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【#Real Voice 2023】 「これまで、これから」 1年・山田皓生

はじめまして。
今回部員ブログを書かせていただきます。社会科学部1年の山田皓生です。
文章を書くことは得意ではないので、拙い文章になると思いますが最後まで読んで頂けると幸いです。



このブログでは、13年間サッカーをしてきた私のこれまでの経験や想い、これからの私について書いていこうと思います。





幼少期の私は野球が好きで、いつも家の庭で父と野球をしていた。意外とセンスがあったらしく、6歳にしてバッティングセンターの球を打ち返せていたため、父は私がイチローのようになると思っていたらしい。



しかし、小学校へあがるタイミングで私が習い始めたのはサッカーだった。なぜサッカーを始めたのかはあまり覚えていないが、多分父がサッカーをしていたからだと思う。


入ったのは私が通っていた小学校と隣の小学校の生徒で作られた、お父さん達がコーチをしてくれるいわゆる少年団のチームだった。このチームは過去に1度県の決勝に進出した以外、毎年県の2、3回戦で負けるくらいのチームであった。しかし、私たちの学年は少し強く低学年の間県内では負けなしだった。


そんな私たちを見て、あるコーチが私ともう1人の選手を名古屋グランパスのセレクションに応募してくれた。親やコーチから良い経験になるから行っておいでと言われ、軽い気持ちでセレクションを受けに行ったのを覚えている。


そんな軽い気持ちで受けた私だったが、ありがたいことにセレクションに合格させて頂いた。しかし、まさか自分が合格できるなど思ってもみなかったためどうすればいいかわからなかった。


そこで両親は、
グランパスに入るには少年団を辞めなければいけないこと。
グランパスでなら良い環境、高いレベルでサッカーができること。
毎日片道1時間半かけて練習に通わなければならないこと。
など全てのメリットやデメリットを伝えてくれた上で、当時9歳の私に自分自身でどうしたいか決めさせてくれた。


めちゃくちゃ迷った。


もっと高いレベルでサッカーをしてみたいと思った。


けど、
少年団のチームや仲間が大好きで離れたくない
グランパスに入ってもやっていけるのか不安
毎日1時間半もかけて行かなきゃいけないのか
とも思った。

グランパスに入るよりも少年団に残る方が楽しそうだとも思った。

だけど高いレベルでサッカーがしたい、上手くなりたいという想いが勝りグランパスに入ることを決めた。

両親に伝える時に色んな感情が混ざり、泣きながら伝えたのを覚えている。





こうして私のグランパスでの生活がスタートした。
グランパスでの私は順風満帆に進んでいたと思う。


ジュニアの頃は大会で優勝したりトレセンに選ばれたりと、それなりに活躍してジュニアユースにも昇格させてもらった。

ジュニアユースに上がり2年の頃には3年の試合にも出させてもらい、全国大会で得点を決めたりもしていた。
中学3年生になり、進路について聞かれユースへ昇格したいと答えた。1学年上の試合に呼ばれ、自分の学年では常に試合に出られていたため当然のように昇格できると思っていた。




しかし、結果から言えばユースへの昇格は出来なかった。




3年での私は今までのように点が取れない。昇格が保留とされて臨んだ夏の全国大会でも思うような結果は残せなかった。


昇格することはできないと言われた時、どんなことを思ったかはあまり覚えていない。ただ、悔しいという気持ちよりも今までグランパスへ通わせてくれた両親に申し訳ないという気持ちが強かったのは覚えている。


昇格出来ないと決まり、私が選んだ進路先は前橋育英であった。選んだ理由はコーチに紹介してもらったことと仲の良かった先輩に誘われたからである。

この時の私は進路を決めたものの「ユースへ昇格することすらできない自分が前橋育英で試合に出られるのか」「わざわざ寮生活をしてまで関東の高校へ行く必要があるのか」などと思っていた。





そんな気持ちを持って入学した前橋育英であったが、高校での3年間は本当に楽しかった。
毎日仲間たちと学校行き、練習をし、寮で過ごす。休みの日は遊びに行く。個性的なやつが多く、3年間で1度も退屈に思うことはなかった。
今となってはあの時ユースに昇格出来なくて良かったとも思うくらいである。


