見出し画像

1-22 新アッシリア帝国の拡大(前934年~前745年)

  • 前934年頃:アッシリア王アッシュル・ダン2世が即位。以後、新アッシリア時代となる(新アッシリア帝国)。この頃からアッシリアがアラム人への反撃を展開、勢力を回復し、周辺地域の征服を加速させる。征服した地域の人々は領土内の別地域に強制移住させ、反乱を防止した

上図:古代オリエント要図

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前931年頃:ソロモン王が死去し、イスラエルの統一王朝が、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前930年頃:アッシリアとバビロニアがこの頃から前904年頃までに2度衝突

  • 前911年:アッシリア王アダド・ニラリ2世が即位。彼はバビロニアの領土を奪い、アラム人への反撃を続行

  • 前904年頃:バビロニアがアッシリアの属国に

  • 前900年頃アダド・ニラリ2世がシドンとティルスを征服したか。ティルスがアッシリアに朝貢を始める

  • 前900年頃:アラム人が新ヒッタイト人とイスラエル人の両方と同盟を結ぶ

  • 前891年頃:この頃までに、アッシリアとアラム人の都市国家は6度にわたり小規模な戦闘を行い、両者の国境が確定

  • 前890年:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ2世が即位。彼の治世から騎兵が用いられたか。騎兵の馬は、ザグロス山脈方面などで捕らえたものを使っていた。また、彼は首都をアッシュルからニネヴェに遷している。対外的にはバビロンと対立

上図:アッシリア軍の騎兵。アッシリアは「馬の背」で帝国をつくったといわれる。前853年のカルカルの戦いの際のアッシリア騎兵は、2人一組で横に並んで戦った。一方が両方の手綱をとり、他方が複合弓で弓を射るという戦術をとっている。おそらく歩兵も2人一組で、槍兵が盾と槍で弓兵を守っていたと考えられている

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前888年頃:ダマスクスでベン・ハダド1世が即位(ベン・ハダド王朝の創始)。彼はユダ王と同盟を結び、アッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開、時には連合した

  • 前887年:ティルスの神官エトバアルがペレス王を殺害し、王位を簒奪(エトバアル1世)。この時期、ティルスの覇権がシドンにまで及び、両国は同君連合のような状態となる。結果、エトバアルは「ティルス人とシドン人の王」と呼ばれ、フェニキア王を自称

  • 前885年頃:オムリがイスラエル王に即位(オムリ王朝の創始)。首都をサマリアとする

  • 前883年:アッシリア王アッシュル・ナツィルパル2世が即位。東にあったザムア、北方のハブフ、ナイリ、ウラルトゥ、西方のカルケミシュ(サンガラが統治)、ティルス、シドンを征服。ウンキ(ルバルナが統治)、ルアスにも侵攻し、屈服させた。ティルス、シドン、ビブロス、アルワドなどの都市からは貢納させる。また南西では、同盟を結んで反逆していたユーフラテス川中流域のスヒ、ヒンダヌ、ラケに進軍・征服し、貢納を課す。結果、北はティグリス川上流、東はザグロス山脈とクルディスタン山岳地域、西ではバリフ川周辺、レバノン山、地中海沿岸にまで領土を拡大させた。軍制も改革し、戦車隊を2頭立て2人乗りから3頭立て3人乗りに編成、騎兵隊も完備した。他にも包囲攻撃のための大型武器も考案

上図:アッシュル・ナツィルパル2世。彼は反乱軍を徹底的に鎮圧し、見せしめとして、串刺し、目をくりぬく、皮膚をはぐなどの残虐な罰を課した。結果、アッシリアは「アッシリアの狼」として恐れられるようになる。他にもライオン狩りの狩猟図を浮き彫りにした最初の王としてもアッシュル・ナツィルパルは知られるが、ライオン狩りは軍事訓練でもあった

出典:Andres Rueda, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:アッシリア軍の戦車。前8世紀のアッシリアの戦車は3頭立て、もしくは4頭立てであった

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:アッシリア軍の騎兵

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前880年頃:アッシュル・ナツィルパルがシリア・フェニキアの諸都市から朝貢を受ける

  • 前879年:アッシュル・ナツィルパル2世が、ニネヴェから新都カルフ(現ニムルド)に遷都

  • 前878年頃:イスラエルがアラム人に侵攻され、ヨルダン川東と西パレスチナの一部を喪失。しかし、アッシリアの台頭により、ダマスクスとイスラエルは協力関係に

  • 前858年:アッシリア王シャルマネセル3世が即位。彼は前826年までに35回もの遠征を繰り返した。シリア・パレスチナに数次にわたって遠征し、地中海にまで達する。ティルスとシドンに対して遠征し、貢物を収めさせ、ダマスクスを従属させた。シリア北部に帰還する際には、ユーフラテス川の大彎曲部に存在したアラム系国家ビト・アディニを征服し、アッシリアの前線基地としている。他にも、この頃にはビト・バヒアニの首都グザーナも征服され、アッシリアの行政州となっていたか。加えて、カルケミシュなどのユーフラテス川流域の属国を次々に属州化し、直轄地としていった。なお、シャルマネセルはキリキア及びアルメニアでの戦いでは、決定的な勝利を得ることに失敗。一方、彼は東方のザグロス山脈地域にも遠征している

