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雨が嫌いな理由や「ねえ何の話?」って話をしながら、素揚げした夏野菜カレーを食べたい

梅雨が明けた。

前回、雨の日は学校も会社も休みがちだったし、友達との予定もキャンセルしがちだと書いたように、私は雨が嫌いだ。

「何で直ちゃんはそんなに雨が嫌いなの?」

と夫が聞く。

よくぞ聞いてくれた。
雨に対する思い出を遡りながら、例によって恨みつらみを吐き出させてもらうことにする。

一番最初に思い出すのは学生の頃。
雨でもどうしても学校に行かなくてはいけない時は、毎朝5時に出勤する父親の車になんとか同乗させてもらって学校の門まで送ってもらい、7時半の開門時間までひたすら傘を差して立っていたものだ。

雨の中じっと立っていること自体は、雨だというのに居心地のいい家を後にして、行きたくもない場所に行くということを一人で決断しなきゃいけないことよりは遥かに楽なことだった。
一人ではあまりに名残惜しくて家から出られないのだから。

開門されるまでの2時間の間何をしていたかというと、目をつむって片足で何秒立っていられるか検証してみたり、
いつか誰かにいきなり海に突き落とされるかもしれない時のことを想定して、息をどれだけ止めていられるか計ってみたり、
10秒ちょうどで目を開けることができたら別世界にワープしているかも、などと考えては実験したりしていた。

(毎回正味10分くらいでこれらの実験は全て終了して、残りの1時間50分はひたすらに立っているだけだった。ちなみに10秒ちょうどで目を開けると、別世界にワープはしていないものの少しだけ立ち位置がずれていたりして、まさか誰にも今の私の秘めた力を見られたりしていないよな、などと興奮したり心配したりしていた。今なら目を瞑ったことによるふらつきのせいだと分かる。)

ちなみに5時に登校する時期が冬だったりすると校門前で夜明けを体感することもあり、眠いし寒いしで「何やってんだろな、自分」などと思いつつも、朝日を浴びて

「うぉぉーー!生きてるって感じ!!」

などと心を燃やしたりする瞬間もあった。

アルバイト時代は、私が雨の日に休んだり遅刻したりする頻度が多いことを見抜いた店長に怒られ反省し、出勤時間帯が雨予報の時は降りだす前の早朝に出勤し、店舗のドアをガチャガチャしたことによりALSOKが発動したこともあった。
大事になったことを心から反省しお店を去った。

「ねぇ何の話?」という感じになってきた。
断言する。「何の話?」は終わりまで続く。

会社員になってからは雨の日でもなるべく出勤するようにしていたが、雨の日に出勤した日はランチビールを飲む、もしくは別日で代休を取るというマイルールを忠実に守っていた。そしてランチビールを飲んでいるところというのは大抵嫌な奴に目撃された上に上司に密告され、ひとしきり怒られていた。

これらのことを、私は全部雨(一部いけすかない密告者)のせいだと思っている。
(学生時代にいたっては、雨のせいどころか少し楽しんでる節があったことは自覚している)

そんなことを夫にぽつぽつと話していたら、そもそもの質問者である夫からの返事がない。

首を伸ばしてキッチンを覗いてみたところ、飲み終えたはずのデカビタの空きビンの中を覗き込んだり逆さにしてみたり、透かしてみたりしている夫の姿が見えた。
まだ中に入っているのか、それともやはり飲み干してしまって何も入っていないのかを確認しているようだ。

ビンを逆さに振っても何も出てこないということは間違いなく一滴残らず飲み干したことを意味しているはずなのに、それでも
「もしかしてまだ残っているかもしれない」
という一筋の希望を持たせてしまうデカビタのビンの重さの罪深さよ。

