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『オレたちのゲーム領域拡大』 飯田和敏・ロングインタビュー 「青春編」


「飯田和敏」-ゲーム・クリエイター/アート作家

kyoto2020.j-mediaarts.jp/event/

1968年11月26日産まれ。
東京都出身。多摩美術大学油画学科卒業。
大学卒業後、「アートディンク」に入社。退社後、インターネット・エクスポの松下パビリオンのコンテンツ『1996 ATLANTA』に参加。2001年に「予測が困難で多様性に富んだ舞台変化を楽しめるビデオゲーム機およびプログラム記憶媒体を提供する」、サンスクリット語からの「彼岸」から取った、有限会社「パーラム」を設立、その後、2003年に「バウロズ」に改名。取締役を務める。2010年から三年間、「グラスホッパー・マニフェクチュア」に所属。
東京工芸大学、デジタルハリウッド大学の勤務を経て、現在は立命館大学教授。文化庁メディア芸術祭のエンターテイメント部門の審査員を第17回(2013年)から第19回(2015年)まで務める。

【作品】
●『アクアノートの休日』(PlayStation)
●『太陽のしっぽ』(PlayStation)
●『巨人のドシン』(Nintendo 64 DD)
●『解放戦線 チビッコチビッコ大集合』(Nintendo 64 DD)
●『ディシプリン*太陽の帝国』(Nintendo Wii)
●『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 ーサウンドインパクトー』(PSP)
●『アナグラのうた 〜消えた博士と残された装置〜』
●『イージーダイバー』
●『KAKEXUN』
●『水没オシマイ都市』
●『モンケンクラッシャー』(Nintendo Switch)
●『スタジウム』

【寄稿/共著】
● 『ベストセラー本ゲーム化会議』浅野一哉・米光一成・共著(原書房・2002)
● 『日本文学ふいんき語り』浅野一哉・米光一成・共著(双葉社・2005)
● 『スピンドル式 鍛えない脳』浅野一哉・米光一成・共著(しょういん・2007)
● 『このアニメ映画はおもしろい!』川上大典・小張アキコ・須川亜紀子・武田かおる・大澤良喜・小中千昭・大井唱和・平田研也・共著(ポプラ社・2007)
● 『21世紀の定義 6巻 ゲームの世界』(岩波書店)


——まずは飯田さんの幼少期からお伺いしたいと思います。
1968年産まれですね。どんなお子さんでしたか?

 僕は東京産まれなんですね。阿佐ヶ谷で産まれました。ただ記憶はなくて産まれただけで、育ったのは町田ですね。それから北区の王子に、駅でいうと赤羽と王子の中間ですね。

——では、東京都内を転々となされた幼少期だったんですね。

 そうそう、それは両親の仕事の関係で。
 それで小学校二年生の時に千葉県船橋市で暮らすようになりました。

——その頃の原風景的なものはございますか?

 当時の船橋市は東京のベッドタウンとして、すごい速度で整備されていたんですね。父親の職場が東京都内だったので、まさにベッドタウンとして購入したんだと思います。
 ただ当時の船橋市はまだ整備をゴリゴリやっているところで、畑などが点在している。そこにトラックで土砂が大量に運ばれて、土砂で住宅化されていくという渦中だったので、原風景としてはそういうニュータウンとして完成しているのではなく、作られていくというところだったんですね。

——七十年代といえば高度経済成長期ですので、丁度ニュータウンが出来始めた頃ですね。まだ自然は残っていましたか?

 残っていました。僕が入った時はまだ区画は住宅地になると決まっていたけれど、工事の途中で『シムシティ』(1989・マクシス)みたいな感じでしたね。

——その頃から「街」が作られていくというのが原風景的にあったのでしょうね。

 「隙間」がまだあって、それを使ってよく遊んでいましたね。
 都市ではないですけど街の「隙間」をハックする感覚ですね。未完成なものの「隙間」を探っていくという。

——思い出深いことはありましたか?

 空想好きな子供だったんです。点々と空き地があって、ある区画はもろそうなんですね。畑があったものを土で埋めただけの空間で、荒野みたいな場所があったんです。そこで「ここは火星である」とするんです。
 『スタートレック』(1966〜)の影響だと思うんですけど、その謎の惑星を犬と一緒に探索するんです。犬が相棒でね。まだ用水路があったので結構危険な遊びもしていましたね。犬を抱いたまま用水路に飛び込むという、そこそこ元気な子供でした。

——(笑)。
当時から絵はお好きだったんですか?

 僕は祖父が画家だったので、その茨城県の家にはよく遊びに行ったんですね。一ヶ月泊まってくることもあって、楽しかったですよ。本や画集がたくさんあったんですね。版画家だったのでアトリエで色々な道具がありました。もちろん木を彫っていくので彫刻刀やノミや、馬簾という和紙を擦り込むもの、そして顔料もいっぱいありましたね。
 その空間の中で「シビれるわぁ!」みたいな子供でした。
 そして大量の画集をぱらぱら捲ると一日が終わる、という日々でした。

——芸術的な土壌はあったのかな、と思いました。

 だから画家になるんだろう、みたいな気持ちはあったんですよ。いずれね。

——お祖父様はプロレタリア芸術の方ですよね?

 そうですね。祖父は若い頃はプロレタリア芸術という、政治的思想と芸術運動の一体化にかなり前のめりになっていたと聴いたことがあるんですけれど、僕があった頃はそういった激しい主張というのはしてなくて、農村部の人々の暮らしを描いていました。必ず筑波山が描かれていたんですね。農家の人々がどういう風に生活しているのかという。
 ミレー(ジャン=フランソワ・ミレー・1814年〜1875年)とかの影響があったのだと思います。

——プロレタリア芸術というと、1920年から30年くらいまでの運動ですよね。

 当時、祖父は十代後半に東京に出て、活動をしていたということでした。その頃はまだミレーなどの影響ではなく、もっとリベラルな作品だったと思うんですけれども。

——プロレタリア芸術の絵画というと労働者の姿を描くような作品群が多いですが、それが生きていて、晩年に茨城の農民の労働者の姿に移っていった印象を覚えました。
飯田さんはプロレタリア芸術についてはどうお考えですか?

 集会とかのポスターなどに使われていく流れなので、ちょっとデザイン的だな、と割と冷ややかに……。カッコいいんだけれど、ファインアートというところから見ると、ポスターだからデザインによった印象で、そんな風に芸術というのは使うものではなかろう、という感じで、当時は子供ながら「芸術に政治を持ち込むな派」だったのかな(笑)。

——飯田さんの中で政治と芸術がいずれ結合する一点を見極めたいのですが、そこに原風景的なものがあるのかと考えていましたが意外ですね。

 当時は批判的に見ていましたね。プロパガンダに使われている芸術というのはよくないのではないかと、子供の時は思っていましたね。

——七十年代ですが、当時はまだ学生運動の名残とかは記憶にございましたか?

