見出し画像

偏見への挑戦 ー「ヒューマンライブラリー」に参加して考えたことー

このnoteは、大学で先日開催されたヒューマンライブラリーのイベントに参加してみて、あまりに面白い経験をさせられたので、その感想や気付きをまとめ、共有したいという思いのもと書かれたものになります。

イントロ

先日、「本」ではなく「人」が貸し出される図書館を利用しました。

「おや?何を言っているんだこいつは?」
と思うかもしれませんが、冗談ではありません。

「人」が「本」を借りるのではなく、「人」が「人」を借りる。
それが自分の参加したイベント、ヒューマンライブラリーです。


画像1


自分の大学の友人が、ヒューマンライブラリーのイベントをやる、と宣伝していて、自分はそこで初めてこの取組みの存在を知りました。
宣伝を見て、まずライブラリーという時点で興味が湧きました。本が好きなので。
それに加えて、「人が貸し出される図書館」であるというユニークな特徴を持っていたので、「これはもう参加するしかない!!」と思い、参加登録をしました。特に、人間を本とみなす斬新さにすっかり興味を引かれてしまいました。


ヒューマンライブラリーの参加者たち

事前登録を済ませ、迎えたイベント当日。


会場に着くと、「司書」の方が迎えてくれました。
これは当日になって分かったことですが、ヒューマンライブラリーには大きく3つの立場の人々が参加しているようです。
下の図は、3つの立場から成るヒューマンライブラリーの構成を表しています。

画像2

(図1は関 2019 p. 26より引用)


参加する自分は「読者」の一人。そして、様々なバックグラウンドを抱えている「本」の方と対話を行い、それを「司書」がサポートする、という構造になっているようです。

参加したイベントではどれぐらい人がいたのかというと、(上の図にはないですが)イベント主催の「館長」が1名、「司書」が3人で、「読者」がだいたい20人ぐらい。
そしてメインとなる「本」の方は、7人(冊)ラインナップされていました。「本」の内容を紹介したいのですが、確か「本」の方の個人情報を出すのは差し控えられていたので、簡単に背景だけ紹介します。

・男だけど女の子の服が着たい。ありのままで生きる「Xジェンダー
・長年日本に住んでいるのに定着性のビザが与えられない「国のない女
・宗教的アイデンティティであるヒジャブの意味を問う「在日ムスリム
・日本人からイスラムはどう見えているのか、両者の文化間で異なる点、似ている点はどこなのかを考える「ムスリム留学生
・中国政府の圧政に虐げられた過去をもつ「東トルキスタン系
・二者択一の性に苦しむ「トランスジェンダー
・交通事故、両親との離別。でもめちゃくちゃ明るい「車椅子ユーザー


ラインナップを見てなんとなく気づくでしょうか。
雑に一般化して言ってしまえば、いわゆるマイノリティに分類されるような方々が「本」になっている、そういう特徴があります。
そしてこれは当イベントに限らず、ヒューマンライブラリー自体が広く「多文化共生」の文脈で使われているようです。ヒューマンライブラリーそのものに関する話は、下のリンクが分かりやすいのでぜひご覧ください。

「HLとは」 一般社団法人 東京ヒューマンライブラリー協会
https://www.tokyo-humanlibrary.com/about


話を戻してイベント参加時を振り返ります。
当日のイベントは以下の流れのように進みました。

1. 1冊の本と対話(30分)

2. 休憩(15分)

(1. 2. を3回繰り返す)

3. 「司書」「本」「読者」による感想交換会(約30分)

「本」は合計7冊あると紹介しましたが、最大で対話ができたのは4冊でした。ただ、特殊な背景を持った方々と話をしたり質問をしたりして過ごす30分間というのは、想像以上に疲れる。4冊も聞ければ十分だったと思います。
自分は「東トルキスタン系」→「Xジェンダー」→「トランスジェンダー」→「車椅子ユーザー」の順で参加しました。

また、「本」との対話では、1冊につき最大で4-5人の読者まで、という制約がついていました。場合によっては「本」と「読者」がそれぞれ1人ずつ、という回もあったみたいで。自然に「本」との密なコミュニケーションがとれる構成になっていました。


