。また、クリガルズ2世はアッシリアの侵攻に備えて城壁を建設

  • 前1328年頃:アッシュル・ウバリト1世が死去。彼の没後にアッシリアは一時衰退

  • 前1327年頃:アッシリア王エンリル・ニラリが即位。彼はカッシート王クリガルズ2世を破った。結果、両国の間で領土配分が行われ、アッシリアが領土を拡大

  • 前1323年頃:ヒッタイト王シュッピルリウマ1世がミタンニを攻撃し、属国化

  • 前1313年頃:ヒッタイトに属するハラブの副王テリピヌ及びカルケミシュの副王シャッリ・クシュフが死去。ヌハッシェとカデシュの反乱は激化し、アッシリアがカルケミシュ王国に侵入、これを占領。時期は明確でないが、アッシリアとミタンニは同盟を結び、ヒッタイトの支配下にあったハニガルバトという地域を奪取したという。また、ヒッタイト東方のアッジ国、ハヤサ国も「上の国」に侵入。ムルシリ2世はこれらの攻撃を耐え抜き、アッシリアをカルケミシュから撃退。アッジ国、ハヤサ国も破った

  • 前1305年頃:アッシリア王アダド・ニラリ1世が即位。カッシート王ナジ・マルタッシュは国境を巡って、アッシリアと激突するも敗北

  • 前1300年頃:ミタンニ王国の残滓としてハニガルバトが成立。ヒッタイトの同盟国であったが、ハニガルバト王がミタンニ王家の直接の後継者かは不明。しかし、アッシリア王アダド・ニラリ1世の遠征によって、ハニガルバト王シャットゥアラ1世は捕らえられ、属国とされる

  • 前1300年頃:イゲ・ハルキがエラム王となり、イゲ・ハルキ王朝を樹立。以後、エラムの中王国時代が始まる。イゲ・ハルキはフルリ人の血が入っていたと考えられるが、彼は従来通り「アンシャンとスサの王」の称号を用いる

  • 前1281年頃:カッシート王カダシュマン・トゥルグが即位。彼はアッシリア王アダド・ニラリ1世と条約を結ぶ

  • 前1280年頃:ハニガルバト王ワサシャッタが反乱を起こすも、ヒッタイトはこれを支援せず。ハニガルバトは再びアダド・ニラリの進軍を受け、首都の一つであるタイデなどを占領された。ワサシャッタ王ら一族はアッシュルに連行されている。なお、アダド・ニラリはヒッタイト王に「兄弟」として書簡を送っており、「世界の王」の称号も用いた

  • 前1275年頃の5月初頭:ヒッタイトとエジプトがオロンテス河畔のカデシュで激突(カデシュの戦い)

  • 前1273年頃:アッシリア王シャルマネセル1世が即位。彼の治世に、アナトリア東部のアルメニア高原に後のウラルトゥにあたるウルアトリが存在したと史料に記される。彼らは未だ部族連合の段階にあったか

  • 前1264年頃:ヒッタイト王ムルシリ3世が叔父ハットゥシリに敗北。ハットゥシリがヒッタイト王に即位し(ハットゥシリ3世)、ムルシリは北シリアの属国ヌハッシェに亡命したが、アヒヤワ国やアッシリア、カッシートの支援で反乱を図ったために別の場所(キプロス島か)に送られる。なお、ハットゥシリはカッシート王カダシュマン・トゥルグと同盟を締結したが(政略結婚も行う)、背景にはアッシリアの脅威があったか

  • 前1258年頃:ハットゥシリ3世がエジプトと平和条約を締結(背景にはアッシリアの脅威があったか)

  • 前1245年頃:ハニガルバト王シャットゥアラ2世がアッシリアに反乱(ヒッタイトは、ハニガルバトに対するアッシリアの宗主権を認めていた)。この反乱に対し、アッシリア王シャルマネセル1世はハニガルバトを完全に併合。住民は強制移住させられ、ミタンニは完全に滅亡した。また、シャルマネセルはヒッタイトにも勝利している

上図:前13世紀のオリエント情勢

出典:Original: Sémhur; obra derivada: Zunkir; topónimos en español: Dodecaedro., CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1243年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世が即位。彼はアルメニアやスバルトゥなどの周辺地域を侵略。北部と東部には資源を求めての遠征であった。彼の治世が中アッシリア時代の最盛期となる