 そんなにはなかったんですけど、国鉄解体という時に電車の側面に「解体絶対阻止」みたいな字が描かれて、ストライキに突入したような風景は見ていましたね。
 千葉に移ったので三里塚が揉めていた時なので、学生運動というよりかは土地収用とか労働現場を守るという活動がありましたね。そこに学生たちがシンパシーを持つという。

——お祖父さまの時代はプロレタリア芸術連合やマヴォの時代で、小林多喜二(1903〜1933)が投獄されたりしました。芸術が「お上にやられる」というものがありました。
それと飯田さんが盛んに取り組む、あいちトリエンナーレ問題に何か関係はありますか?

 あると思います。忘れていたんですね。そういう風景というものを。その後、成長する中で、時代も変わっていくし、三里塚も終わっていくし、国鉄はJRになるし。だんだん時代がそういったものを忘却していくのと同じくして、僕自身も色々なことを忘れていく。

 当時はまだ年齢で言えば十歳から前だから本当に子供で、プロレタリアとか分からないですよね。ただ非合法だったので祖父からはあまり話は聞けなかったですね。
 ただ多喜二とは接点があったみたいですよ。投獄される二日前に手紙を渡したらしいですが、手紙の内容は秘密文章だったらしいです。

——ゲーム・クリエイションの前に、幼少期の原風景的なものが重要だと思われるので、何か他にも印象的なことを語って頂きたいです。

 千葉県に引っ越してきた時に、ほとんどがニュータウンの子供たちなんですね。そこにごく少数の昔から住んでいる地主の子供がいて、新住民と古からの住人との間に凄い温度差があったんですね。どちらが威張っているとかそういうのではないのですが。その中で東京からやってきたのでとても好奇な眼で見られました。

——一種のムラ社会的な経験をなされていたのですね?

 そうそう。排斥の眼差しというのを小学二年生くらいの時に感じて、いじめまではいかなかったけれど、からかいみたいなのをされて、「なんでコイツらにからかわれななきゃいけないのかなぁ」、みたいな反発を覚えて学校へ行かなくなったんです。からかわれることがあまりにも不条理だったんですね。行かなくなったのではなく、行けなくなったんです。朝起きて登校時間になるとお腹が痛くなったりしたんです。
 その頃はまだ不登校という言葉もなくて、何が起こっているのか自分でも分からなかったですね。

——当時はまだ「サボっている」と言われる社会構造ですよね。

 そうそう。全く不登校が認められていない。そんな中で一体原因はなんなのだろうということで、色々な病院で検査を受けて、最終的には脳波まで測っていましたね。「一体なんなんだ、これは? 自分はそんなに異常なんですか?」と思いました。小学二年生の脳波なんか測るかな(笑)。
 だからいまだに人間ドックとか行かないですね。データ化される身体がいやなんですね。

——そこにパラドックスを感じました。
ゲームはデータの芸術で、飯田さんはそこを超えていこうとなさるわけですが、0と1の世界に向かおうとしたのは何故ですか?

 その頃はまだコンピュータ・ゲームもないですからね。意識化されていませんね。
 ただムカつく。お前ら一体なんなんだ、と。
 ただその小学校時代の時は簡単にブレイクスルーがあって、あまりにもストレスが溜まりすぎて、ある時学校で大暴れしたんです。

——ドシンですね(笑)。

 そう。「お前らなんなんだ!」という意識がピークに達した時に暴れたんです。ずっと休んでいるわけにはいかないな、と子供ながらに思っていて、お昼くらいから行ってみたり色々なやり方を試みて、復帰の道を探っていたのだと思います。
 それで「また始まった」という時に、攻撃性というよりは自暴自棄で、とりあえず身の周りにあるものを一個一個人に向かって投げつけていったんですね。

——今の時代にはもう『巨人のドシン』があって、学校で嫌なことがあっても家で「飯田ゲー」をやって村を壊せば、その欲望が解決できるのですね。それが作家性に現れているのではないでしょうか?

 それは今気づきましたね。まさに赤いドシンみたいな感じですね。
 そのうち一個の椅子かなんかが放物線を描いて、ピューっと教室の中を飛んでいったのを覚えているんですよ。この投げたものは一体どうなるのかな、と自分の視点で見ていたんですけれど、そういう時に時間がスローモーションになるんです。激しく暴れながらも、この投げたものの先に窓があると分かる。窓をパリーンと割って、地上に落ちていったのを覚えていますね。
 その窓ガラスが割れるというのはまさに目に見えるし、音もするブレイクスルーですよね。
 大変心地よかったです。開放感がありました。
 意図的に破壊を行ったのは後にも先にもこの時だけです。
 これを機にからかわれたりするのが一切なくなったんですよ。

——それは「ガラスを壊す」という行為で全く別のものを破壊したんでしょうね。ガラスを割る瞬間のイメージはゲーム・クリエイションの物理エンジンの計算にも似ていますね。

 確かにそうだね。
 それでからかっていた奴らとも仲良くなって、コイツやべぇ、とか彼らの心理は分からないですけれども、居心地は良くなってそこからはもう元気な小学生になりましたね。
 それはいわゆる、番長がシメて天下を取る、というのとは違うんですよね。権力闘争ではなくて、何かをすることで周囲が変わっていくという体験ですよね。そして居心地が良くなる。

——一つのアクションでヒエラルキーの構築ではなくて、何かが波紋していく感覚を味わったんですね。それはゲームや映画の影響にも似ていますね。
当時から映画はお好きでしたか?

 小学生だからまだ観られない、映画館へ行けないですね。連れていってもらうことはあったけれど、自分の意思ではなかなか無理でしたね。

——最初にご覧になった映画は覚えていらっしゃいますか?

 母親が連れていってくれたディズニー映画の『ダンボ』(1941・ベン・シャープスティーン)ですね。
 映画といえば三歳か四歳くらいにテレビだったんですけれど、父親の膝の上で一緒に観た「キングギドラ」ですね。これは渋いと思ってシビれましたね。
 恐らくその日は日曜日で、午後の柔らかい日差しが差す状態で、しかも父親の膝の上という非常に子供にとっては最もチルした環境の中で、テレビ画面の中で悠然と「キングギドラ」が悠然と地上に降りてくる。それで首が三つですよ。ここ重要ですよ! これは最高の映像だな、と思っていましたね。
 父からは「キングギドラ」を与えられて、母からは『ダンボ』を与えられたんですね。

——幼少期の非常に重要なポイントは伺えた気がします。意外なルーツが見つかりました。

 ただこれは誰もが体験する子供時代のエピソードで、そんなに変わったものではないですね。いくつかのトピックが異なるだけで、多くの少年少女がこのように成長していくんじゃないかな、という気がします。
 典型的な郊外都市に住む子供ですね。
 当時の世相とか風俗でいうと、小学校は『コロコロコミック』を楽しみにしながら日々を乗り越えて、楽しくやっていたんです。

 それが、中学校に入ってから戦場に放り出されたんですね(笑)。
 校内暴力が社会問題になっていた頃で、悪い人たちがいっぱいたんですよ。小学校の頃はみんな良い子だったのが、みんなグレちゃって。僕はツッパリにはならなかったんですけれど、友達はかなりいて、校舎を出た裏のところに「今日は〇〇中のヤツが集まっているから気をつけろ」みたいなね。

——アウトサイダー的な存在への敬愛が常にありそうですが如何ですか?