当事者の語りを聞いて

ここからは、当日参加した感想を大きく3つにわけて紹介します。


・「本」からのメッセージ内容について

4冊の「本」から話を聞いてみて、正直「本」が「読者」に伝えたいメッセージの内容はありきたりなものが多かったです。
「自分らしく生きろ、ありのままでいいんだ」とか、
「人との出会いが大事」とか、
「成るように成る」とか。

いろいろ話してくれたけど、結局話のシメになる部分が見え透いてて、聞いてる内に少し冷めてしまった時もありました。

でも、例えば今まで見た目に関して虐げられてきた過去を持つような人が言う「自分らしく生きろ」って、他の人が言うそれと比べて、やっぱり言葉の重みが全然違う。

「人によっては綺麗事のように聞こえる言葉なのに、どうしてこんなに心の奥深くまで突き刺さるんだろう」と不思議に感じました。

そういった言葉の重みを実感できたのは、振り返ってみれば、「本」である当事者の内面を、対話を通じて共有できたことが大きいんじゃないかな、と思います。と言うのは、単純に、LGBTQや難民のようなマイノリティに属する人の座右の銘を聞かされただけではここまで心を動かされないと思ったからです。
聞いてみて分かりましたが、当事者の内面というのは、かんたんに表にできないような複雑な心境や出来事が絡んでいます。それらを乗り越えて絞り出されたメッセージというのは、当事者の生い立ちや経緯などのライフヒストリーを聞かされた「読者」にとって、強い説得力を持って頭に響いてくる、そんな感じがしました。


・イベント参加が自分にもたらした影響について

イベントに参加してみて、大きく自分の思考過程が変わりました。

今まで、「Xジェンダー」とか「東トルキスタン系」とか聞かされても「あぁ、そういうカテゴリーがあるな」というあやふやなイメージしか湧きませんでした。自分の身近にそういう類の人がいないため、こうしたマイノリティを、人というより概念として捉えていたことは拒めません。

様々な種類のマイノリティ当事者である「本」の方と今回対話して、マイノリティというのは、授業やレポート等で取り上げられるカテゴリー概念ではなく、自分と同じ1人の人間なんだ、ということをまざまざと実感させられました。
これを実感して、「今まで自分はなんて物事を一般化して見てきたことか」とショックを受けました。LGBTQ、ムスリム、障害者、移民・難民、それぞれをとっても本当にいろんな人たちがいる。でも今までの自分はこうした言葉を使う時、「○○という特徴を持つ有象無象で顔の見えない集団」ぐらいの想像しかできていませんでした。

イベント参加を経た今、自分はようやく、こうしたマイノリティの方々について実感をもって言及することができるようになったと思います。それぐらい、対話が持つパワーというのが凄かった。


・「読者」(大衆)と「本」(当事者)の認識のズレについて

「本」と対話をしていった中で気づいたことですが、当事者が置かれている境遇に関して、一般大衆の認識と当事者自身の認識とでズレがある、ということが複数の「本」で言及されていました。

その点では「トランスジェンダー」との対話が一番分かりやすかったので、例として紹介します。

「トランスジェンダー」で語られていた認識のズレというのは、次のようなものです。

それぞれから見たトランスジェンダー観
○一般大衆
トランスジェンダー=ほとんどの人が性転換を完了している&反対の性になりたい人たちというイメージ

○当事者
トランスジェンダー=ほとんどの人が性転換途上である&必ずしも反対の性になりたいわけではない

まず、性転換に関して。
トランスジェンダーの「本」によれば、一般大衆から見ると、トランスジェンダーというのは多くが性転換を済ませているもの、既に完成された性、と見なされるようです。

でも実際は違う。
性転換って、そんな簡単にできるものではないようです。

「本」の方は、体が男で性自認が女でした。その方は、女として社会で生きるために、性転換手術(約100万)や、戸籍変更、女声になるためのボイストレーニングなど様々な事を行ってきたそうです。戸籍変更自体も、成人で、未婚で、未成年の子がいなくて、生殖機能がなくて、かつ生殖器が移行後の性と同形のものである、といった条件が課されるようです。
こうした厳しい条件から、トランスジェンダーといっても多くの人がまだ性転換の途上にあるそうです。