  • 前1240年頃:ヒッタイト王トゥトハリヤ4世が即位。アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世はトゥトハリヤと対立。ヒッタイトとの和平交渉のさなかに、トゥクルティ・ニヌルタはヒッタイト勢力下にあった北西のフルリ人らの国々を攻撃。これによって、アッシリアはハニガルバト北部のスバルの国々を支配下とし、ナイリ(ヒッタイト語ではニフリヤ)が両国の国境となる。こうした状況に対して、ヒッタイトはアヒヤワの船がアッシリアと交易しないよう、アムル王サウスガムワに圧力をかけ、ウガリットとアムルにはアッシリアへの経済封鎖を命じた。しかし、トゥクルティ・ニヌルタはナイリ郊外にてヒッタイト軍を撃破(ニフリヤの戦い)。結果、ヒッタイトの属国ウガリットは独自の動きを取るようになり、アナトリア東部などで版図を拡大した。こうして、トゥクルティ・ニヌルタは治世初期に多数のヒッタイト人をユーフラテス川の対岸から強制移住させ、資源確保のために北方及び東方の山岳地方に遠征。また、西方ではバリフ川流域地方まで拡大し、属州化する

上図:トゥクルティ・ニヌルタ1世

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:前13世紀中頃のアッシリアの版図

出典:Near_East_topographic_map-blank.svg: Sémhurderivative work: Zunkir, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1225年頃:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世がバビロニアに侵攻。カッシート王カシュティリアシュ4世をアッシリアに連行し、マルドゥク神像とともに捕囚。トゥクルティ・ニヌルタはしばらくバビロニア王を名乗り、バビロニア北部を直接統治。また、彼は「シュメールとアッカドの王」を自称。バビロン征服後には新都カル・トゥクルティ・ニヌルタを建設している

  • 前1224年頃:アッシリアがエンリル・ナディン・シュミをバビロニア王とし、傀儡政権とする

  • 前1216年頃:カシュティリアシュ4世の子アダド・シュマ・ウツルが、アッシリアの支配を跳ね返し、カッシート王に即位。アッシリア勢力をバビロニアから一掃する

  • 前1215年頃:ヒッタイト王アルヌワンダ3世が即位。彼はアルザワを併合し、西南アナトリアに進出。しかし、東からはアッシリアの、西からは諸民族の攻撃を受け、ヒッタイトは衰退

  • 前1207年頃:エラム王キデン・フトゥランがバビロンを2度攻撃。更にアッシリアにまで進軍するも、エラム本国で叛乱が起きたために帰国しようとしたところを、アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世に敗北

  • 前1207年頃:トゥクルティ・ニヌルタ1世が権力闘争の結果、カル・トゥクルティ・ニヌルタにて、息子の一人によって暗殺され、王位を奪われる。その後、アッシリアでは短期間に王が交替し、国力が低下。周辺諸国も背き、カッシート王アダド・シュマ・ウツルはこの機に弱体化したアッシリアを撃破。西アジア全域での降雨量の変化による食糧生産の低下も弱体化の原因の一つであった

  • 前1206年頃:アッシリア王アッシュル・ナディン・アプリが即位

  • 前1202年頃:アッシリア王アッシュル・ニラリ3世が即位。バビロンの支配権を巡ってカッシート王朝とアッシリアが激突し、両者とも弱体化

  • 前1200年頃「海の民」が東地中海世界を席巻。アッシリアも交易の要所を失い、弱体化

  • 前1200年頃:シリア砂漠からアラム人が移動を開始し、東シリアを攻略

  • 前1190年頃:ヒッタイト帝国が滅亡。アナトリア南東部・シリア北部では旧ヒッタイト領のキズワトナからの移住民(ルウィ系・フルリ系の混合民族)が都市国家を建設(新ヒッタイト)。新ヒッタイト諸国はときに軍事衝突を起こしていたが、アッシリアの攻撃に対しては協力関係が成立することもあった。また、アナトリアにはトラキア方面から印欧語族のフリュギア人が侵攻を開始