 自分に向かってきたら怖いし、めんどくさいけど嫌いじゃないですよ。当時ちょっと憧れもあったりしたかな。でも、なりはしなかったんです。経済的に恵まれていたわけではないんですが、そこそこ育ちが良かったので。

 一番は祖父の存在があるんです。「暴力はやっぱダメなんだよ」みたいなこと言ってたのね。
 いくつかの政治的挫折の中から、「暴力はやっぱりダメだった」と。みんなの共感を得られないから、とにかく痛いし、怖いし。そんなことを餅を食べながら祖父が喋ってるのを聞いてたのもあって、僕はガラスを割るくらいで良いでしょう、と思ったんです。

——もう飯田さんの暴力の哲学は完成していたのでしょうね。

 そうですね。だからもう後はケンカとかに巻き込まれないように如何に避けるかとうテクニックですね。
 僕はそこそこずる賢さがあって、小学校の時に超仲の良かった友達のお父さんがヤクザだったんですね。家の神棚に刀があって、ドスですね。子供が悪さをすると抜くんですよ、真剣を。それで切りつけてくるんですよ。怖わー! と思って。
 それで、その友達が中学に入って戦場の中で、あっという間に中学校をシメるんですね。つまり番長になっちゃうんです。僕は小学校からの仲良しで、一緒に真剣から逃げた仲なので、その友情は変わらなかったんです。ツッパリたちが校内でカツアゲとかをやるわけですよ。イヤだなぁ、と思っていたんですけど、僕のところはスルーしてくれるんですね。

——「アイツ〇〇のツレだから」みたいな。

 まさに。すごく男気がある友達だったので、戦場の中で庇護されていたという。ありがたかったなぁ〜(笑)。
 でも、好きでしたね。だから側から見るのが好きで、集会とか見に行って、暴走族のステッカーとか集めていましたね。その頃やっぱり「ブラック・エンペラー」とかが全盛期だったので、夜中に成田へ向かって三百代のバイクと車が爆音で進んでいくというのは、見ていてカタルシスがありましたね。
 でもやっぱりイヤな側面もありました。シンナーを吸って死んじゃったとかもあるので、大好きにはならないけれども、やっぱりスカッとする側面はあった。

——そしていよいよ1978年ですね。
飯田さんが十歳の時です。
同時に日本の大きな文化的な転換期と置く年です。
『スペースインベーダー』(1978・タイトー)
『スター・ウォーズ』(1977・ジョージ・ルーカス)
「パンク・ロック」
この三つの同時多発的に起きた社会現象です。
そしてそれは飯田さんにとって二度目のブレイクスルーです。

——まずは『スペースインベーダー』からお願いします。
1972年の基体発表で1976年にアタリ社の家庭用ゲーム機に移植された『PONG』。そこから、松谷浅草等のアミューズメント産業を経ていきます。
その先に登場したのが1978年の、西角友宏さんの『スペースインベーダー』です。株式会社「タイトー」によって開発された日本初の国産アーケードゲームで、同時期に同種のアミューズメント産業の開発を行っていた「アタリ」社よりも先に日米を席巻し、後に日本がゲーム産業の先駆者となる社会現象を巻き起こすことなります。
「ナムコ」の『ギャラクシアン』(1979)、『ギャラガ』(1981)、『ギャプラス』(1984)に正当進化をしていくことにもなります。

(TAITO)

 僕は『スペースインベーダー』の前に『2001年宇宙の旅』(1968・スタンリー・キューブリック)を観ていたんですよ。
 僕の住んでいた船橋に日大と順天堂大学という二つのキャンパスがあって、文化祭とかがあって映画を上映したり、いろんな出し物があって、そこでわけ分からないな、と思いながらも『2001年宇宙の旅』を観ていたんですね。
 分からないながらも、やっぱり「モノリス」という神秘的な存在は、あの映画を観ればみんなが印象に残るじゃないですか。

(2001 a space odyssey)

 それが『スペースインベーダー』がアップライト筐体だったので、「これがモノリスなんだ!」と思って、これは進化が促されるアイテムなので「来た!」ということですね。とはいえ「モノリス」はSF映画だし本当にあるとは思っていなかった。それがまさにあったんですね。

——最初にどこでプレイなされたんですか?

 最初は駄菓子屋です。それが面白くて「カドヤ」という店だったんですけれど、何かすごいものが現れたというのが街のウワサになって、「そんなの見に行くしかないじゃん!」となったんですね。
 行ってみたら「モノリス」だったから、「うわぁ!」となりましたね。コンピュータ・ゲームというのがなかったからね。
 エレメカ(エレクトロメカニカルマシン)みたいなデパートの屋上にあったんです。半分メカニックのものです。ネズミ撃ったり、レースで運転するハンドルが車に直結していて、道路がデジタル的なものではなくカーテンのように景色がスクロールしていくという。そういう遊びはあった。
 後、ピンボールとかはあったね。

——村上春樹さんが『1973年のピンボール』(1980)も抽象的なモチーフとして書いていますし、中沢新一さんが『シャングリラ』(1967・Shangri-La)の内包する神話性を論じていますが、それがどこかキッチュでありながらモダンな形の「デウス・エクス・マキナ」のようなものが『スペースインベーダー』なような気もします。

 そう、しかもコンパクトにね。
 当時、僕は背の高さがなくてピンボールは出来なかったんです。
 暴走族にしてもピンボールにしても、「ヘルス・エンジェルス」の日本版のコピーだし、アメリカのアミューズメントでしょ。
 『スペースインベーダー』は『PONG』の影響はあったにせよソフト面では大発明だったわけで、アメリカのカルチャーの模倣をしていた日本の工業製品のクリエイティビティが非常に高まった時代なのかな。LSIですよね。

——面白い点はその機械化産業の発展の中心が、喫茶店に還元された点です。ここは中川大地さんが指摘されていますが、喫茶店文化は左翼とかベトナム反戦運動の拠点の人々が中心で育まれました。

