2019 October, Part 1_Firenze

トスカーナでのワインとの出会いは前回で一応の決着を迎えました。さて、これからは邪念もなく、あらためて建築と出会いたいと考えて、またイタリアに向かいました。

自分にとって重要なのはルネッサンスの建築、それもブルネレスキの建築との出会いが現在の自分の原点となっていてその建築と出会えるフィレンツェ、その上に建築的空間の原点を体験させてくれるものとしてのパンテオン、加えてルネッサンス以降の展開としてのバロック、ベルニーニとボッロミーニの建築があるローマ、この二つが自分にとっての重要な場所でした。

ローマの建築を起点としてルネッサンスからバロックへ、その展開としてのドイツの新古典主義建築、シンケルやクレンツェ、そこから繋がる近代主義の建築という流れが見える気がしていて、言ってしまえば私は建築におけるクラシシズム、古典主義好みでしたが、であれば本当はローマの先にはギリシアがあるわけです。

私自身は自分のことをブルーカラーの建築家と自称していて、あまり机に座って勉強するタイプではありません。それほど事前に調べることなく、自分自身が現実の建築の前に立った時、自分の心が何を感じるか、そのことを大切にしようと思っているので、まずは旅をして実物の建築を見に行くことにしています。自身を体感派の建築家だと思っているので、「ブルーカラー」の建築家と自称しているのです。まあ、それは勉強しないことの言い訳でもありますが。

でも限られた建築家人生の時間の中で、「建築を学ぶために訪問するのはローマとフィレンツェでいい、ギリシアまで行っていたら大変なことになりそうだ、建築の歴史総体を抱えてしまう、だとすると今度はエジプトに行きたくなるから終わりがない。カルナック神殿まで見に行く体力がない。」と考えていた私に、それはわかるけれど折角イタリアを訪ねているのなら、しかもポンペイまでも足を伸ばしているのなら、もう少し南に行けばギリシアの遺跡、19世紀まではギリシア研究の拠点のひとつだったパエストゥムがあるので、訪ねるといい、あなたの好きなシンケルや、それにゲーテも訪ねたギリシアですよ、とアドバイスをもらいました。
そんな訳で遂にパエストゥムに行こうと思い起ちます。したがって今回の目的はローマから南に下がり、パエストゥムを訪ねることでした。

でも、まずはフィレンツェに入ります。

ラウレンティアーナ図書館をもう一度体験しようと考えてサン・ロレンツォを訪ねたのですが、残念ながらこの日は入れませんでした。そこで図書館の下階にある美術館に立ち寄ってみよう、この「ファサードのない教会」のファサードについてのこれまでの建築家の提案をちゃんと見たいと思ったのです。

サン・ロレンツォのインテリアと中庭。

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で、目的の教会に対する様々なファサード提案。

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壁面のプロポーションと開口部の位置は決まっているので、その限定された条件下での様々な建築家の試みですね。

これを見ながら、中世のゴシックの構造体にルネッサンスのファサードが付いたサンタマリア・ノベッラ、駅前に建つアルベルティがファサードをデザインした教会を思い出しました。
久々に訪ねようと思い立ちます。

サンタマリア・ノベッラのファサード。

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そのファサード取り付き部、出隅のディテール。

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そして中世の構造を残す内部空間。

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建築というものは柱だというのがギリシア的建築感だとしたら、ローマはそれを拡張し壁やドームを導入したのでしょうか。そうした過去の建築を研究したルネッサンスは新しい建築の価値観を導入したように思います。
それはギリシア的な「柱の建築」からローマを通過したことによる「壁の建築」へ、というのが大きな変化ではないのでしょうか。
ギリシアの神殿では列柱の後ろに隠れていたメガロン=壁の空間が建築の主役になったこと。
だからこそ構造的には壁が主役の建築であるサン・ロレンツォ、サン・スピリト、それにこのサンタマリア・ノヴェッラのような教会の単なる壁でしかない正面にどんなファサードを貼り付ければ良いのか、というファサード問題が出てきた。
この時点で建築の内部空間と外部空間は基本的に別物になり、外観は壁に何を貼り付けるかというのが建築家の仕事になる。
そんな「壁」に建築的表情を与えるためのルネッサンス的発明が「付け柱」であり、建築の基本が柱であるとすれば、ギリシア的には単なる二次的な建築要素であった壁を主役に昇格させる手段がこの「付け柱」だったということか、だからこそフィリップ・ジョンソンが「付け柱」のことをルネッサンスの偉大な発明と呼んだわけですね。

