見出し画像

【#Real Voice】 「自由や多様性を盾に身を隠すな」 4年・林隆生

「自由」や「多様性」

現代社会を象徴するワードの1つだ。

生きやすくなった。
一方で、生きにくくもなった。

「自由」「多様性」という言葉で多くの人が救われている。
と同時に、多くの人が苦しんでもいる。

複雑で、センシティブで、正解などなく、簡単には語りきれない概念だから。

現代社会に絡まる諸概念はとてもとても難しいもので、定義しようとすればするほど訳が分からなくなる。
そっとしておけばいいのに…と思うことはあるが、かと言ってスルーしたままにしていい問題でもない。

職場ではハラスメントへの過剰反応が起き、テレビではコンプライアンスを意識して慎重に制作せざるを得ない。

一度気にしてしまったら逃れられない概念が、現代社会には広がっている。

だからこそ、「自由」や「多様性」という言葉は、そう簡単に振りかざしていいものではないはずなのだ。

もともと「自由」や「多様性」という言葉が注目されるようになったきっかけだって、差別や偏見があったり画一性に向かう社会がある中で、古い世界の中に存在する「自由」や「多様性」とは真逆のものに対して立ち向かう人が出てきて、その反動として産み落とされたものだと個人的には思う。決して軽々しいものでは本来ないはず。

でも、不当な使い方をして「自由」「多様性」というワードでディフェンスに入られてしまったら、もうこちらは手の打ちようがない。負けだ。自由や多様性を否定すれば、その人の人間性を否定することにも繋がりかねないから。「自分らしさ」を否定することに繋がりかねないから。

現代社会において、究極のパワーワード。

だからこそ、その扱いには注意しないといけないはずなんだ。
責任が発生するはずなんだ。

ア式で過ごす4年間、この「自由」や「多様性」という言葉が作り出す壁に何度もぶち当たった。




最上級生として、1年生の入部を判断する責務を担い、後輩たちには大事なことを伝えないといけない立場になった。

でも、話をすればするほど、踏み込めば踏み込むほど、彼らとの溝は深まるばかり。

価値観が大きく違う。違いすぎた。
今年の4年生までと3年生以下とで、文化や価値観に明らかな線引きがあった。

だから、伝えても刺さらない。
逆に「何を言っているんですか?」と反発を喰らう。

当然、普段からの信頼関係だったり、言動の不一致だったり、そういったものが我々に甘さとしてあったから聞き入れてもらえないんだろうなとも思う。

でもそれ以上に、たった1つ2つしか学年が変わらないのに、文化や価値観に明らかな線引きがあることに面食らった。
彼らの世界に入る際には、パスポートが必要なんじゃないかと思うほどだった。

純・外池チルドレン1期生として、これまでの3年間で多くのことを見てチャレンジして、そこから様々な学びを得た。
過去3年間の外池体制で積み上げたものを信じていたし、そこに自分たちなりの色を加えればうまくいくと思っていた。
でも、現実は違った。
同じ外池体制で育った人間なのに、まだ外池体制は続いているのに、明らかに4年生だけ取り残されている。
「俺たちが時代遅れなんだな」「時代についていけていないんだな」と、引っ張る側の人間がそう思うしかなかった。


そんな自分たちが引退した来季、4年生という異物が組織の中から抜ければまとまりそうな気もするが、実際そうはいかないと思う。
来季以降のア式はしばらく分断の一途を辿るはずだ。
今年から、もう既に始まっているとも思う。

「日本をリードする存在になる」ことを本気で目指す外池体制が作り出したア式の"陽"をリスペクトをする一派と、光の裏でどうしても生まれてしまう"陰"への不満や批判の念を持つ一派とで、完全に分かれてしまうだろう。

ア式独自のやり方でちゃんとしないと勝てないと分かっている一派と、自分たちのサッカーをやれば勝てると思っている一派だと噛み砕くこともできるかもしれない。

別に、どちらかが正しくてどちらかが間違っているということではない。

「日本をリードする存在」とは何か。1年生の頃よく問われた。考えさせられた。
模範解答など存在しないが、個人的には
「日本をリードする存在」とは「既存の枠組みへの挑戦」
そう要約した。