 興味深いですよね。ヒッピー文化ですね。
 最初はアップライト筐体で「モノリス」のように現れたんだけれど、テーブル筐体に移行していく中で喫茶店に吸収されて、その時はもう左翼もヒッピーもいないですよね。
 その代わり喫茶店にタムロしていたのは不良ですよ。ツッパリたちね。めちゃめちゃ怖いですよ、その時の不良は。だから不良の溜まり場に行くことは非常に危険だったけど、でもゲームしたいから頑張って行ったんですね。何かあったらすぐに逃げようということでね。マジで隅のほうでシンナー吸っている人とかいたからね。
 あれはもうオレたちの『スタンド・バイ・ミー』(1986・ロブ・ライナー)だよね(笑)。

——ここまでで一本物語が出来そうですね(笑)。
ちなみに住み分けはあったのですか? サラリーマンは喫茶店で、不良はゲームセンターなどといったテリトリー意識です。『スペースインベーダー』を機にゲームが大衆化した転機ですので。

 多分、ゲーセンに固定化された時点で風営法管轄になって、「インベーダーハウス」という風に喫茶店の看板を下ろしたと思うんです。
 だからゲームセンターという新しいスペースが誕生したんじゃないかな、と思います。

——『スペースインベーダー』が、ゲームセンターという新しいテリトリーを作ってしまったんですね。

 まさにそうですね。そこが風営法管轄になっちゃったことは、不幸なことではありますがね。

——飯田さんはどんなプレイをなされていましたか?

 僕は百円がなかったので一生懸命見て覚えて、脳の中でプレイするというスタイルでした。だから自分でプレイしたのは数回しかなかったですね。

——『ポケットモンスター』(1996・ポケモン)の田尻智さんは、マイコン・ブームと重なるので、自分でプログラミングなさったそうです。
田尻さんとはおいくつ離れていますか?

https://www.famitsu.com/news/202202/27252242.html

 田尻さんのほうがお兄さんだから、三歳違い!
 ここの三歳というのは違いはデカいですよ。十三歳と十歳だから。

——田尻さんとは違い、飯田さんは脳内シミュレーションに行ったわけですね。

 そうそう、うちにはマイコンがなかったからね。十歳の時点ではマイコンには触れてなかったですね。

——『スペースインベーダー』の一つの側面として、「ナゴヤ撃ち」などといったゲームへの破壊的挑戦という意味ではハック感覚がありますね。

 攻略法だよね。それは『コロコロコミック』の「ゲームセンターあらし」経由で知ったんですよね。そこで数々の攻略法を知って、それが『ファミ通』(ファミコン通信)じゃなかったのも興味深いですね。
 それで僕のうちにはマイコンがなかったので「自作インベーダー」で、窓に貼って絵を動かして、早すぎたWindowsですね。

——(笑)。

 そういう遊び方は『シムシティ』的な風景の中の、何にもないところで想像力を使って遊ばなければならないということで鍛えられたハックの仕方ですね。

——ここまでで飯田さんにランドスケープ感があることが分かってきました。

 あるね。まぁ『スペースインベーダー』はこんなもんで、そこからゲームセンターへ通って、誰かがプレイするのを見てました。自分ではあんまり遊ばなかったけれどね。

——では次に『スター・ウォーズ』のお話をお願いします。
アメリカの『ルーカス・アーツ』制作のSF映画です。米国では1977年に劇場公開された。日本公開は翌年の78年になりました。
シリーズ全九作中の最初の作品で「オリジナル・トロジー」と称されるものの第一作目で、監督はジョージ・ルーカス。当時33歳の時の作品です。

https://igcn.hateblo.jp/entry/2015/12/20/183123

 『スター・ウォーズ』は、子供だけで初めて映画を見に行くという体験でした。

——それも『スタンド・バイ・ミー』的ですね。

 ねぇ、しかも有楽町の日劇で観ました。大きなスクリーンで。

——高橋ヨシキさんによると、ジョージ・ルーカスはレーサー志望で、もともとジョーダン・ベルソンなんかが好きだったそうで、実験映画畑の作家なんです。『TX-1138』(1971)の作者ですから、飯田さんがどのようなご感想を持たれたのか気になります。

 僕は作品そのものじゃないんですね。
 暑い夏の日だったんだけれども、日本で公開されたくらいに、『スターログ』っていうSF雑誌があって、よく図書館で読んでたんですね。図書館で映画の本を読むのが好きだったんですよ。
 『キネマ旬報』とかもあって、ピンク映画の寸評が載ってたんです。そのスチール写真を見るのが、非常に子供ではあったけれどもたまらなかったですね。

——当時はまだ「日活ロマンポルノ」ですよね。

 そうそう、ピンク映画は観ていないですけど、『キネ旬』経由でスチールを超見まくっていて、いいなぁ、これ、って感じで(笑)。
 その一環で『スターログ』も読んでいて、「『スター・ウォーズ』っていうすごいのがあるぞ」ということで、実際にアメリカに行って観てきた人のレポートとか掲載されていて、多分一年かけてパブリシティが行われていたんです。

——日本では丁度『宇宙戦艦ヤマト』(1974)から始まるSFブームですね。

 宇宙SFブームですね。同時にアニメブームです。
 『宇宙戦士ガンダム』(1979)も観ていた。「ファースト」をテレビで観ていて、その後劇場版一作目(1981)、『機動戦士ガンダムⅡ 哀戦士編』(1981)、『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』(1982)……。
 これらは別腹で観ていましたね。ほとんど初日に観に行ってたもん。『哀・戦士』とかは歌もいいですしね。

——『宇宙戦艦ヤマト』とかはあの当時にしては、ちょっとすごいですよね。死を美化しているというか(笑)。

 『ヤマト』は狂っていましたね。
 だから、歴史修正はそこから始まっているのかもしれませんね。日本が敗戦から立ち直っていく中で『宇宙戦艦ヤマト』という歴史修正を行ったことで、ようやく敗戦を受け入れることができたのかもしれないです。
 『ガンダム』は触れてもいいんだけれど、横道にそれちゃうかもしれない(笑)。
 でも、それだけ豊かな時代だったんだよね。

——『あしたのジョー』(1970)、『ルパン三世』(1971)もその頃ですね。

 もちろん『未来少年コナン』(1978)もテレビでやっていましたし、なんて豊かな時代なんだろうね。
 だって今なんかいつまで待っても『新世紀ヱヴァンゲリヲン』(1995)の新作やらないし。(インタビュー後『シン・ヱヴァンゲリヲン』公開)

——でも飯田さんは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版 ーサウンドインパクトー』を作ってらっしゃるから。一応……大好きです。

 ありがとうございます。「クソゲー大賞」二位になりましたけれど。

——何故ですかね。『ヱヴァ』ファンから叩かれたんですか?