上図:シャルマネセル3世

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:新アッシリア帝国の版図拡大

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前855年:シャルマネセル3世がこの年に2回遠征

  • 前853年:アッシリア王シャルマネセル3世がシリアに遠征。抵抗勢力を退けつつ、アレッポとハマトを占領し、カルカルを掠奪するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世を中心とする、イスラエル王アハブ、ハマト王ウルヒリナ、エジプト王オソルコン2世、フェニキアのアラドス、アルワドのマティヌ・バアル、アラブ人ギンディブ、アンモンなどの反アッシリア同盟(12の王国の連合)が、およそ10万のアッシリア軍とオロンテス川近郊で激突(カルカルの戦い)。結果、アッシリアの撃退に成功し、アッシリアの進出は一時停止。なお、この戦いで反アッシリア同盟軍はアラブ王の用意したラクダ部隊も用いていた。この戦いの後も、同盟軍はアッシリア軍と交戦しており、ダマスクスは5、6度もアッシリア軍と戦ったという

  • 前853年頃:アハブ王が、ヨルダン川東のラモト・ギレアドをアラム人の支配から奪還しようと出陣するも、ダマスクス王ベン・ハダド2世に敗死(ラモト・ギレアドの戦い。諸説あり)

  • 前851年:バビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミ1世が即位。しかし、即位直後には内乱が勃発。アッシリア王シャルマネセル3世は、マルドゥク・ザキル・シュミを助ける目的でバビロニアに遠征し、バビロニアの宗主権を獲得

  • 前850年:シャルマネセルが再びバビロニアに遠征。内乱の鎮圧に成功する。シャルマネセルはマルドゥク・ザキル・シュミと条約を結んでいる

上図:マルドゥク・ザキル・シュミ1世と握手をするシャルマネセル3世(右)。この図が、世界最古の握手の図であるという

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前850年頃:ヴァン湖沿岸にフルリ系のウラルトゥ王国(ウラルトゥ語ではビアイニリ)が成立(首都はトゥシュパ)。メリドとクンムフを影響下に入れていた

上図:前850年頃のウラルトゥ王国の版図(黄)。ウラルトゥは鉄鉱石の産地でもあった

出典:Wikipedia
  • 前849年:シャルマネセルの遠征

  • 前848年:シャルマネセルの遠征

  • 前845年:シャルマネセルの遠征

  • 前841年頃:イスラエル王ヨラムとユダ王国の王アハジヤがダマスクス王ベン・ハダド2世と激突。しかし、両王はラモト・ギレアドで敗北。この後、イスラエル王国の預言者エリシャはダマスクスに赴き、軍司令官のハザエルにベン・ハダド2世を殺害させる。そして、ハザエルがダマスクス王として即位。彼はイスラエルやアッシリア、トランスヨルダンのアンモン人などと抗争を展開。結果、イスラエル王国の諸都市を攻略、ヨルダン川東の全域をイスラエル王国から奪取した

  • 前841年頃:イスラエル軍司令官イエフが王を名乗り(イエフ王朝)、イズレエルに進軍していたヨラムを殺害

  • 前841年:アッシリア王シャルマネセル3世が4度目のシリア侵入を開始。ダマスクスに遠征し、包囲するも攻略できず。その途上にて、ティルスやシドンなどのフェニキア諸都市、イスラエル王イエフなど、5つの地域から朝貢を得る。結果、フェニキア諸都市はアッシリアの朝貢国となる

上図:シャルマネセル3世の「黒色オベリスク」。イラン北西部のギルザヌのスア、イスラエル王イエフやエジプト、ユーフラテス川中流のスヒのマルドゥク・アプラ・ウツル、オロンテス川下流のパッティンのカルパルンダ、ダマスクスなどからアッシリアに対する貢物が運ばれてくる様子が描かれている

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前840年頃:イエフがユダ王アハズヤを殺害。イスラエル、ユダの両王を殺害した結果、イエフは南北の両王国を支配した。ユダ王にはオムリの孫娘で、ヨラムの妃であったアタルヤが即位

  • 前838年:シャルマネセル3世が5度目のシリア遠征を実施。ダマスクスを包囲し、ティルス、シドン、ビブロスから朝貢を受ける。また、恐らくこのシリア遠征でアッシリアは、グルグムとクンムフ両地域の各所で抵抗にあっている。この頃には、サムアルのキラムワが、クエの王カテからの圧迫を排除するために、アッシリア王に介入を要請していた。これより後にアッシリアはシリア・パレスチナを放棄して、南アナトリアへ向かう

  • 前835年頃:ユダの女王アタルヤが殺害され、ヨアシュがユダ王に即位(ダビデ王朝の復活)

