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夢なし病と夢の実草

「夢を差し上げます」
「ゆめ?」
 少女は持っていた植木鉢を窓辺に置くと、男に一粒の花の種を渡しました。
「私は花の国から来ました。これは夢の実草の種です。毎朝一度忘れないように水をあげて下さい。きれいな夢の花が咲くはずです」
「夢の実草?夢の花?君はいったい何を言ってるんだい?どうしてぼくにこれを…」
 あっけにとられている男をあとに、少女はそれだけ言うと、優しさに満ちた微笑みを残して去って行きました。
「花の国…夢の実草…夢の花…」
 それは不思議な出来事でした。男はまぼろしを見たのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。窓辺には確かに少女が持って来た植木鉢が置いてあります。それに男の手の中には小さな花の種が握りしめられているのです。
「この種におれの夢が入ってる?」
 そんなばかなと思いながらも、男は興味を持ちました。院長先生の言う通り、自分の病気が夢なし病だとすれば、この種を育てて、もし本当に夢の花が咲けば、命は助かるかも知れません。
「だめでもともとだ」
 男は思いました。どうせ一日中寝ているだけで、これといってすることはありません。
「よし、だまされたと思って、ひとつ育ててみてやろう」
 男は早速その小さな種を植木鉢の土に埋めると、コップの水を注ぎました。

「不思議だ…」
 何日か経って院長先生は首をひねりました。少しずつですが男の体が快方に向かっています。食欲も出て来ましたし、体重も増えました。それに何よりも男の瞳にはそれまでは見られなかった力強さがあるのです。しかし、その秘密が窓辺に置いてある植木鉢の中にあることに院長先生は気が付きませんでした。男はあの奇妙な少女の話を誰にも黙っていたのです。話しても信じてもらえるとは思いませんでしたし、それよりも本当に夢の花が咲いてから、
「これがぼくの夢です」
 と胸を張って話したいと思っていました。朝起きると何よりも先にまず植木鉢を覗き込みます。つやつやとした緑色の芽が昨日よりほんの少しだけ成長しています。男は静かにコップの水を植木鉢に注ぎながら、うっとりとした表情であれこれ想像を巡らすのが楽しみでした。夢の花とはいったいどんな花なのでしょうか。これまでいくら考えても決して見つけることのできなかった自分の夢とは、いったいどんな夢なのでしょうか。
「早く知りたい…」
 男は心からそう思いました。夢を持ち、希望に満ちた生活が送れるようになれば、どんなに素晴らしいでしょう。一か月が経ち、二か月が過ぎ、三か月になると、男の体は見違えるほど元気になりました。けれどまだ夢の花は咲きません。

 半年が過ぎ、一年が経つと、すっかり元気になった男は退院しましたが、退院しても男はアパートの窓辺に植木鉢を置いて、夢の実草の世話をし続けました。あんなに小さかった夢の実草の芽は、今では立派なひまわりほどの高さにまで成長していましたが、夢の花はまだ咲きません。男はいらいらし始めました。一年経っても花の咲かない植物なんて、この世にあるのでしょうか。初めからおかしな話だと思っていました。夢の花が咲くなんて奇妙な話をうっかり信じてしまった自分のことを笑いたいような気持でした。
「ええい!何だ、こんなもの!」
 ある日、とうとう男は腹立ちまぎれに植木鉢を床に叩きつけました。その瞬間に男の心臓はコトリと動きを止めました。勢いよく割れる植木鉢の音が、男がこの世で聞いた最後の音になりました。
「なぜ?」
 男は疑問に満ちた瞳を大きく見開いたまま仰向けに倒れています。そして次第にかすんでいく意識の中で、こなごなになった植木鉢の破片を悲しそうに拾い集めている少女の姿を見たような気がしました。
「夢の花はずっと咲き続けていたのに」
 あなたは気が付かなかったのね…と、そのとき少女はそうつぶやいていたのですが、男の耳は少女の声を聞く能力を失っていたのです。

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