  • 前1180年頃:カッシート王朝がエラムに大敗

  • 前1158年頃:カッシート王ザババ・シュマ・イッディナが即位。アッシリア王アッシュル・ダン1世と戦い、北方の領土を喪失

  • 前1158年頃:エラム王シュトルク・ナフンテ1世が、アッシリアの内紛に乗じてバビロニアに侵攻し、バビロンをはじめとするバビロニア諸都市が占領。シッパルから『ハンムラビ法典』碑や「ナラム・シン王の戦勝碑」が掠奪され、スサに運ばれる

  • 前1157年頃:マルドゥク・カビト・アッヘシュがイシンでイシン第2王朝(バビロン第4王朝)を樹立

  • 前1155年頃:エンリル・ナディン・アヒ統治下のカッシート王朝がエラムの攻撃によって滅亡。エラムの王子クティル・ナフンテ2世はバビロンを攻撃し、エンリル・ナディン・アヒ王とマルドゥク神像を捕囚。これにより、エラムはオリエント世界最大の軍事勢力となる(エラムの最盛期)

  • 前1150年頃:エラム王シルハク・インシュシナクが即位。バビロニアからアッシリアにまで侵攻し、イラン高原の北方までを支配下とする

  • 前1139年頃:イシン王イッティ・マルドゥク・バラトゥが即位。彼はバビロンを首都とし、カッシート王朝の支配領域をほぼ支配下とする

  • 前1133年頃:ニヌルタ・トゥクルティ・アッシュルが、イシン第2王朝の保護のもとに、アッシュル・ダン1世からアッシリア王位を簒奪。しかし、ムタッキル・ヌスフ(アッシュル・ダン1世の子)が王位を奪還する

  • 前1132年頃:アッシリア王アッシュル・レシュ・イシ1世が即位

  • 前1131年頃:イシン王ニヌルタ・ナディン・シュミがアッシリアに侵攻。アッシリア王アッシュル・レシュ・イシ1世と戦う

  • 前1120年頃:イシン王ネブカドネザル1世(ナブー・クドゥリ・ウツル1世)がバビロニアからエラム勢力を駆逐。エラムに攻め込み、スサを支配し、マルドゥク像を奪還。彼は馬で引く戦車隊を用いていた。アッシリアにも攻め込み、北方に追撃して首都アッシュルを攻略した。しかし、おそらく他のアッシリアの城塞攻略には2度試みたが失敗。だが、アッシリアの実質的な支配には成功

  • 前1115年頃アッシュル・レシュ・イシ1世が死去。彼はイシン王ネブカドネザル1世の支配を脱し、「諸国の征服者」となる

  • 前1114年頃:アッシリア王ティグラト・ピレセル1世が即位。彼はニネヴェ(アッカド語でニヌア)を第2の首都とし、アッシリアの北方からアナトリア東部までの地域に遠征し、多くのフルリ人の小国を征服。更にハッティの王イニ・テシュブ(カルケミシュ最後の副王クズィ・テシュブの子孫か)と、メリドに君臨した「偉大なるハッティ国」の王のアルマリに貢納を課す。アナトリア南部の国家ムシュキ(フリュギア人か)も圧倒し、アラム人も従える。フリュギア人はティグラト・ピレセルとの抗争を経て、アナトリアの中央高原に定住。アッシリアに対抗するため、アラム人に接近した

上図:ティグラト・ピレセル1世。彼は「中アッシリア法典」を編纂している

出典:Wikipedia
  • 前1100年頃:遊牧民集団アクラムの内のアラム人が主導権を掌握。彼らはイシン第2王朝時代の飢饉を契機として、メソポタミアにまで大挙侵入を開始し、ハブル川流域に定住。こうしたアラム人の進出に対し、ティグラト・ピレセルはアラム系の諸国家を破り、地中海にまで軍事遠征を行い、ビブロス、シドン、アラドスから貢物を受け取る。また、シリアから侵入してくるアラム人に対して遠征を繰り返し、その本拠地ビシュリ山方面への攻撃のために、ユーフラテス川を28回も渡ったという(結果、下ザブ川からユーフラテス川を越えた地域までを支配)。しかし、アラム人の進出は止まらず、新ヒッタイトの都市をいくつか占領し、新たな都市を建設。サムアルやビト・アディニ、ビト・ヤキン、ビト・バヒアニ(首都はグザーナ)などがその代表である

