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【#Real Voice 2023】 「命に刻め」 4年・小泉和

今ある悔しさを命に刻め。







いつからだろうか。


「頑張れば報われる。」


「努力は必ず報われる。」


そんな名言を否定したくなったのは。


ケチをつけたくなるようになったのは。




本ブログでは、ド底辺高校出身の自分が全国屈指の体育会サッカー部で感じたことを
Real Voiceとしてここ刻む。






驚異の自信家コイズミ君


「プロサッカー選手になります。」


2020年2月28日。卒業式前、ステージに上がり、「○○の主張企画」で同学年240人の前で宣言した。



「プロサッカー選手になるためにここに来ました。」


2020年3月20日。練習生になった初日。最初の挨拶で部員全員の前で宣言した。



本田圭佑選手に憧れて、言葉にして宣言することで自分を追い込む。


おし。準備は整った。


ここからが俺のサッカー人生のターニングポイントだ。




迷いはなかった。




高校2年の夏休み明けに大学でプロを目指すと決断してから、約1年半後のことだった。

高校時代のサッカー部は、全国最弱くらいの弱さだったけど。


部活がない日(部活は週4)にもグラウンドに行き一人で自主練。

家に帰ってからは再び練習着に着替え、マンションの中庭でひたすら自主練。

ボールを蹴り終わってからは地元の中学校か河川敷に行き、エンドレス走り込み。

勉強は学校への移動時間か授業中の内職。


部活を引退した高校3年の8月からはさらに加速させて
勉強とサッカーを頑張った。




それでも、第一志望であった筑波大学には落ちた。


結構落ち込んだ。


「頑張っても報われない。」


素直にそう思った。


幸いにも早稲田から合格を頂いていたので自然と早稲田のサッカー部の門を叩いた。


すぐにメールを送った。


入部希望の当時のメール


2020年3月19日ランテスト。


筑波受験の貯金もあって、一発で合格することができた。


そして翌日の3月20日。初めての練習の日。


そう。あの言葉から3年半も経った。


そして、サッカー人生のターニングポイントがスタートする。


「俺はプロになる」


そんな強い信念とともに。









現実


練習を開始して1週間。新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から約2か月の外出自粛を余儀なくされた。


それでも2か月間、毎日2部練を欠かさなかった。


自粛が少しずつ緩和されていき、全体練習が始まっていった。




それとともに気づき始めた。




何と言葉で表現すればいいか分からないし、適切な言葉がない。


不安。恐怖。焦り。


そして絶望。


そういった言葉だろうか。


自分が飛び込んだ世界は、全くと言っていいほど次元が違かった。


Bチームでも全国優勝経験者、世代別代表、全国大会出場。


そんな選手がごろごろいたことは知っていた。


それでも想像以上に


街クラブ出身、ド底辺高校出身の自分は



誰よりも。とにかく。下手だった。



ボールは足につかない。

味方から辛うじて回ってきたボールは自分のところですべて相手ボール。

「チェッ」「あー」「ざけんな」「小泉!」「おせえよ」

次第に周りからの自分に対する声が心に突き刺さる。



思うように。何もかもがいかなかった。






それでもまだ心の炎は消えていなかった。









そんなことで消えるような炎じゃなかった。


親といっぱい喧嘩して。高校で宣言して。壮の思いも乗っかって。


そう。俺の覚悟はまだまだ生きていた。


一人になると溢れ出しそうになるそれを、必死に堪えて、


語った言葉を現実にするために


ボールを蹴った。たくさん走った。


気づいたらグラウンドの照明が消える時間。


21時47分の列車に揺られながら、今日の悔しさを噛み締める。


23時過ぎに帰宅して。お母さんの作ってくれた温かいはずのご飯がもう冷め切ってしまっている。

期待していないはずの母が文句も言わずに作ってくれるご飯はおいしさよりも先に、

虚しさで、情けなさで、かき消されていく。

お風呂へ向かう扉を一つ一つ締めて。お風呂でやっぱり溢れ出す。



それでも、自分は成長していると言い聞かせた。



この悔しさを噛み締めながら。









杉君との出会い


杉君との奇跡のツーショット (寝ていません。ちょうど瞬きのタイミングです。)

