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僕のめざす“永遠”とは

僕は数ヶ月前、あるnoteに“永遠”ということを書いた。
そのとき永遠を少し語ったことは、“永遠”というものが僕の中の潜在的なテーマとしてあったからなのではないか、と思う。

その時、僕はnoteにこう綴った。

『僕は、「終わりを知っている人たちが、それでも願う“永遠”こそ、この世で最も“永遠”に近い」と思っている。
終わりを知っているからこそ、いまを大切にできる、相手の存在は当たり前ではないと理解している、だから永遠に近づける、と。』

今回はこれについて、もう少し考えながらnoteに綴っていこうと思う。

まずは、僕にとっての「好き」と「恋」と「愛」について考えてみようと思う。

僕にとっての「好き」は、そのままだが、「相手の雰囲気、声色、表情、仕草など、相手特有のものを好きでいること」だ。
そうやって「この人のここが好き」という感情が澱のように溜まっていって、「その人のことが好き」という感情へと消化していくように感じる。

ならば「恋」は、「自分の全てを与えてもいいと思えること」だと思った。
自分の時間や体験、心まで相手のものになるのだから、それは恋だと思う。

だったら「愛」はなんだろう。
「愛」は、「相手の全てを受容すること」だと思った。
相手を理解すること、理解しようとすることは、愛の種だ。
“理解”は、“受容”へと昇華させることが出来る。
ただそれは、まだ育っていない種の段階では成しえない。
なぜなら、理解するのは自分の心を動かす必要はないが、受容となると、そうはいかないからだ。
ひとつの理解、ひとつの受容、それが積もって、愛へと成長するのだと考えた。

「全てを受容すること」には、「終わりの受容」も包括されている。
“いつか終わる”という残酷な現実すら、受け止めて進んでいかねばならない。

しかし、その“終わり”を限界まで引き伸ばすことならできるのではないか?

それが、僕の考える“永遠”だ。


僕は“永遠”を叶えるためには、2つの要素が必要だと考えた。

1つ目は、直前で述べた“終わり”の受容だ。
僕はいつも、終わりがあることを知っている、意識してしまうから、漠然とした絶望を抱えている。
だがその絶望は、必要なものだ。
その感覚がなければ、今ある時間、空間、日常は、当たり前だと錯覚する。
当たり前なんて存在していないのに。
今あるそういった大切なものにも終わりがあると認識することで、永遠へと近づいていくのだと思う。

2つ目は、受容の果てに、存在として相手へと近づいていくことだ。
僕の場合、恋する相手へ抱くのは“憧れ”だ。
憧れには、「近づきたい」という含みがある。尊敬にはないものだ。
そして僕は、「恋人という存在に近づいていく」のが夢だ。
同じ等身で、同じ世界を見ていたい。
前に少しツイートした、「違う世界を見せて欲しい」というのも、間違いではない。
矛盾するように感じるけれど、ただ、同じ世界で生きていたいんだ。

まとめると、当たり前を当たり前出ないと認識して、今を大切にする心と、相手の受容の果てにある、存在としての接近が、永遠を叶えるのだろう、と考えた。
永遠なんて実在しないのはわかっている。

それでも、少しでも多くの時間を共に過ごすために、永遠を願うんだ。

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