1、2年の間はトップチームに絡むことが出来ず下のカテゴリーのチームでプレーしていたが、3年になってからはトップチームで試合に出られるようになった。


この3年間で最も思い出深い出来事は、やはり3年の夏のインターハイである。


このインターハイで私はスタメンとして試合に出ていた。1、2回戦を突破し3回戦は相手の棄権により不戦勝。


1日空いて準々決勝、矢板中央戦。この試合も私はスタメンで出場した。
開始早々に失点し0-1で迎えた後半、私は2ゴールをあげ勝利の立役者となった。
たくさんの人に祝福してもらい文字通り最高な1日となった。


そんな最高な1日を終えた次の日。この日は最悪な1日となった。


準決勝、米子北戦。
前日2ゴールを決めた私はこの日ももちろんスタメンとして出場した。





しかし、前半15分で交代。





サッカーをしている人ならわかると思うが、怪我以外で前半15分に交代などありえないことである。

監督、コーチが言うにはプレーが良くなかったらしい。納得出来なかった。

結局その試合は0-0、PK戦で勝利した。勝利した瞬間も嬉しくなかったと思う。


試合が終わって応援に来てくれていた両親に会った。
両親は「あの交代は流石に早すぎるよね、次は頑張れ」と言ってくれた。
けど申し訳ない気持ちでいっぱいでなんと答えたかは覚えていない。

誰にも言っていないがその日ホテルに帰ってから1人部屋で泣いた。




チームは勝利したため、次の日は決勝戦だった。
前半15分で交代した私はもちろんベンチスタートだった。
帝京との決勝戦はどっちが勝ってもおかしくない本当に良い試合だったと思う。
後半アディショナルタイムに前橋育英が決勝点を決めて勝利した。

夢にまで見た全国優勝。
本当に嬉しかったし、今でも私の誇りである。



けど振り返ってみると「出たかったなあ」と思う。
決勝での出場時間は5分。ボールを触ったのは2回くらい。
出てもやれる自信があっただけに悔しい。
全国優勝したけど決勝に出てなかったらあんまり誇れないよなとも思う。
けどあの準決勝に戻ってもどうすれば良かったかはわからないし、後悔はないから良い思い出である。


インターハイが終わり、その後の私は途中出場で出ることが増え、最後の選手権も満足のいくプレー時間を貰うことはできなかった。
そんな感じで高校サッカーを引退し、今はア式でサッカーをしている。







こうやって振り返ってみると、嬉しいことも悔しいことも沢山あり、充実した時間を過ごせてきたなと思う。
そして、私がこのような充実したこれまでを過ごしてこれたのはやはり家族の支えがあったからだと思う。


これまで13年間サッカーを続けてきて、とんでもないお金や時間をかけて貰った。
用具費や遠征費などサッカーにかかるお金を全て出して貰い、小中6年間ほぼ毎日片道1時間半かけて送り迎えをしてもらった。
毎日1時間半の送り迎えなど当たり前にできることではない。


しかし、先日家に帰った時に父がこんなことを言っていた。
「皓生のサッカーを見に行くのは本当に楽しかった。送り迎えも全然苦じゃなかった。」


これを聞いてすごく嬉しかった。
あの送り迎えが苦じゃないほど私のサッカーを見ることが楽しいと思ってくれていたのだと。
サッカーを頑張ってきて良かったと思った。




今でも私の両親や祖父母は私の試合の動画や結果をチェックし、楽しみにしてくれているらしい。

今まで私はサッカーが好きで楽しいから続けてきた。誰かのために頑張ろうと思ったこともあまりない。
だけど両親、祖父母は私のサッカーを楽しみにしてくれている。活躍すれば喜んでくれる。
これを聞いて頑張らないわけにはいかない。






これから私は自分のため、そして家族のためにサッカーをしていく。



それがきっと恩返しになると信じて。



山田皓生(やまだこうせい)
学年:1年
学部:社会科学部
前所属チーム:前橋育英高校

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