1年生の頃に見た原風景こそが、「既存の枠組みへの挑戦」だった。
体育会という枠組みに囚われない、社会との接合を常に意識したアクションの数々。
とてもワクワクした。このままいけば、自分たちはどうなるんだろうと心踊った。

ポカリスエットのCMに出させていただいたり、早慶クラシコで1万5000人ものお客さんにご来場いただいたり、スポンサー契約や社会人リーグ参入を巡って大学との折衝があったり。
「既存の枠組み」に囚われない革新的なアクションがそこにはあったし、その代償として痛みを味わうこともあったが、我々は常にドライブし続けた。

外池体制1年目の成果により、活動の幅が大きく広がった。受け入れる器が大きくなった。選択肢が増えて、迷うくらいになった。
広報や集客といったプロモーション活動が活気を帯び、学生スタッフの数も一気に増加した。活動の幅が広がったことを大きく象徴する出来事だと思う。

その一方で、器を広げすぎたが故に、コントロール不足に陥ることも少なくなかった。人材難に直面することもよくあった。だから人を誘う。誘われる身からしたら、苦労もなくすんなり入れたかもしれない。
そのことが、逆に事態を難しくしてしまった。

ハングリー精神が消えた。
痛みを伴う革新的なアクションを起こさずとも最低限の魅力的な活動が担保される中で、「存在意義」という言葉が一人歩きし始める。
組織から担保してもらった、誰かから与えてもらったものをこなすことが、自分の「存在意義」だと思い込む人間が増え始めた。
それが「自分らしさ」だと主張する人間が増え始めた。

これはマネージャーの話にはなってしまうが、ピッチ内や早慶クラシコの仕事は、ある種チームから提供されている、最低保証されている活動でしかない

そのこと自体が必ずしも悪いということではないが、担保された中での活動だから、その保証元となる組織が目指す方向性への調和がないといけないし(伝わるだろうか)、ある意味で「こうして欲しい」というリクエストがあってそれに最低限応えなければいけないと考えるのが普通だろう。
ただ、そこに反発する人間が出てきたのだ。

そうなってくると話が変わってしまう。
「最低保証」に身を隠しておきながら、自分の思う通りにできないと反発する。
それではタチが悪すぎる。

とにかく、簡単には全てを語りきれない、簡単には全てを解決できない「ねじれ」が生まれ始める。

3年生以下はそんな中で入部してきた。
豊かになったア式にやってきた。
当然、残留争いがあったりコロナがあったり、難しい状況には毎年直面している。
でも、開拓の痛みを知らない、外池体制がアクションを続ける中で生まれる「酸いも甘いも」の「甘さ」だけを堪能できる環境に君たちはいられているんだと思う。

毎試合バスで会場まで移動できたり、前泊が頻繁にできたり、捕食が十分に用意されていることも、決して当たり前ではない。主務や副務の努力があり、OB会の方々の理解があって成り立っている。

「甘さ」に浸かっているから、不意に降りかかる「酸い」を拒絶しがち。
それが、自分と向き合うことだったり、誰かの話に耳を傾けることだったりする。

別に、3年生以下を批判したくてこんなことを言っているんじゃない。
こんな自分たちの言葉に耳を傾け、真摯に受け止め、それを行動に移してくれている人もいるから。
でも、分断が起こりつつあるア式の現状を見て、指を咥えて静観している場合ではない。
厳しい内容になるかもしれないけれど、耳を傾けてくれると嬉しいな。
長いから、太文字だけでも読んでくれればそれでいいよ。

画像4



まず、はっきり言います。

自分が自分らしくあれる環境は、自分の手で作り出すしかない。
自分が自分らしくあれる環境は、誰かが用意してくれるものではない。


むろん、既存の環境に胡座をかいて、逃げて隠れてばかりで本質的な挑戦をしようとしない人間には、自分が自分らしくあれる環境を享受する権利はない。
ただ、そういう人間に限って、何かを勘違いしていて自分の都合のいい解釈しかできないから、自分が自分らしくあれる環境を平然と主張するのだ。
本質的な努力なしに、「自由」や「多様性」という聞こえのいい言葉を振りかざして、そこに身を隠して、自分が自分らしくあれる環境を享受しようとする。実にタチが悪い。

そういう残念な人間が随分増えてしまったなと、最近のア式を見て素直に感じてしまう。

君たちは一体何者か?

