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<中村彜>と<佐伯祐三>の旧アトリエを訪問したら思いがけず以前のブログ記事とつながった。


はじめに

 9月11日付で、『<発見された日本の風景>日本橋高島屋:やっと出会えた幕末・明治の絵;やはり明るかった日本の風景、そして水彩描写感度良し(その1)』と題する記事を投稿して以来、(その2)を書くための準備を始めたのですが、(その1)の中で示したこの展覧会に対する問題意識を広げ過ぎたので、一向に前に進みません。

 準備の過程も含め、まだ調査段階でも記事が書けるように、サムネイル画像に示したように「線スケッチよもやま話」というコーナーを設けたのですが、それすらも第一話を書いてから継続できていない状況です。

 何か書かなければと思い、10月5日(木)に気分転換がてら出かけた新宿区落合地区の散策時に、思いがけず私が忘れかけていたある記憶が蘇ったので記事にすることにしました。

下落合の地形を体感する

 もともと下落合を目指したのは次の理由によります。
 以前の佐伯祐三展訪問記事(下記)の中で、下落合の風景を描いた佐伯の作品を紹介しました。
 その中の作品の一つを線スケッチにより模写をして佐伯が描いた当時の下落合の風景を間接的に体感したことも書きました。
 ですから、下落合の現場の地形を直接見てみたいと思ったのです。

  JR山手線高田馬場駅から<さかえ通り>の商店街を進み、神田川を渡って急な坂を上ると新宿区立おとめ山公園に出ます。さらに北方に進むと比較的平坦な、区画整理された戦前からの住宅街に出ます(図1)。

図1 新宿区立おとめ山公園の北側に広がる住宅街の様子

 しかしその一帯は新しいマンションや戦後の家屋が連なるばかりで、佐伯が描いた頃の、開発中の造成地が多く遠くまで見渡せる風景は跡形もありません。
 とは言え、おそらく佐伯が描いた後に建ち並んだと思われる大きな屋敷の痕跡をかろうじて見つけることができました。

 具体的には、図1の写真に示すように、以前屋敷の庭にあった立派な赤松や、道の真ん中に残された旧近衛文麿邸のケヤキ、そして材質やデザインからあきらかに戦前のものだとわかる門や塀などです。

 <中村彜アトリエ記念館>で懐かしいものを見た

 さて、街歩きを楽しむ人は多いと思いますが、世の中には入念に下調べをして歩く工程を綿密に計画する人と、その場で判断しながら行き当たりばったりにぶらぶら歩く人の二派に分かれるのではないでしょうか。
 どちらもよい点と悪い点がありますが、私の場合は通常スケッチポイントを探すのが目的なので、思いがけない風景の出会いを大事にしたいので事前の下調べはほとんどしません。

 しかし今回は、佐伯祐三の描いた土地を見に行くことが目的だったので、彼のアトリエの位置だけは事前に地図で調べました。
 すると近くに<中村彜のアトリエ記念館>という文字があるではありませんか(図2を参照ください)。

図2 中村彜のアトリエに掲げられた案内図に、
中村彜と佐伯祐三のアトリエの位置を赤の矢印で示した。

 そういえば、この辺一帯は、多くの文化人が住んだ土地だったと思い出し、この<中村彜アトリエ記念館>も寄ることにしたのです(図3)。

図3 中村彜アトリエ記念館

 今回の下落合散策では、戦前の古い建築が残っていたらよい程度に考えていました。ところが、「記念館」と銘打つだけあって、油彩の複製画だけでなく多くの資料が展示されており、それらを見たり読むうちに12年前の私のブログ記事が突然脳裏に浮かんできたのです。

 理由の一つは室内の《エロシェンコ像》と相馬俊子をモデルに描いた作品のコピーを見たことです。2013年東京国立近代美術館「美術にぶるっ! ベストセレクション 日本近代美術の100年」展《エロシェンコ像》の実物を見たこと、相馬俊子については、壁の説明資料の中に、母親である新宿中村屋の女主人、相馬国光とそのサロンに出入りしていた彫刻家の荻原守衛(碌山)会津八一の名前があり、かつて相馬黒光に焦点をあててブログ記事を書いたことを思い出しました。

 相馬黒光は私が10年以上前単身赴任していた仙台の出身であり、当時まったく私が知らない人物でした。NHKの日曜美術館荻原守衛(碌山)の生涯の中で黒光が出てきたのですが、NHKとしては思い切ったことに男女の仲をテーマに番組が構成されており、また私が仙台赴任中だったので彼女に興味を持ったのです。

 知れば知るほど興味が尽きない女性で、大変スケールの大きな人物です。明治生まれのスケールの大きな女性では、与謝野晶子岡本かの子らが思い浮かぶのですが、彼女たちは日本の女性像の範囲内にあると思うのに対し、相馬黒光は、適切な表現かどうか分かりませんが、西洋で言う「ファム・ファタール」と云ってよいのでしょうか、なかなか捉えどころのない謎多き女性で、これまでの日本女性の系譜にはない人物のように思います。

 それで6回もシリーズに分けて長編のブログ記事を書いてしまいました。タイトルは『仙台が生んだアンビシャスガール「星良」、あるいは相馬黒光』です。

 実は中村彜アトリエ記念館を訪問するまで内容をすっかり忘れていました。自分が書いたものに対して言うのは変ですが、読み返してみると意外に面白い記事でした。おそらく12年経ったことで私自身も見方が変わってきたのでしょう。
 そこでここではリンクの引用をせず、全文を次回の記事で再掲載しようと思います。