この壁=柱問題にもっとも問題提起的な建築家だったのがアルベルティだと思っていて、マントバのサンタンドレア聖堂やフィレンツェにあるパラッツォ・ルッチェルライのファサードを見ると、アルベルティがこの壁=柱問題に付け柱で対応しようとしていたのがよくわかります。

マントバのサンタンドレア教会。

写真は遠い昔に最初にイタリア行った時。

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パラッツォ・ルッチェルライ。
3層構成のファサードであるものの、ルネッサンス的には本来ルスティカの石積みの表情であるべき地上階にもルスティカ的表現に重ねられて付け柱の列柱が表現されています。

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そんなアルベルティの仕事やサン・ロレンツォの建築家の膨大なファサード・スケッチ群を見て、建築家の仕事ってなんだろう、そういえば一人の建築家が最初から最後の竣工まで見ることができたのはクリストファー・レンのロンドンの国会議事堂だとかいう話を昔聞いたことがあったなあ、記憶は曖昧だけれど建築家の仕事とは一人で一つの仕事を完結することではなくて、時間という蓄積していく地層の中の一枚を担当することなのかなあ、とか考えながら、ふと思いついてミケロッツォ設計のパラッツオ・メディチに向かいました。

この建物には記憶があります。
1980年代中頃だったか、はじめてこの街を訪れました。ミラノの中央駅でレンタカーのフィアット・パンダを借りて北イタリアから南はローマまで、二週間ほどの旅行でしたが、その時にこのパラッツォ・メディチを見て妙に親近感を持ったのです。当時の自分は30歳代、コスト・コントロールやクライアントとの距離の取り方など、駆け出しの建築家として毎日が問題の連続でした。そんな日常から逃れてのイタリア、フィレンツェでこの建物のファサード右隅の納まりを見た時、やりっぱなしにも見えそうな左官仕上げの右側面と石造の立派なファサードとが唐突に出会っている様は、自分の建築家としての日常的な生業を思い起こさせてくれ、妙にミケロッツォが身近な人間に感じられ、500年の時を超えて同時代的な気分を味わせてくれたのです。

もう一つあります。
こちらの方が建築的にはずっと重要なことです。それはファサードを面として自立させることです。ここに初めて来たのは1980年代。ポストモダニズムのFacade-ism,これは当時の自分の造語ですが、まあ、「ファサード主義」ですね、のことも思いました。
したがって、ここから1980年代のポストモダニズムまではすぐそこですね。まさにルネッサンスと現代が繋がった瞬間でした。

これに気付くことでミケロッツォがフィリップ・ジョンソンに、そしてピーター・アイゼンマンにも繋がります。建築を面のレイヤーと考えること。
自分自身はいわゆる流行の「ポストモダニズム」にではなく、このフィリップ・ジョンソンとピーター・アイゼンマンの延長上に自分のアイデンティティを定めようと、大学院の修士論文で宣言していたのですが、パラッツォ・メディチの前で自分が定めた立ち位置が15世紀まで立ち帰れることに気付き、自信を持ちます。
まあ、でもこの立ち位置も考え方としては勿論「ポストモダニズム」ですけどね。

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そんなわけで、この場所でミケロッツォが教えてくれたこと、それはルネッサンスと現代建築を同じ感覚で、同時代のものとして見てもいいよ、という教訓でした。

もちろん私の都合の良い誤解とオーバーリーディングの結果なのはわかっていますが、そこら中が「歴史」と「ルネッサンス」に溢れているこの街で私を楽にしてくれた建築でした。
これから先のイタリアでの日々、建築の前に立ったときの気分が楽になり、「お勉強」だと思っていたイタリアが楽しいものになりました。

そのファサード。右出隅が私を自由にしてくれたディテール。

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中庭です。

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初めて訪れた三十数年前、ここから次に訪ねたのがブルネレスキの孤児養育院だったでしょうか。
また今回も「こんにちは」の挨拶に立ち寄ります。

斜めに見たファサード。
今回はファサードばかり気にしていますから、じつは初めて斜め方向から撮った写真。

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その中庭。

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そんなフィレンツェの後、電車でローマに入ります。

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Part 2へつづく。



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