※杉君は自分が死ぬまでの今後の人生で尊敬する人ベスト3には確実に入ってくる。


杉君(令和3年卒・杉山耕二 / ヴェルスパ大分)への感謝は止まりません。



7月頭前あたりだったろうか。
当時の主将である杉君が自分に話しかけてくれた。


まだ入部する前の練習生期間だった。


「お前(自分)の姿勢から活力をもらっている。話がしたい。」と


その時は驚いた。驚いたのには理由が2つある。


1つ目は自分の姿勢が誰かに活力を与えていたということ。


2つ目は組織のトップである主将という絶対的存在が、
入部も危うく、組織ではサッカーレベルも組織に対する貢献度も、
ド底辺な自分に声をかけてくれたことだ。


もちろん、主将という立場で
また組織の底上げという観点で、Bチームの選手ともコミュニケーションを欠かさなかった杉君ではあったが、


この時は組織のためというよりも、


自分で言うのもおこがましいが、「自分のため」のように感じた。


素直に、嬉しかった。


そこからは早かった。


次の日には自分の短期、中期、長期的な目標を立て、東伏見の定食屋さんで、
自分の今後のことについて一緒に本気で考えてくれた。


そして次の日からすぐ行動に移した。


それは練習での「反省点」「次意識すること」「自主練のメニュー」を毎日杉君に送ること。


ド底辺コイズミにとっては、贅沢すぎるほどの、神様のような存在であった。


毎日自分のLineに反応していただき、


さらには自分の練習だけなく、試合を見てアドバイスを送っていただいた。


こんな神様のような、男の中の男のような、尊敬しなくてはいられない人に出会えたことは自分の人生の大きな宝となった。











3月20日の練習生初日から自粛期間を挟んで7月ももう終わろうとしていた。


毎日、毎日、必死だった。


自分とプロとの果てしない壁を毎日、毎日感じながら。


「お前はプロになれない」


まるでそんな言葉を毎日、頭に訴えかけられているようだった。


毎日の練習後には、何もかもが溢れ出しそうで、


1つの呼気が、1つの吸気が、重く、重く、感じられた。


それでも、それでも、毎晩毎晩グラウンドの照明が消えるまで、サッカーに向き合い続けた。





ある日、当時副将を務めていた山田晃士君(令和3年卒 / ザスパクサツ群馬)が自分にふと疑問をぶつけてきた。


「なぜ、そんなに頑張れるのか?」


頭の中にはあったけど、初めてこの時、人に口にしたかもしれない。


「壮のこと」「高校3年次のマネージャーの出来事」


頑張る原点に再び返るきっかけになり、


何とか歯を食いしばって、地に足を付けた。





入部期限最後の日を終えた夜。


杉君から電話があった。


練習生期間をやりきることができたか。

入部できたとしても、想像できないくらい本当にきつい4年間になる。




その覚悟はできているか。




少しの会話を挟んで自分はこう話した。


4年生の判断に任せます。

もし入部できたのなら、プロを目指して4年間やり切ります。

もし、だめだったなら違う方法でプロを目指します。







8月4日(火)正式に早稲田大学ア式蹴球部に入部した。


正式に入部したということで、公式戦に出る切符を掴んだわけである。


しかし、自分が4年間で公式戦のピッチに立ったのはすべて足しても、30分にも満たない。


そう。あの言葉は、ただの言葉になった。









しだいに


自主練の小泉と言われるほど

グラウンドに誰よりも遅くまで残り、誰よりも体に鞭を打った。



それに対する結果は全くと言っていいほど出なかった。



それどころか、成長を一切感じることができなかった。



練習ではミスを連発。

味方のフラストレーションが溜まっていく。

自分と同じチームになる人の表情までもが、嫌がっているように見えて。

自分がミスをした時の周りの声と顔が怖くて。

みんなの顔を見ることができなくなってきた。

人と目が合わないように芝生だけを見ていた。

そしていつしか聞こえてくる声が、会話のすべてが、

自分のことを言っているように聞こえてきた。

みんな怖かった。恐ろしかった。

そんな中でも、それを怖がっている。おびえている。


そんな自分が一番嫌いだった。




それと同時に「プロになる」ことの果てしなく高い壁が押し寄せる。

自分が目標とするプレースタイルの先輩がプロという舞台を掴めない。

