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ととのえる「いけばな」という本を書きました。

本日、彩流社より拙著が発売されました。何がととのうのかをお話しします。

その前に。本書は簡単な章立てこそしてあるものの、話題は思考の寄り道に従い行ったり来たりを繰り返します。あしからずご了承ください。

その上で、ではいったい何がととのっていると言うのか。

花は生活になくてはならないものではありません。いや、あるに越したことはないのは間違いなく、実感の上でも確実に人生を豊かに彩ってくれています。

しかしやはり暮らしの於いては、衣食住足りてようよう目が向く趣向の類いであることに違いはありません。子供がお腹を空かせて待っているのに、晩のおかずとなる魚を買わず、食卓を彩る花を買って帰る人なんて、ほとんどいないでしょう。

そんな花ではありますが。いや、そんな花だからこそ、小さくとも確実に、自らを変えていくのに適した手段だ、存在だと考えているのです。

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先日、ともに自ら選んだ白磁のうつわに白い花をいけつつ、こんなことを言って、手を変えている生徒さんがいらっしゃいました。

わたしには大人っぽすぎるかな

うつわも花も、自らが気に入ったものを選んでもらってお稽古をしています。だからこそ、彼女の取り合わせには彼女の目指す方向性が暗に指し示されている、と言えるのです。しかし彼女はその道すがらで、自ら大人っぽすぎる、と方向転換をした。結果作り上げた一杯には、どこか満足の行っていない表情に感じました。

おそらく理想は口にした大人っぽい雰囲気にまとめたかったのでしょう。この点を指摘すると「相応に年いってるんですが」と苦笑いしてました。しかし、自らが選んだ取り合わせを前に、大人っぽいと躊躇う自らの幼さを自覚する何か心当たりがあったのではないだろうか。故にこの様な一言が突いて出たのではないか。

いいんです。花ですから。

多少は今、自覚する自分よりも大人っぽくったって、誰も見てやいやしませんて。自分がそれを眺めてニンマリできるのならば、それこそが正義と言いましょう。

衣食住は、ある種社会との関わり、接点が厚いところでもあり、ここを変えようと思うと相応にエネルギーを使うこととなります。Tシャツにデニム姿だった子が、久しく着てないワンピースやブラウスに袖を通そうものなら、おそらく友達から「え、何? イメチェン(死語ですか?)?」なんてツッコミに合うでしょう。なんだか気恥ずかしいし煩わしさすらおぼえたりする。

食にしても住居にしても、変えるとなると一大事、相応のツッコミを喰らうことは目に見えています。ところが花です。主だってはプライベート空間を彩る程度の存在です。自分の暮らしを豊かにしてくれる程度の存在です(謝辞)。

だからこそ、だったら部屋に飾るのは「大人っぽいかな?」ぐらいに感じる花や、これに限らず各々が望むベクトルの一歩先にあるイメージが具現化された花を選ぶことをオススメしたい。そうして自らの理想に己を馴染ませてくという算段です。

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花を飾ると部屋が綺麗になる。

なんて話を聞いたことはありませんか? 花を飾るためのスペースを作る。鑑賞するに当たって、花瓶を置く場所の周りを片付けるようになる。するとその飾った花があたかも水面に落ちた小石のごとく、きれいの波紋を起こして細波が広がるが如く部屋中に広がる。物理的に花を飾った場所を中心に部屋が綺麗になっていく(という意識が芽生える)。ということです。

同様に、少し大人っぽいかな、ぐらいの花を飾ることで、日常に触れることで、大人っぽいと思っていた存在がいつしか当たり前になり、自分の理想とする姿になじみやすくなる。こうして花を通じて日常にもたらされた大人っぽいの粒はやがて服装に、食に、住まいにまで影響を及ぼして、いつしか思い描く姿の自分としてととのっていく、という寸法です。(お終い)

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