自分のやりたいことしかやらないのか?
自分がやりたくないことからは逃げるのか?

都合のいいことばかりに耳を傾けるのか?
都合の悪いことからは目を背けて、向き合わないのか?

自分という人間を理解してもらう努力もなしに、
周囲からの信頼を得る努力もなしに、
自分がやりたいことをまず主張するのか?

確かに、ア式は自由だ。
学生主体だ。

ア式蹴球部の門戸を叩き、並々ならぬ覚悟を持って入部してきたことはとても素晴らしいことであり、その勇気は賞賛に値する。
ただ、ア式で活動する中で享受できる様々な利益(適切な表現が見つからなかったので利益と記す)は、君たちが1から未開の地を開拓して獲得した権利ではない。

先人たちのたゆまぬ努力で、先人たちが数々の犠牲を払い、その結果として獲得してきた権利でしかない。
部内において、大学内において、大学スポーツ界で、社会的に、いろいろなところで。
とてもとても貴重だ。

そこへのリスペクトはあるか?
そこに胡座をかいて、自分たちが享受できる当然の権利だと勘違いしていないか?

当事者というものは、
歴史を創り出す張本人であると同時に、
歴史を壊す張本人でもある。

自分たちの立ち位置を見誤り、謙虚さを失い、楽な方に逃げた瞬間、歴史は壊れる。

僕が今のチームを見て感じていることを、おそらく先人たちは我々に対しても感じているのだと思う。4年生も含めてだ。「あの頃はもっと〜だったね…」と。

時代は常に変わっている。ものすごい速度で動いている。
となれば当然、ア式としてもビジョンやミッションには大きな変化があるだろう。
ただ、その根幹にある、絶対に忘れてはいけないもの、ア式が大事にしているポリシーや哲学は絶対に疎かにしてはいけない。
決して、その哲学を盲目的に信じ込めと言うつもりはない。矛盾しているようだが、手を付けることには肯定的だ。
しかし、歴史を軽んじて、先人たちの功労に理解もなく、当事者による表面的な損得勘定や自分勝手な感情だけで動いてはいけない。
これだけは伝えたい。

ここで言う先人とは、別に10年も20年も前の方々を指しているのではない。去年卒業した4年生だって立派な先人だ。むろん、今年の4年生だって3年生以下から見れば先人にあたる。

先人たちの努力にリスペクトはあるか?
過去の努力を知ろうとするアクションはあるか?
目に見えない成果に対して、理解を示そうとしているか?


個人的にはとても大事なことだと思うので、もう一度言いたい。
自分たちの立ち位置を見誤り、謙虚さを失い、楽な方に逃げた瞬間、歴史は壊れる。
当事者による表面的な損得勘定や自分勝手な感情だけで動けば、必ず歴史は壊れる。

何も成果を残せていない4年生が何を偉そうにと思うのは当然だと思うし、普段から我々に対する反発がものすごくあるのは重々承知しているが、批判を恐れずに言わせていただく。



自分の練習中の声掛けに対して、「うるせえ、黙れ」と後輩に言われたことは何度もあったし、冷ややかな目で見られたり嘲笑されたことも当然あった。
悲しかったし、自信を失った。
確かに、これまで世代のトップレベルでサッカーをしてきた人間にとって、無力なマネージャーからサッカーについてごちゃごちゃ言われることが気持ちよくないことくらい分かっている。
良かれと思って、チームのためを思っての発信が、結果的に自分を苦しめ続けた。
そこはスタッフの難しさであり、乗り超えなければならない壁でもあると思う。でも、その壁を乗り越えるのはそう簡単ではない。勇気がいる。
だからといって、ビビって、逃げて、感じたことを表現せずに自分の中にしまい込んでいても後悔するだけ。
不快に感じることもあったと思う。だけど、どうか許しておくれ。