 叩かれましたね。「音ゲー」ファンと『ヱヴァ』ファンの両方から叩かれたんです。でもね、買ってない人が叩くんです。動画だけ観てね。「使い回しじゃねーか」って言われたんですけど、あれ結構な割合、書き下ろしてもらってますからね。
 後、すしおさんというイラストレーターに、書き下ろしのイラストをいっぱいお願いしています。でもオタクの深度が超浅くなっていて、そりゃ「すしおさんを引っ張ってきたならすごいじゃん!」ってなるはずなんだけれど、「なにこの同人作家は?」みたいな反応でしたね。

——オタク第一世代の深度はすごいですからね。『ゼビウス』(1983)の遠藤雅伸さんにしてもそうですが。

 あれは相当ですねぇ、あれって言っちゃった(笑)。あの方は……。
 後、岡田斗司夫の腰のフリ方とかもね。サヴァイヴしようとして、結局自滅していったという……。あんな人も含めてね、みんなすごい所、あるある。
 それだけ豊かな時代だったんですよ。

——映画やアニメといったサブカルチャーというのが一般化していった時代ですね。

 それで、この文脈における『スター・ウォーズ』の重要性は、ルーカスは神話の復権を試みたわけですね。
 『ガンダム』と『スター・ウォーズ』の大きな違いは、前者が「戦記モノ」をなぞっていて、後半にニューエイジが入ってくるんだけれど、これは危険な罠で、社会のモンスターを産み出す装置になってしまった部分があると思うんです。
 つまり神話なきSFの危険性ですよね。『スター・ウォーズ』が良かったのは、そこはきちんと、ゲイリー・カーツがやっている。
 それで『スターログ』で一年間おあずけだったものがやっと観られる。もうみんながしっかりレビューしていたから確認みたいになっていて、観てみて衝撃があったかというわけではなかったんですね。それでも心躍るシーンはあって、「デス・スター」の食堂に入りこんで、ピュンピュンやりながら爆弾を落とすところなんかは、すごい臨場感なんですね。

——現在観ても古びない映画ですからね。ただ残念なことに今はルーカスはもう「劇場公開版」は観られない状態にしています。

 なんで!?

——高橋ヨシキさんによると、ルーカスは映像が古びるのが嫌で、技術革新でどんどんアップデートしていくんです。だからビデオ版でも既に修正が入っていて、飯田さんがご覧になったのはもう観られないんです。

 うわ、まぼろしだ。
 それもまた、一つの神話的なあり方かもしれませんね。

——次に「パンク・ロック」をお願いします。
ロンドンにおけるパンク・シーンは1976年頃から始まり、進化しすぎたプログレッシブ・ロックやハードロックへのカウンターで、より攻撃性、反社会性が強調された音楽です。代表的なバンドは「セックス・ピストルズ」、「クラッシュ」、「ダムド」。比較的短命なムーブメントですが、DIY(Do it yourself)などの重要な思想を生み出ました。
「セックス・ピストルズ」はニューエイジの先駆的なバンドで、活動期間は1975から78年。代表的なメンバーにジョニー・ロットン、スティーヴ・ジョーンンズ、ポール・クック、グレン・マトロック、シド・ヴィシャス。アルバムは1987年の『勝手にしやがれ!!』のみです。

(「セックス・ピストルズ」・Wikipedia)

 ある日、僕にラジオで「パンク・ロック」という新しいムーブメントに注目しろ、と坂本春の兄貴が語りかけてきたんですよ。坂本龍一もNHKのFMでパンクより後の「パブリック・イメージ・リミテッド」とかをラジオでかけていたかな。後は『rockin’on』の創始者の渋谷陽一ですね。彼らがラジオで新しい音楽を紹介していた。

——飯田さんはどのパンク・バンドから触れられましたか?

 僕は佐野元春が「セックス・ピストルズ」をラジオで紹介していたのを最初に聴きましたね。
 ただ僕自身がものすごく触発をされたのは、石井聰互監督の『狂い咲きサンダーロード』(1980)と『爆裂都市/ BURST CITY』(1982)の二本の映画なんですね。

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 これを高校生の時に観て、とにかくカーッとなったんですよ。これはマズい。当時の石井さん、ブッとんでたでしょ? それで自分もなんかやんなきゃ! という想いが産まれたんです。バンドも始めました。

——バンドをやっていらっしゃったのは存じ上げていなかったです。

 僕のバンドは後に大槻ケンジさんの『グミ・チョコレート・パイン』(1993)の中で、紹介されることになるんです。あれはエッセー古文書だから。八十年代に変な名前のパンク・バンドがいっぱいあったよね、という話の中で紹介されているんですよ。色々なバンドがあったという文脈で千葉にはこんなものがあって異様だった、と。

——では、やはり日本のパンク・シーンもお好きだったんですか?

 「新宿LOFT」とかにはよく通っていましたね。
 『サンダーロード』と『BURST CITY』かに出てくるバンドって、ほんとにあるので観に行っていました。行ってみて、あっほんとだ! と思って。
 陣内孝則さんはその後すぐにメジャーな役者さんになっちゃたからバンドはやってなかったけれど、「スターリン」の後半の時期ですね。「スターリン」は生では行けなかったんだけれど、「ザ・ルースターズ」は観られたな。

 それでね、3.11以降の福島のフェスで、遠藤ミチロウさんとも会っているんですよ。あんなに巨大だった存在が「ライター貸してくれませんか?」って。「いいよ」みたいな。どういうパイセンなんだ? 豚投げてたじゃん! そんな人が、ライターを借りにくるという(笑)。
 そこには坂本龍一さんもいたし、大友良英さん、遠藤賢司さん、「渋さ知らズ」、「BOYS」の皆さんもいるという。

——3.11が様々な錚々たるミュージシャンを立ち上がらせ、繋ぎましたね。
そんな中、飯田さんはパンクから出てきたDIYの精神が、不良文化と結びついていますよね。アゲインストや若者が立ち上がる文化がお好きで、ご自身も活動的だったのがより濃厚に見えてきますね。

 だから歌舞伎とかなんにも感じないですよ。ここで歌舞伎disをしてもしょうがないんだけれども。1ミリも良いと思ったことがないですね。でも、日本の伝統文化と不良文化は親和性がありますけどね。

——三つの文化に共通しているのは『スペースインベーダー』は大人が作りましたが、それを不良や大衆が消費し、『スター・ウォーズ』というのは若手監督のルーカスが神話を創造し、「パンク・ロック」は若者の反体制ですね。

 それをさらに僕の中で後押ししたのが石井監督でしたね。

——ここまでで『スペースインベーダー』とヤンキー文化、『スター・ウォーズ』のSF的神話、「パンク・ロック」などが、飯田さんの反骨性の精神との親和性がよく伺えたと思います。

 そうですね。やはり振り返るとこの三つですね。これは大体同じ頃に起こった出来事なんですね。
 だから、個人史的にも、日本文化史的にも1978年を起点に重要視するのですね。