自分よりも圧倒的にうまい先輩が通用しない。




そして自分は


想像する。

自分がプロの舞台で、大きなスタジアムのど真ん中で、大きな歓声の中

プレーをする自分を。


でも、次第に


少しずつ、


そんなことは想像できなくなった。


自分がミスをして周りが自分に罵倒してくる。
頭の中で、みんなが自分を罵倒する。


想像するだけの自信でさえ見失っていた。




大学1年では公式戦0分。

大学2年では公式戦15分。

大学3年では公式戦5分。



いくら頑張っても、いくら犠牲にしようとも、


何もかも決してうまくいかなかった。



本当に


毎日毎日が


辛く地獄のような日々だった。




頑張っても報われない。

持ってるやつしか報われない。自分は持っていない側の人間だ。

高校までド底辺の自分には、そもそも無理だった。




そんな言葉が頭をよぎる。


本当に少しずつ、自分を信じられなくなってきた。


本当に少しずつ、心の炎も消えかかっていた。








大学3年も終盤に差し掛かり、進路の選択を迫られる時期が来た。


就活か。プロか。


大学3年で出場した公式戦は5分。


それでも、どこかきっぱりとプロを諦めきれない。


多くの物を犠牲にしてきた。


何度も、自分の中の自分と戦ってきた。


それでも、次第に


少しずつ


頑張れなくなってきていた。











「見苦しく」


大学3年を終え、約1ヶ月のオフシーズン。


最後のチャンスであるこの年に賭けていた。

このオフシーズンで最高の状態に持っていく。

監督も変わる。0から自分の評価をしてもらえる千載一遇のチャンスと捉えた。

オフ明けのトレーニングはきついらしい。

なんせ自分は素走りに自信があった。


植村洋斗(4年・植村洋斗 / ジュビロ磐田加入内定)のジュビロ磐田のキャンプに向けてのトレーニングに付き合ったり、

自主的にきつい走りやランテストをやった。

オフでもサッカーに向き合い続けた。



しかし、不慮の事故で怪我をしてしまい復帰は3月終わりになった。






2月8日高校選抜との練習試合の日。


自分は怪我人であったが、その日は全員試合会場でのリハビリだった。


試合会場は小机フィールド。実家が近いという理由で、寮から一度実家に帰り、試合会場に向かうことにした。


実家で親が自分に言った言葉がずっと忘れられなかった。


「マネージャーになったの?」





中学時代、急に進路を変更したいと言い、両親と揉めた。

結局、多額のお金を費やし塾に通わせてもらった。

それでも落ちた。


高校時代に進路を体育系に変更したいと言った時、両親と揉めた。

説得の末、受験したが

またしても落ちた。


小学校はBチーム。
中学は人数かつかつのスタメンに入れるか入れないかの位置。
高校は同期自分一人で年に数試合しか勝てないチーム。


サッカーも頑張っていたが学業もそれなりに頑張っていた。


そんな自分が学業という道を一度それ、プロを目指す。


「プロになれるかも」という物的証拠もないのに。


親からしたらとんだ口だけバカ息子だった。


そんな親を何とか説得したが、自分に期待していないのは心のどこかではわかっていた。


確かに、サッカー以外の面でYoutube活動なり、カメラマンなり様々なものに手を出していたから、マネージャーに転向したのかも。と思うのは無理もない。


自分はサッカーのことはあまり親にはしゃべらない人間だから


時々実家に帰って聞いてくる。


「試合には出てるの?」


自分はその質問を避けるように、早く話題を変えるように


「練習試合なら出ているよ。そういえばさ、、、」


その時の親の表情を見るのが、辛く、心にずっしり岩が乗ったような心地で。







冗談半分で言ったのかもしれない。


でも、わかっていた。


本当にどこか、いや。


それでも、あの日は、


信じたくないものを突き付けられた感じだった。


自分にとっては、とても、とても重すぎる言葉だった。


よくよく考えれば、誰も期待なんかしてなかった。


自分が見苦しく思えた。


自分で自分を客観視したときに、見苦しかった。


ぽつりと糸が切れた感じだった。


見苦しい自分を受け入れられなかった。


自分自身に屈した。


今思えば、ずっと負けてきた。


1番下手という立場でありながら、上級生という立場もあり、