 なぜなら日本橋高島屋で見た<発見された日本の風景>展の記事(その1)の第3節のタイトル、『幕末、明治初期の日本人画家達:その大胆で挑戦的な生涯と絵画への取り組み』の中で書いたように、当時の画家や関連する人々の生涯を知る必要があると思うのと、記事(その2)を描くために調べた結果、明治期の美術関連の人びとの生涯の多彩さに改めて驚いているからです。

 会津八一もその意味ではその一人で、<発見された日本の風景>展の中の画家の一人、渡辺豊州とその娘の同じく画家、亀高文子と密接な関係があることを知りました。

 そんなこんなで調べれば調べるほど時間が経ち、すぐに(その2)の記事を書けそうにありません。

佐伯祐三アトリエ記念館と妻、佐伯米子

 さて、中村彜のアトリエをあとにして、佐伯祐三のアトリエに向かいました。図2で示したように両者は比較的近い距離にあるのですが、面白いことに途中、西側が斜面になる崖の端の道を通るのです。はるか西には新宿西口の高層ビル群が見えます。
 ですから、落合一帯に文化人が家を建てたのは、神田川が流れる谷沿いではなく斜面から上、高台だったことが分かります。
 これは、国分寺崖線上に家を建てた田園調布や成城学園の街づくりと同じ思想です。

 さらに進むと、聖母坂通りという比較的広い道に出て、その通りに面した聖母坂病院の北側に佐伯祐三のアトリエがありました。ふ


図4 佐伯祐三アトリエ記念館

 中村彜のアトリエと同じように、館内には油彩の複製と解説資料があり、ここでもそれらを時間をかけて読み込みました。

 中でも、私が注目したのは佐伯が描いた下落合風景の一連の油彩です。

図5 佐伯祐三が描いた下落合風景
出展:館内の壁に貼られた資料を撮影

 私が模写した油彩はその中にありませんでしたが、先ほど歩いてきた下落合の地形を思い出しながら眺めると、下落合の土地の全体像と実感が湧いてきます。

 さらに興味を抱いたのは、別の部屋に展示されていた、佐伯祐三の妻、洋画家の佐伯米子の油彩と解説文の内容です。

佐伯米子の写真と母屋から描いた油彩
出典:写真は解説文の中の写真を引用。油彩は筆者撮影

 以前、佐伯祐三展を訪れた時に、佐伯祐三がパリで本人だけでなく一人娘の彌智子も亡くなったこと、米子一人がこのアトリエに戻ったことを知りました。

 佐伯祐三は、晩年死を覚悟してパリの街を描いた時に、幼い娘をいつも現場に連れて行き描いていました。
 第三者から見ると、結核が娘に感染する状態にしていて本当によかったのか疑問がわき、幼い命を佐伯祐三が道連れにしたとしか思えません。娘まで亡くなったことを米子は後悔しなかったのか? どのような思いで一人帰国したのかなど、その後気になっていました。

 今回、この記念館開設の経緯を読むと、米子はパリから帰国後も母屋に住み続け、この地で亡くなったとのことです。没後、母屋とアトリエは新宿区に寄贈され、新宿区の施設として開設に至ったようです。

 壁の解説文には、佐伯米子のその後の画家人生が以下のように書かれていました。

 佐伯の没後、パリから戻った米子は、ここ下落合のアトリエで画家として創作を続け、昭和5年(1930)丸善ではじめての個展を開催、以後、東京・大阪などで定期的に個展を開催する。
 昭和21年(1946)女流画家協会の設立に参加。昭和23年より二紀会に参加、翌年には理事となり、亡くなる前年まで二紀展に作品を出品する。

佐伯祐三アトリエ記念館・解説文より引用

 そして主要な美術展で大きな賞を獲得しているだけでなく、昭和47年には「勲四等宝冠章」を受賞しており、功成り遂げた女性の洋画家という輝かしい人生しかこの解説文からは浮かび上がってきません。

 しかし、パリから一人(おそらく夫と娘の二人の遺骨を抱いて)、誰もいないこの家に戻った時に彼女は今後の人生をどのように考えたのでしょうか?

 通常の女性ならば、かつて夫と娘と三人で日々を過ごしたアトリエに一人住むことを考えただけでも悲しさや寂しさに耐えられないのではないでしょうか?
 しかも生活面での支えがなければ、戦前ならば周囲から再婚の勧めが来るでしょうし、難しい職業の洋画家で独り立ちしようなどとはおそらく思わないでしょう。

 にも拘わらず、思い出だけが残るこの家で、洋画家として自立して歩んだ佐伯米子という人物は、内に秘めた強い気持ちをもつ女性だったにちがいありません。

さいごに

  落合地区の散策は、佐伯祐三アトリエ記念館を後にした後、林芙美子記念館に寄って最後にしました。そこでは、やはり母屋に隣接してアトリエがありましたが、それは画家志望の夫のために作ったとのこと。芙美子自身の自画像もあり、必ずしも文学の話題だけではなさそうですが、この記事では割愛いたします。

(おしまい)

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