——では、ゲームセンター文化の最も華やいだ1983年のさんの『ゼビウス』についてお願いします。
ナムコから発売されたアーケード型のシューティング・ゲームで、「プレイするたびに謎が深まる!〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」とうキャッチコピーで発売されました。
「西暦2000年に超知能生体ガンプに操られたゼビウス軍……」といった当時としては画期的だったSF神話的ストーリー性のあるバックグラウンドもゲームが内包していましたし、森林、平原、海洋、砂漠というような多彩なドット絵の風景を、トップビュー式の背景画面がスクロールする中で、戦闘機ソルバウルを操作して、敵組織「ガンプ」が操るゼビウス軍の空中部隊を対空兵器ザッパーで撃破するというのも斬新でした。

https://middle-edge.jp/articles/I0002001

 『ゼビウス』の前に話すと、僕は『サンダーロード』と『BURST CITY』の二本で完全にやられちゃって、高校一年生の時は普通に登校していたんですけど、行かなくなちゃうんですよ(笑)。
 その時に大井町に「大井武蔵野館」という名画座があって、一階が邦画三本立てなんですね。二階が洋画三本立て。千葉から必ずそこに行っていたんです。

——その当時ご覧になった映画はなんですか?

 「大井武蔵野館」は『江戸川乱歩全集・恐怖奇形人間』(1969)は必ずかけていて、ちょっとお祭りでしたね。いわゆる、封印映画とかです。「石井輝男週間」とかやってたな。三本立てで毎日洋画と邦画とやっているので、あらゆる映画がかかっていましたね。
 高校二年から三年まではそこで勉強していました。映画の勉強というよりは、人生の勉強をしていましたね(笑)。

——寺山修司とかもやっていましたか?

 やってた、やってた。
 『書を捨てよ、街へ出よ』(1971)とか『田園に死す』(1974)とかね。後は『さらば方舟』(1982)ね。寺山修司は衝撃だったなぁ。日本のアンディ・ウォーホルですからね。
 もうラインナップ的には『映画秘宝』ですよ、完全に。毎日が「秘宝まつり」をやっていた。それはさ、もう高校とか行ってられないじゃないですか。
 でもゴタゴタ言われるものは全部観たよ。ゴダールとかフェリーニとかシネフィルたちが言うのは、ウルせぇ! って言いながら(笑)。

 でもやっとそこで田尻さんに追いついたかも。田尻さんといえば映画マニアでもあって、『フリークス』(1932・トッド・ブラウニング)という当時から伝説の作品がありまして、それを日本で一番観ていた青年なんですよ。自主上映とかに足蹴に通って、繰り返し何度も観ていた。同時に田尻さんの好きな映画は『ピンク・フラミンゴ』(1972・ジョン・ウォーターズ)ですね。
 田尻さんが『ポケモン』の後成功して、『ピンク・フラミンゴ』の何度目かの上映の時にパンフレットに寄稿しているんですよ。それが喜びに満ちた名文で。田尻さんってやっぱりずっと田尻さんだったな! って。良かったな。ブレてない。
 これは田尻さんの本でも言及されているけれど、「ゲームフリークス」は、トッド・ブラウニングの『フリークス』から取ったという話をしていますね。

(『フリークス』・Wikipedia)

——「フリークス」という言葉を日本で一般化したのは田尻さんなんじゃないですか?

 そうですよ。今でこそ『ポケモン』大好き! って公言して憚らないオタクたちがいるけれど、「君たち『フリークス』という映画を知っているかね?」というと誰も知らないですよ。この体系を拒否する感じとかキツイなぁ。

——『ポケモン』と『フリークス』を関係付けて論じる人はいないですからね。

 頼みますよ! ただこの言及は地下出版でしか許されないよ。オフィシャルには多分出せないよ。田尻さんは『ポケモン』でわいわいやっているわけだから、そこ触れないで欲しいって(笑)。

——(笑)。
田尻さんといえば、伝説のミニコミ誌「ゲームフリーク」もそうですが、当時は『ゼビウス1000万点の解法』などですね。

https://pbs.twimg.com/media/FLSOu4CaMAADotQ.jpg

 コピー本ね。あれはねぇ、僕はコピーのコピーみたいな、めっちゃ劣化したバージョンを持ってました。誰かから回ってきたから出所は不明だけど。ただ僕が入手したのは桁が一つか二つ違っていたかもしれない(笑)。
 でもさ、その種のコピーのコピーで手に入るってのは、例えば『蟹工船』(1929・小林多喜二)がそういう本だったわけじゃない。七十年代でいえば『腹腹時計』という爆弾製造の本があって、僕は現物は見たことがないけどそれですよ。
 めちゃめちゃ面白くなってきたね。裏ゲーム史だよ。

https://aucview.com/yahoo/o466907282/

——面白いですね! カルチャーへの触れ方が現代とは全然異なります。

 だから人生が図書館と映画館とゲームセンターで全部学べちゃうという。
 それで朝、大井町まで行くでしょ。僕は高校が松戸だったんですよ。船橋から松戸まですごい遠いのに、できるだけ遠いところがいいな、と思って、地域の進学校のズバ抜けて進学率が高いセカンドのところだったの。偏差値の一番高いところではなくて、二番目の学校ね。入学した時には成績が上から三番目以内だと言われていたんだけれど、ただ途中から映画館に通うようになって最後はドンケツですよね。よく卒業できたなって。

——あるあるですよね。一回ドロップアウトして見えてくるものは。

 それが大学の時の人もいるし、社会人の時の人もいるし、大切ですよね。
 それが僕は石井聰互監督の二本の映画によって始まってしまったということですね。
 ただ出席はしておけ、という話だったの。元気かどうか顔だけは見せればいい、というおおらかな時代でもあって、三本観終わって高校に行くんですよ。大半の学生はいないんだけれど、教員にあいさつをして「今日もお元気そうで何よりです」といった言った感じで、それで出席にしてくれたという。高校でタイムカード押してその後、「じゃあ行くか!」といってゲームセンターに行くんですよ。当時はまだ新風営法前だから二十四時間やっているから、全然大丈夫だという。
 だから映画は名画座だから過去のものを学ぶということですね。それでゲームセンターで最新のコンテンツを学ぶということです。

 ゲーセンはまだ不良たちの場所でもあって、彼らがやってくれた良いことというのは「ゲーセンフリー」にしたんですよ。つまり古典的な技でいえば釣り糸に五円玉をっていう……。コインが入ったのを誤認識させるというものですね。それが禁じられてからは、ライターを使って電子回路に直接刺激をブッこむという。その辺を不良たちがやっておいてくれたおかげで、お金がなくても朝までやれた。