上図:新ヒッタイト諸国とアラム人の国家

出典:Hans van Deukeren, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1100年頃:アッシリアが山岳交通用にふたこぶらくだをメディアから導入

  • 前1099年頃:イシン王マルドゥク・ナディン・アッヘが即位。治世初期にはアッシリアに侵攻し勝利。しかし、治世後半にはアッシリア王ティグラト・ピレセル1世と戦い敗北、バビロンを攻略され、バビロンの王宮は炎上。こうして、ティグラト・ピレセルはバビロニア北部を征服したが、南部の支配は叶わず。この直後、メソポタミアで大飢饉が起こる

  • 前1082年頃:アラム人がバビロニアに大挙侵入。混乱の中、イシン王マルドゥク・ナディン・アッヘは消息不明に。これ以降、イシンとアッシリアとの友好関係が保たれる(アラム人、カルデア人が流入してきたことによる脅威が要因か。カルデア人はアラム人と同じセム語族とされるが特定できない)

  • 前1077年頃:アラム人が北シリア、メソポタミア、バビロニアに侵攻。結果、肥沃な三日月地帯の主要部を占領した。アッシリアはティグラト・ピレセル1世の治世末に発生した大飢饉の影響もあり、衰退。領土はティグリス川流域周辺にまで縮小

  • 前1076年頃:ティグラト・ピレセル1世が殺害される。以後、アッシリアは短期間に王の交替が起こり、衰退

  • 前1069年頃:エジプト新王国時代が終焉し、以後、第3中間期となる

  • 前1050年頃:バビロニア南部にカルデア人が移住。ウルク近郊にビート・アムカニ、バビロン近郊にビート・ダクリ、ウル及び沼沢地付近にビート・ヤキンなどの部族が定住

  • 前1026年頃:アラム人の侵入などによって衰退していたイシン第2王朝が滅亡。ナブー・シュム・リブルが最後の王であった

  • 前1025年頃:バビロニアにて、シムバル・シクが海の国第2王朝(バビロン第5王朝)を創始

  • 前1020年頃サウルがイスラエル人の王に即位(イスラエル統一王国時代の始まり)

  • 前1005年頃:海の国第2王朝が滅亡

  • 前1004年頃:エ・ウルマシュ・シャキン・シュミが即位し、バビロニアにてバジ王朝(バビロン第6王朝)が成立

  • 前1000年頃:鉄器が徐々に普及し始める

  • 前1000年頃:アラム人がユーフラテス川上流域、シリア北部、ディヤラ川流域にいくつもの小国を建設

  • 前1000年頃:印欧語族のメディア人がイラン高原北西部に移動、定着

  • 前993年頃ダビデが北方イスラエル諸部族をまとめあげ、「イスラエルの王」となる。イェルサレムに遷都し、紅海からユーフラテス川に達する広大な版図を創出

  • 前986年頃:バビロニアのバジ王朝が滅亡

  • 前985年頃:バビロニアにて、マル・ビティ・アプラ・ウスルがエラム王朝(バビロン第7王朝)を創始。この頃にはアラム人がバビロニア地方に侵攻し、諸都市を掠奪

  • 前980年頃:エラム王朝が滅亡

  • 前979年頃:バビロニアにて、ナブ・ムキン・アプリがE王朝(バビロン第8王朝)を創始、長期政権となる。しかし、この頃のバビロンはアラム人によって孤立させられており、南部と東部に定着したアラム系諸部族の軍事行動を王朝は十分に抑制できず

  • 前967年頃:アッシリア王ティグラト・ピレセル2世が即位。彼はアラム人を討伐した

  • 前961年頃:イスラエル王としてソロモンが単独支配を開始。イスラエル統一王国の最盛期を築く

  • 前950年頃:アラム人のレゾンがソロモンからの独立に成功し、ダマスクスに独立王朝を樹立。アラム人勢力の中心がダマスクスに移る

  • 前934年頃:アッシリア王アッシュル・ダン2世が即位。以後、新アッシリア時代となる

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