自分もこういう学びがあったからこそ、ようやく4年生の幹部の難しさや苦しさが理解できた。
今までごめんな、本当に。

みんなを傷つけたくて言っている訳じゃない。
「4年生だから」みたいに捉えられそうだし、「チームのために本心でもないことを無理やり発言している」みたいに思われているんだろう。
もちろん、完全否定はできないかもしれない。
ただ、そんなちっぽけな理由以上に、
チームを思って溢れ出た感情や意見を、恥ずかしいから、勇気が出ないからと言って自分の中にしまい込んで発信できないままにしてしまう後悔を知っているから。
綺麗事に聞こえてしまうかもしれないけれど、だから毎年4年生は後輩に対して口酸っぱくいろいろ言うんだよ。

逃げるのは簡単。
思うことがあっても何も言わず、目を瞑り、見て見ぬふりをして、何事もなかったかのように振る舞う。
ピッチの外から、ぼんやりと練習を眺めるだけ。
なんとなく、それっぽく、練習に参加したふりをする。

でもそれじゃダメなんだと、この4年間で学んだ。
事後になってから「いや、あの時ああいうふうにしておけば良かったのに」みたいなことをほざく、卑怯な批評家で留まろうとする自分を許してはいけないことに気付いた。

でも、良かれと思って、チームのことを思って発信したがために自分を傷つける。
「多様性を認めろ」というくせに自分たちの意見にはちっとも耳を傾けてくれない矛盾を嘆き、話をまともに聞き入れてもらえない自分の人望のなさを憂うばかりである。

全てを屈託しろとかそういうことではないんだよ。

3年生以下(主に3年生だが)はその辺りの認識がどうも良くなくて、
チームの方針に従うことや、周りから求められる通りに動かないといけないことが、自分の全てを変化させないといけない、自分の存在を否定されたと勘違いしたまま燻っている。

どんな社会にいようとも、どんな組織に身を置こうとも、
常に求められるのは「適応」であり、「適合」ではない。

自分の軸は持ったまま、その周りの情報を環境に応じて変化させていくだけ。
そうすれば必ず、残しておいた自分の軸は前よりも生きる。相乗効果が起こる。化学反応が起こる。新たな発見が必ずある。

別に、自分の全てを、過去の積み上げを全て洗い流して、画一的な理想像にぴったり収まれと言っている訳ではない。血を全て入れ替えてア式色に染まれなんて言っている訳でもない。

ただ、そう思い込んでしまっている人は一定数いて、そういう人は自分の都合の良い解釈しかできていない。
残念ながら、そんな人たちの成長幅は少ない。伸びない。ア式での4年間を後ろめたい感想でしか語れない。

常に求められるのは「適応」であり、「適合」ではない。

適応と適合の違いを理解し、ア式で求められるものが適応であることをわかっている人間は大きく成長している。適応したからこそ、今まで以上に「自分」が際立っている。個性がイキイキとしている。
逆に、適合を強制されていると勘違いしたまま、それに反発して不満を募らせる人間は全くと言っていいほど成長できていない。自分の前に鋼のカーテンを下ろし、他人からのありがたい指摘やアドバイスを拒絶している。「どうせ言っても何も変わらないんだな」という諦めの境地で他人からは見捨てられる。「自分らしさ」が、個性が、逆に自分をマイナスに印象付けている。でも彼ら彼女らはそれに気付いていない。


気持ちは分からなくはないよ。
誰かに何かを言われ続けることへの嫌悪感は。

自分だって、1人でいる時間がないと死んじゃうタイプの人間だから、他人のテリトリーを侵略して他者に干渉してくるア式の人間が本当に嫌だった。
ア式という組織は好きだったし、そこにいる個人はみんなユニークで好きだったけど、そんな個人が、組織のためとなれば束になって牙を向き、凶暴な集団と化す瞬間が本当に怖かった。
だからうまく取り繕った。他者からの干渉をうまく切り抜けた。話を聞かないわけではなかったし、客観的な意見はとてもとてもありがたかったけど、膝と膝を付き合わせて話すみたいなことからは何かと理由をつけてとことん避けた。