——不良による一種のハッカー・マインドですよね。

 そうだね。その時は不良がそういうことをしてくれたからこっちも、「ありがとう」という感謝の気持ちと恐怖の気持ちが両方あって、日々通ってるとやっぱり仲間になっちゃうんですよね。「また来たの?」みたいな感じで。
 でも先方のパイセン方々はだいぶシンナーでイっちゃってるので、妄想がすごいんですよ。「オレはこの街が誕生した時から住んでる」……。何歳だよ!(笑)。「へぇ、そうなんですね」って言いながら付き合ったりしている。なんか楽しかったですね。

 だから『ゆきゆきて、神軍』(1987・原一夫)を観た時、「あっ、パイセンたちここにいるじゃん!」って(笑)。奥崎なんだ。
 だから奥崎謙三はパプアニューギニアで頭がやられちゃった人だけれど……。まぁいいか、その話は……。

——やめておきましょう。奥崎謙三さんに触れるのは(笑)。

 そうだね。でも今年生誕百年ですからね。今百歳ですよ。奥崎はまだ生きてるからね。死んでるけど、生きてるから!(笑)
 今年(2020)が奥崎が産まれてから百年なので、今劇場で何度目かの『ゆきゆきて、神軍』のリバイバルやってますよ。

——奥崎の没年は2005年だそうです。でも生きている感じがしますよね。

 あるよ! パワーが! フィルムに宿った気配が生きているパワーを醸し出しているよね。

——石井輝男監督とか自分の中では生きていますもの。

 生きてる、生きてる。大島渚監督も。なんなら手塚治虫先生も描いてるよ。

——『週間少年マガジン』で連載しています。

 『チャンピオン』じゃなくて?(笑)
 そう、だから一部では、今もまだ昭和のあの頃の精神は続いているっていう。
 それで、日本型の「阿片窟」がゲーセンだったんですね。「阿片窟」というのはもちろん比喩表現で、名画座、古本屋、名画座みたいな仄暗い所にこびりついている空間に惹かれるんです。というよりかは、そういうところで自分を保っていたのかな。

 だいぶイカれている人たちがずっと、朝から晩までいるわけ。何をするわけでもなくね。そこで僕に説教とかするわけですよ。
 僕がゲームをやろうとして財布を出すと、「おい、待て!」と言われるんですよ、ヤバい! と思うと、「オレに任せとけ」ってパチッパチッとかよく分かんないことやって、「ほらどうだ、いいからやれよ」。ありがとうございます、みたいなね。だからドスを持って追いかけられてたところから、常にヤンキーの庇護の元に生きてきたという(笑)。

——やはり不良やカウンター・カルチャーとの親和性は感じますね(笑)。

 あるよね。それで、阿片窟に通う日々でパイセンが、「お前、新しいのあるからやってく?」みたいな感じ勧めてくる。「あんたの店じゃないだろ!」みたいに思いながら頷いてね(笑)。だから「ナムコ」からの誘いがずっとあったんですね。

 それでいよいよ『ゼビウス』の話になるのだけれど、プレイしたら、「バキュラ」という「モノリス」があったんですよ。『ゼビウス』の中に出てくる絶対に倒せない障害物ですよね。鉄の板が回転してこっちにやってくるのだけれど、それが古文書によると完全に「モノリス」なんですよね。
 僕にとっての『ゼビウス』は再び「モノリス」に出会ってしまったことなんですよ。『スペースインベーダー』で体験した、これが本物か! と思った感覚が、まさか「阿片窟」で再び出会い直すとは思っていなかったのでびっくりしましたね。
 だから僕が『ゼビウス』と出会った時は映画特訓も受けていたし、パンク・バンドも自分でやってソノシートとかも出していたし……。

 その上で『ゼビウス』について語りにくいよね。個人史としては「モノリス」をそこで見た、ということに尽きるんですよ。そこからは中沢新一さんとか細野晴臣さんとかが、それぞれのフィールドで言及しているから、そうだよね、っていう話になっちゃうので。ただ過去にやったゲームの中で最も時間を費やしたものではあるんですね。
 ゲーセンでもうこのまま『ゼビウス』になっちゃてもいいな、みたいなトロけ方をして、スコアを高めるために一生懸命にならなくてもいいな、みたいな気もしていて、ただもう無限にスクロールしていればいいという感じなんですね。

——中沢新一さんによって神話的考察や、細野晴臣さんによって音楽的考察は行われていますが、芸術的側面では如何ですか? ドット絵が極まっていた印象もあります。

 超写実的でびっくりしましたね。絵画絵的な側面のドット絵の頂点ですよね。
 なんと言ってもナスカの地上絵をやっちゃてるから、それに尽きるかな。絵画の歴史といった時に地上絵というのは無視されるじゃない。意味が分からないから。ラスコー洞窟の壁画が絵画の原点とされていますけれど、ナスカの地上絵を触れる人はほとんどいないという。

——宗教と芸術の誕生といえばラスコー壁画というのが人類学的な見地ですが、ナスカの地上絵には触れていないですね。

 そうだよね(笑)。洞窟の落書きの絵に起源を求めなくてもいいんじゃないかなと思うんですね。「横見てくれよ! こっちは?」みたいな。それは残念ながら『月刊ムー』とかでは特集されますけど、『美術手帖』が「ナスカの地上絵特集」とかやんなきゃダメだよ。でもナスカの地上絵をしっかり評価したのは『ゼビウス』なんですよ。
 ナスカとう神話を『ゼビウス』という神話が内包していく形ですね。

——ここまでの『ゼビウス』のご感想からも分かる通り、飯田さんのゲームは文明史的論評では文脈を間違えていて、PlayStationのハードのブランドイメージ作りのアート性の作品ではない。『ゼビウス』そのものを、飯野賢治さんの仰るような『Dの食卓』(1995)の作家性の強調から読まなければならない。

https://wired.jp/2013/02/22/kenji-eno-obituary/

 飯野さん……。
 でも飯野さんは埼玉出身で僕は千葉出身だから、その時点でバチバチですよ。独特のテリトリー意識ですね。どっちでもいいじゃん、ってことだと思いますけど。
 飯野さんは「YMO」大好きで、僕は「スターリン」で。

——飯田さんは「Squarepusher」や「Warp Records」系のアーティストがお好きなので、細野晴臣さんが『ゼビウス』を転機に『ビデオ・ゲーム・ミュージック』も発表なされているので、1978年デビューの「YMO」もお好きなのかと思っていました。

 僕はそんなに「YMO」には思い入れがないんですね。と言いながらも散会の時の映画とかは観に行ってますけどね。「はっぴいえんど」は大好きですよ。
 飯野さんとはそこが全然違う。飯野さんは「THE BEATLS」だし、僕はパンクだから、お互いダセェな、みたいな。埼玉の人って「YMO」だよね、みたいな感じの嫌味のdisの応酬がありました。
 だから僕はあんまり評価されていない、再生してからの「YMO」は結構好きなんですよ。つまり同じテクノなんだけれども、ダンスミュージックとしての側面を強調してリブートされたものは好きですね。

——遠藤さんとのご関係はありますか?

