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「大丈夫」と言うことの罪深さ

「あなたは出来るかもしれない。
でも、私には出来ないよ」

曇った表情で心は助けを求めている。声をかける言葉は「大丈夫」だと安心させること。否定的な自己評価を肯定するのが、私の役割だった。

だけど、もう「大丈夫」と言うのはやめた。大丈夫かどうかを決めるのは本人次第だとわかったからだ。「出来ない」と言うならその通り出来ない現実があるし、「出来る」と心から信じていれば味方が多くなっていく。人を変えようとするだけ自分が苦しくなる。

目の前の相手が苦しむ姿や不安げな表情を見たくないこと、もしくは自分の姿と重ね合わせたために、言葉で安心させようとしていた。

これはドラマや映画を見て、感動で涙を流すことと似ている。一見、優しい人と片付けられがちだが、主人公の感情に共感してただ苦痛を避けたいだけなので、優しいとは別だと思っている。

三人称視点だからこそ感情移入しやすい。バラエティ番組や企画系YouTubeは一人称視点だから、親近感があったり、知人のような感覚になったりするのかなと考察中。

簡単に「大丈夫」と言ってしまうと、その人自身の問題がこちらも責任があるようになってしまう。解決に向けて一緒に考えるならまだしも、責任を担ってその責任感に潰されたあげく、相手に叱責されることもある。私も幾度となく「助けてあげられなかった」と落ち込み、無力さを嘆いていた。


もし、それは違うんじゃないか。間違っているんじゃないか。言いたくなる時、言ってあげたい時があれば、一度立ち止まって考えてみてほしい。

自分の正しさを、相手にも当てはめようとしていないかと。どんな選択にも間違いは存在しない。自分で選んでその選択で生きている尊重すべき人であることを忘れないようにしたい。

しかし、私は共感が好きな人間。助けを求められれば、出来る限りのことは力になって、成長する姿を見たいと思うのだ。そこで考えたのが「気づき」に対してのアクションだ。

* * * 続きはまた次回。* * *

不安になるほど言葉を頼って言葉で埋めようとするけど、みんな見ているのは些細な行動。言葉で満足するのは新鮮な最初だけじゃないかなーと最近思います。どんなことも共通でね

#日記 #エッセイ #コラム #思考 #共感

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