また、トランスジェンダーは必ずしも反対の性になりたい人たちではありません。ここを誤認されることが多いらしいです。「今の体の性別に違和感はあるけれど、別に反対の性になりたいわけではない」というのもトランスジェンダーに含まれます。


「どうしてこのような認識のズレが起こるのだろう」と考えた時、やっぱり一般大衆の偏見というものの影響が大きいんじゃないか、と思いました。

偏見というものは大抵、無知と誤解から生まれます。そして、そんな危うい理解にもかかわらず、「○○とはこういうものだ」と、明確な根拠なしに一般化してしまう、という特徴を持ちます。

ヒューマンライブラリーには、こうした偏見を取り除く力を感じました。

別にそれぞれの「本」がそれぞれの当事者代表である、というわけではありませんが、「30分間」「小規模」「直接」「対話」という特徴を持つこの手法により、「本」を通して、当事者が置かれている立場を深く理解できたと思います。こうした過程で伝わってくる当事者の「リアルさ」が、履き慣れた靴のようにすっぽりハマっていた自分の偏見を取り払ってくれたような気がします。


ヒューマンライブラリーの課題

ここまでつらつらと当イベントの良かった点を中心に述べました。
最後に、ヒューマンライブラリー素人の自分から見て「今後この手法が発展していくために考えなきゃな〜」と思ったことを一つだけ挙げてシメにしたいと思います。

・ヒューマンライブラリーの参加をどう促すか問題

実際参加してみて、こんな長々としたレポートを書くぐらいにヒューマンライブラリーは面白かったです。
ただ、おそらく一般の人から見て知的好奇心、あるいは友人知人・親族の紹介以外でヒューマンライブラリーに自発的に参加する動機が無いのが現状。

こういう風に言ってしまうのは、一般の人にとってこの種のイベントに参加するアリガタミが足りないように見えるからです。いわゆるマイノリティの人々と対話してみて、それが「読者」の生活に何か役に立つか、というと正直答えるのが難しそう。

この手法を通じて偏見や差別を低減できる、ということは実感できました。実際に偏見や差別を受けている当事者や、マイノリティを抱えた組織(地域社会、企業など)からすれば、そうした低減効果は「意義あるものだ」とみなせるでしょう。低減効果によって両者とも、もっと楽に生活、あるいは運営ができるようになるはずです。
でも「読者」として想定される多くの一般大衆から見たらどうでしょうか。
これは個人的な考えですが、一般大衆から見て、自身の偏見や差別を低減できたとして、「so what?」という感じが否めません。当事者や組織と比べて、低減できた後の自身の明確なリターンに繋がらない。

抽象的ではありますが、いかに「読者」として参加する一般大衆に差別・偏見の意識を低減できた先のメリットを提供できるか、ということが、この課題を解く上での一つの方策かな、と考えました。


「元々小規模がウリなわけだし、興味がある人だけが参加すればいいんじゃないの?」という意見は甘んじて受け入れます。
ただ、ヒューマンライブラリーへの参加によって受けるインパクトはかなり大きいので、ぜひ様々な人に参加してみてほしい。そのためには何が必要なのか、ということを考えたくて、このような結論に至りました。

***

長々と書きましたが、総じて言えばヒューマンライブラリーはとても貴重な経験でした。自らの偏見や無知を揺れ動かすいい機会になり、参加して本当に良かったです。
このnoteがヒューマンライブラリーという取組みを知るきっかけになれば幸いです。



(図1の引用元)
関久美子, 岩森三千代, 池宮真由美, & 佐藤裕紀. (2019). ヒューマンライブラリーの実践と学生への教育効果: 多様性の理解を目指す試みとして. 新潟青陵大学短期大学部研究報告, 49(49), 25-41. https://n-seiryo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1921&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 

この記事が参加している募集

イベントレポ

ここまで読んでくださりありがとうございました。