でも思えば、自分は適応と適合を履き違えていたんだなと感じる。
こんな自分に本気で向き合ってくれる誰かがいることが、どれだけありがたいことか。

去年、当時の4年生から「別にア式じゃなくてもやっていけるしって思っているんじゃないか?」と不意に言われたことがあった。「どうせ辞めるなら、何か成し遂げてからにしろよな」こうも言われた。
この時ばかりは本気で焦った。
当時はそんなこと思っていなかったけど(下級生の頃は思っていたことがあった)、そう思われていたんだ。浮ついて、地に足が着いていないのが見透かされていたんだ。
本当にありがたかった。こんな自分に、本気で向き合ってくれている誰かがいた。
相容れない!という感情を優先させて受け入れずに突っぱねることだってできたはず。でも、ぐうの音も出ないくらい的を得た指摘だった。

こういう体験は下級生のうち、できれば1年生のうちにしておきたい。こういう経験を生み出した方がいい。
なぜなら、高学年になればなるほど、立場が確立されて目に見えない関係性ができあがって意見を言いづらい、意見を聞いてもらえない、といったことが起こりうるから。
また、組織にいる時間が長ければ長いほど組織でうまく立ち回る方法がなんとなく分かってきて、姑息にうまく切り抜けて逃げるやつが出てくるから。
だから、何もかもがまっさらでピュアな1年生のうちにやっておいた方がいい。


本当に今、早稲田大学ア式蹴球部は、歴史を壊すか壊さないかの岐路に立っていると思う。

別に保守的になれという訳ではない。
いい意味で、歴史はぶち壊してほしい。
「既存の枠組みへの挑戦」は続けてほしい。

ただ、自分たちの立ち位置を見誤り、謙虚さを失い、楽な方に逃げた瞬間、歴史は壊れる。
当事者による表面的な損得勘定や自分勝手な感情だけで動けば、必ず歴史は壊れる。

これだけは分かっていてほしい。

画像3



本当にこんなことを部のアカウントを通して発信していいのかという葛藤は今もある。

棘が多すぎて部員からは拒絶されてしまいそうだけれども、
伝えたいこと、強調したいことが決して現状への批判ではないことだけは読み取っていただけると嬉しいです。



最後にひとつだけ。これまで長々とごめんなさい。


今まで言ってきたこと、適応と適合の話はピッチ内でも同じ。

ピッチに立つ11人がそれぞれやりたいことがバラバラでは絶対に勝てない。
理想のサッカー論が衝突したままでは絶対に勝てない。
チームがバラバラでも、ピッチ上に規律などなくても、試合を1人で決めることができてしまうほど個で際立っている選手は早稲田にはいない。

試合中や練習中に徹(3年・柴田徹)がよく言っている「やることを合わせよう!」という声掛けは、実によく的を得ているし本質的。
そこに共感を持てない、適応を拒む人間はピッチに立つべきでないと思う。

以前、試合会場でどこかのスカウトの方たちの立ち話を耳にしたのだが、
「どんなにうまくても、プロになるためだけに自分だけが輝こうとして振る舞う選手は絶対にうちのクラブは獲得しない」
という話をされていた。

そんなもんなんだろうなとやはり思った。
プロになるのは個人だが、サッカーという集団スポーツにおいては評価が全て個人だけにとどまることはない。
「チームが不調だとスカウトの方から見てもらえない」なんて話も聞くし、なんとも難しい。

チームとしての調和の中で、どのような色を出せるのかが大事なんだろうなと思う。
それこそ、「適応」の世界だ。



明日の流経戦は勝たなきゃいけないんだ。

バラバラになっている場合じゃない。
内部で不満を溜め込んで分裂している場合じゃない。

全員が「適応」して、勝利を掴み取るんだ。

勝って、インカレに行こう。


画像1



林隆生(はやしりゅうせい)
学年:4年
学部:スポーツ科学部
出身校:都立小石川中等教育学校





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?