そんなことはどうでもいいのだった。

私 「ねぇ、聞いてる?」
夫 「あ、うん、聞いてるよ!でもちょっと待ってね」

ちょっと待たなきゃいけないほどのことはしていないはずだ。

私 「これ以上待たなきゃいけないなら、言うのをやめるよ」

夫からすれば言うのをやめてもらっても全く構わない話だということは十分に分かっている。しかし、こうなった私が今以上に面倒なことは100も承知の夫は言う。

夫 「えっ!そんなこと言わないでよ!大事な話の途中だったね、ごめんごめん」
私 「デカビタのビンよりは大事な話だと思うよ(そんなことはない)」
夫 「で、何だっけ。雨がどうしたんだっけ」
私 「雨は嫌いだっていう話だよ」
夫 「雨の日は家で何してたの?」
私 「いきなり強盗が入ってきた時のことを想定して、家で何分息を潜めてられるかを計ったりしていたよ」
夫 「雨でも晴れでも外でも家でも関係ないやん」
私 「りょうちゃんは雨と晴れどっちが好き?」
夫 「晴れだとシーツが良く乾くから、晴れかなぁ。でも畑の野菜が元気になるから雨もええね」

我ながら、どうでもいい会話をしているなと思う。
夫にいたってはなんだかとても爽やかな人みたいになっている。
そんなことはないし、こんなはずじゃなかった。

しかし、こんなにどうでもよい会話は夫が主夫になる前までや、私がフリーランスになった恐怖心からがむしゃらに仕事を引き受けていた時にはなされなかった会話だ。

それまでは、どうでも良くない会話ばかりをしていて、どうでもよい会話なんかは無駄なことに思っていたような気がする。

子どもの行事や、家や車に関する必要提出書類、支払物、双方の実家や、親しい人へのギフトやお返し、家族でのおでかけなど本来楽しむべきことにいたるまで

あれはどうする?これはどうする?あれはどうなった?これはどうなってる?終わった?やってる?次は?

全部がタスク化していて、家の中でも社内会議をしているようで疲れていた。
互いに抱えているタスクの進捗状況を報告しあい、忙しさと現在の疲労度をプレゼンし、分担という名の押し付け合いをし、明日も早いし喧嘩もしたくないからと、納得していないものの適度なところで妥協案を見つける。

休日は休日で、休日なんだしリラックスしなきゃ、楽しまなきゃ、子どもと遊ばなきゃ、仲良くしなきゃ、怒りたくない、など、楽しむこと一つに対しても疲れていた。

子育ては一大プロジェクトなどとも聞くしそういわれればそうだな、とも思うが、要領がいまいち悪い私にはプロジェクト化は合わなかったのだと思う。

子育てや家事の効率化や簡素化より願うことは、窒息することなく生きていきたい、それだけだ。

雨が嫌いな理由とか、デカビタがまだ残っているかいないかとか、こんな会話している場合か?な我が家の経済状況ではあるが、そんな会話が今日と明日を心地よくさせてくれているし、自然に呼吸ができているような気がする。

しかし、そうだ、こんな会話はこの辺にして
よし、梅雨も明けたし畑に行こう。
最近家族で手伝わせてもらっている畑の野菜がかわいくて仕方がない。

土を触り、いつも不思議に思う。
表面はカラッカラに乾いている固い土も、奥深くはいつも湿っている。

「土の中、気持ちいいね」と娘が言う。

私自身も、周りからはカラッカラに見えたとしても奥底はひんやりと気持ちよく湿っていたいな、などと思う。

「直ちゃんは、外見も内面も奥底も、湿っているよ、いい意味で」

と草むしり用のスコップを私に差し出しながら夫が言う。

雨も好きじゃないし、カンカン照りも好きじゃないし、曇りも好きじゃないし、「いい意味で」と言えば何でも許されるわけじゃないと思うが、まあいい。

結局最後まで、「ねぇ何の話?」だった。
とにかく今は、どうでもいい話をしながら、素揚げした夏野菜が沢山のってるカレーが食べたい。

おわり。


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