声で引っ張っていかなきゃいけない状況下で、自分は声を張り上げることができなかった。


そう。きっと見苦しいから。


見苦しい自分に耐えきれなかった。












最後の戦い


大学4年。


怪我から復帰してきたころ。


丁度、就活山場の3月終わりごろ。


それでも、諦めの悪い自分は


母に「卒業後ドイツかどこかでサッカーをしたい」というのが頭の片隅にあると伝えた。


事前にサッカー留学のことについても説明を受けたり、どのくらいお金がかかるのかも把握していて、それも伝えた。


念入りに「頭の片隅ね。」と保険をかけて。


こんな大事なことは父に伝えなければいけない。


父に伝えれば、また揉めることになるし、説得にはきっと苦労する。


父を前にしたある日。自分の口からでたのは、就活で受ける企業の話だった。


「サッカー留学がしたい。」


一言もその言葉を発しなかった。


説得できる自信がなかった。


いや違う。


そもそも


覚悟がなかった。


自信がなかった。



そんな情けない自分を隠すために、「就活は余裕だよ」そんなウソにまみれた自信で自分を守った。


4年間の毎日、毎日で感じた圧倒的劣等感と、圧倒的絶望感によって。


「プロになる」という覚悟と。


「プロになる」という自信が


完全に消えていった。






自分の上位互換のさらにその上位互換がプロの世界に行けないという事実。


帰省した際に感じる自分の情けなさ。


毎日下にある自分のネームマグネット。


何もかもがうまくいかない練習。


自分のミスで崩れる雰囲気。


ベンチ外確定のメンバー発表。


そんな4年間の日々が自分には十分すぎるほどに、心の火を消し去った。







あの時、語った宣言を4年間突き通せなかった。


完全に負けた。




そして



プロサッカー選手を諦めた。















宣言


プロサッカー選手は諦めたけど。

諦めたというか、プロにはかすりもしなかったけど。

1つ追い続けるMissionがある。


「明日への活力になる」


大学1年次のア式蹴球部のMissionである。

この言葉がずっと好きだった。

杉君に言われた時も、

徹君(令和4年卒・柴田徹 / 福島ユナイテッドFC)のドキュメンタリーを作ったときも、


そして
壮のことも、高校時のマネージャーのことも、

きっとこの言葉を深く刻むキッカケだったのだろう。




改めて

この4年間のすべての


悲しさを


苦しみを


悔しさを


情けなさを


虚しさを


圧倒的劣等感を


圧倒的絶望感を



この敗北を


命に深く、深く、刻む。









そして、あの時否定した


「努力は必ず報われる」


この言葉をいつか本物にできるように。


今日も宣言する。



俺は「誰かの明日への活力になる」


そして命に刻む。






最後に


杉君、晃士君を始めとするア式の先輩方
そして、後輩のみんな

練習中含めたくさん迷惑をおかけしました。
自分が辞めずに4年間ア式蹴球部の一員として活動できたことは本当にみんなのおかげです。
本当にありがとうございました。




同期のみんな

こんな変人、小泉和を受け入れてくれてありがとう。
プロになる人は、日本代表まで駆け上がっちゃってください。
試合観に行きます。
社会人になるみんなは、たまにお酒でも飲んで語りましょう。
最後はみんなで1部に上がろう。




両親

夢見がちなバカ息子でごめんなさい。
サッカーを16年間も何不自由なくさせていただいたのに、これといって何も結果を残せなかったのは痛恨の極みです。
それでも、本当にありがとうございました。かっこいい大人になります。




最後に壮

ア式での部員ブログは壮から始まった。
壮の夢はいつしか俺の夢になって、結局叶えることはできなかったけど、壮がいなかったらこんな刺激的で素晴らしい環境には出会えなかった。
まじで、本当にありがとう。
これまでも、これからも、多くのことを命に刻んでいつかいい報告ができるように。




これらの感謝をここに刻み、この文章の締めとする。



◇小泉和(こいずみやまと)◇
学年:4年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校


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