  • 前835年頃:シャルマネセル3世の年代記に、メディア人の存在が記録される。シャルマネセルはメディア人に対して守りを固めていた

  • 前832年:シャルマネセル3世が北方遠征を頻繁に実施。サルドゥリ1世治世下のウラルトゥ王国に遠征し、スグニア地方とアルザシュクン地方の諸都市を破壊。ウラルトゥの都トゥシュパも略奪した。同時にフブシュキアを討ち、マンナイからも貢物を受け取る。しかし、ウラルトゥ王国に対しては依然として守りを固めていた

  • 前824年:シャルマネセル3世が死去。シャルマネセルは治世末年にタバルへ侵攻し、現地の諸王を屈服させる。しかし、王の末年から息子らの間で王位継承争いがあり、王の没後には内乱が勃発。アッシリアでは王位継承についての原則がなかったことが争いの背景にあった。以後、アッシリアは縮小の時代に突入

  • 前823年:アッシリア王シャムシ・アダド5世が、王位継承争いを勝ち抜いて即位。治世初めにはバビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミの援助を受けて王子の叛乱を鎮圧。マルドゥク・ザキル・シュミはシャムシ・アダドと新条約を結び、アッシリアに対して優位な立場を築く(後にシャムシ・アダドはバビロニアに軍事遠征を繰り返し、勢力を拡大)。シャムシ・アダドの治世からアッシリアの内政が混乱し、勢力は衰退。属州の支配者であった代官は独立国の王のようになる者も。一方で、シャムシ・アダドはアルメニアに遠征している

  • 前810年:アッシリア王アダド・ニラリ3世が即位。母サムラマトが摂政を務めたか。彼の治世には、再びバビロニアの宗主権を得た

  • 前805年:アダド・ニラリ3世がダマスクスを包囲。ダマスクス王ハザエルはアッシリアに朝貢した

  • 前805年頃:ダマスクス王ベン・ハダド3世が即位。彼はイスラエル王国を侵略し、領土を奪い取って属国とする。また、ユダ王国も屈服させた

  • 前800年:アッシリア王アダド・ニラリ3世がシリア及びフェニキア(シドン、ティルスなど)に進出し、これらの地を支配下として朝貢を受ける(ペリシテ人の諸都市もアッシリアの朝貢国となった)。また、ダマスクスの攻略にも成功。加えて、ユダ王国からも朝貢させた

  • 前800年頃:アダナを中心とするキズワトナ王国が滅亡

  • 前800年頃:ウラルトゥ王メヌアが首都トゥシュパ(現ヴァン)を整備し、各地に石壁の城塞を建設。さらにイラン高原北西部に侵入し、主要都市ハサンルを占領。加えて、ユーフラテス川沿岸の町メリドにも進出。また、アッシリアからティグリス川上流域やザブ川流域一帯を奪取し、統一王国を建設した

上図:メヌア王時代のウラルトゥ王国(黄)

出典:© Sémhur / Wikimedia Commons
  • 前800年頃:西アジアで胸甲が出現

  • 前797年頃:イスラエル王ヨアシュが即位。ダマスクスの弱体をみて、失地の大部分を奪回。一方で、シリア遠征を実施したアッシリア王アダド・ニラリ3世に対しては、ティルスやシドンと同様に貢納している

  • 前796年頃:ユダ王アマツヤが即位。彼の治世にはイスラエル王ヨアシュと激突するも、敗北してイェルサレムを占領される

  • 前783年:アッシリア王アダド・ニラリ3世が死去。国内は分裂し、疫病の流行もあって、アッシリアの国力は衰退

  • 前782年頃:イエフ王朝のヤロブアム2世が即位。彼の治世がイスラエル王国の最盛期で、彼はシリアのハマトから死海までを領有

  • 前782年:アッシリア王シャルマネセル4世が即位。彼はアルメニアの一部を奪取。メディア人やアラム人と戦う

  • 前773年:シャルマネセル4世がダマスクスを攻撃するも戦死。結果、シリアの大半をアッシリアは喪失。以後、後継者争いも発生

  • 前770年:アッシリア王アッシュル・ダン3世が、ウラルトゥの勢力が強まっていた北シリアに遠征

  • 前760年頃:ウラルトゥ王サルドゥリ2世が即位し、ウラルトゥの最盛期を築く

  • 前760年頃:ヤロブアム2世がダマスクスを破り、占領に成功

  • 前753年:アッシリア王アッシュル・ニラリ5世が北シリアに遠征し、アルパド王マティイエルを従える

  • 前750年頃:ウラルトゥ王国が北シリアに進出

  • 前750年頃:アナトリアのフリュギア人がフリュギア王国を築く

  • 前750年頃:新エラム王国が成立

  • 前747年頃:ナパタのクシュ王国の王ピイ(ピアンキ)が即位。これにより、エジプト第25王朝が成立

  • 前745年:ナブ・ナツィルが統治するバビロニアのE王朝が、アッシリア王アッシュル・ニラリ5世の侵攻を受けて、アッシリアの宗主権を認める

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?