 折に触れてお会いするようになったんですけれど、やたら僕に絡んでくるんですよね。だからあんまり会いたくない人No.1なんですけれど、ジャレあっている感じです。
 でもあの絡み方は阿片窟の人ですよ! だから「オレは阿片窟から一歩も出てないな」と。ずっとパイセン方がいるんですよ。それが時には遠藤さんとして現れるという。そんなにしょっちゅう会うわけじゃないんだけど、五年に一度くらい「またヤツが来た!」みたいな(笑)。

 遠藤さんと飯野さんもすごい仲が良かったんですよ。どういう会話をしていたのかは分からないんだけれど、二人ともピアノを弾くんだよね。ピアノ仲間なんだよなぁ……。「どこまでいった?」、「オレもうグレングールド」、「流石ですね」みたいな。
 
——(笑)。
飯野さんのご関係のゲーム・クリエイターはどんな方がいらっしゃたんですか?

 飯野さんとはみんな仲良しで、「ワープ」(株式会社・ワープ)にみんなが集まるんだよね。「セガ」関係も何も問わず、あの時代に自分でゲームというアート・フォーマットで表現しようと思った人は大体仲間っていう感覚だった。
 飯野さんに「ワープ」に呼び出されて行くと「ねぇねぇ、これ買っちゃったんだ!」って等身大のハン・ソロのジャバ・ザ ・ハットに氷漬けにされたやつを見せつけられる、というプレイでした。ずっとイチャイチャしている。
 飯野さんの原点も『スター・ウォーズ』なんですね。

——逸れましたが、話が繋がりましたね。
飯田さんを最も評価していたのは、インタビューを読んでいると飯野さんですね。

 僕は飯野さんが亡くなった後にセレモニーの展覧会をやったんですね。
 その時に飯野さんのゲームや、対談集なんかの出版物を全部読めるように展示して、ほとんどの本に僕が呼ばれて一緒にしゃべっているんですよ。当時は気づかなかったんだけれど、そうなんだなと思いますよ。
 今から思えば、飯野さんの方が上昇志向が強くて、僕はアンダーグラウンド志向だから、そっちにあんまり行きたくないわ、みたいな感じで、仲が良かったけれど微妙に同じ土俵に乗らないようなポジジョンを取り続けていた気がするんですよ。だからこそ彼には何かを手に入れたい、みたいなのがあったのかもね。

 ただ飯野賢治にも、「初期飯野」と「アフター飯野」があって、「ワープ」以降の飯野さんは上昇志向ではなかったと思いますね。ハイテンションで色々なものを手に入れて、ある日突然それを手放した時に、違うことをやろうと考えてたんだと思いますね。
 でもそんな飯野さんもやっぱり『ゼビウス』が大好きだったんですね。
 飯野さんも原点はアーケードの「阿片窟」の人なんですね。だからこそ冷静なゲーム分析が可能なのでしょう。

 それ故に『ゼビウス』はもっと色々な側面から批評的に語られるべきですよ。「ゲームは一日100時間」と言っている僕がやめたゲームですから。

——中沢新一さんが「ゲームフリークはバグと戯れる」の中で決定打の批評を行っていますが、後続していく『ゼビウス』が築いたシューティング・ゲームの礎は偉大ですね。

 そうですね。その後も『東方project』(1996・上海アリス幻樂団)や『怒首領蜂』(1997・ケイブ)にまで受け継がれますからね。
 でも僕は『ゼビウス』について話せないのは、言葉がないんですよ。本当にインパクトのあるものは「そういうもんじゃないの?」ということですね。あらゆる意識が吹っ飛んでしまうわけなんです。
 そう言った意味で『ゼビウス』、『狂い咲きサンダーロード』、『爆裂都市/BURST CITY』との出会いが大きな分岐点ではなかったのかと思います。

——そして1984年の遠藤さんの、アーケード—・アクションRPG『ドルアーガの塔』の稼働ですが、謎解き要素などが多く、ゲームセンターにおける一人のプレイ時間が長くなる傾向を濃厚にした作品でもありますね。
この『ドルアーガ』がある意味アーケードゲームの最後の輝きみたいな側面がありますね。

https://igcc.jp/database/the-tower-of-druaga/

 僕は『ドルアーガ』はドン引きしたタイプで、みんながダンボールで目隠しをしてプレイしていたんですよ。人に攻略法を見られたくないので。
 ある意味「プレ・コロナ」時代ですよね。
 結局、ゲームセンターというみんなが集まる場所で、部屋にこもっているような景色になっちゃたのね。それはゲームセンターとしてちょっと違うだろ、と。
 「オレの好きだった阿片窟じゃない!」みたいな感じです。
 だから「新風営法」(1985)の時はもう足を洗っていたんですね。

——そういう思いを持ったプレイヤーがいたから、家庭用コンシューマーに移行していくわけですね。
1983年に任天堂より国産家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が発売されます。第二次テレビゲームブームの中心的なコンシューマーで「家庭用コンピュータでもパーソナル・コンピュータでもない家庭用コンピュータ」というのがコンセプトでした。
ROMカートリッジとしたもので、リコーPR2A03のCPUを搭載して、16KbitのSRAMで構成されていて、「ハドソン」、「ナムコ」、「KONAMI」、「タイトー」、「ジャレコ」、「CAPCOM」といったサード・パーティーも参加して充実します。
ローンチタイトルは『ドンキーコングJr.』、『ポパイ』で、1985年発売の『スーパーマリオブラザーズ』の爆発的な人気によって一気に普及しました。
飯田さんは、そちらへの移行はなかったのですか?

https://www.famitsu.com/news/202007/15202178.html

 「ファミコン」が発売されたのは当然知っていて、それが大ブームになっていたのも知っていましたが、ゲームからは身を引いていたので、知らんぷりしていたんですね。
 だからオンタイムでは乗っていないんですね。それで後々、すげぇ、面白い! となるんですけれどね。

 それで「ファミコン」が本格化した時に、『ゼビウス』(1984・移植版)が鳴り物入りで移植されたんです。でも僕にとってはアーケード筐体が縦長の画面で「モノリス」的な比率だったわけです。それが「ファミコン」になった時、テレビに合わせて横長になったのでこれは『ゼビウス』とは認められないなとなってしまったんですね。
 そこでちょっとゲームを卒業しちゃうんですよね。
 それで足を洗って別の阿片窟に向かうわけです。

——それはどこですか?

 「新宿LOFT」とか、千葉の「マザーズ」とかね。パンク・バンド活動に熱中します。
 八十年代になってどうしてそちらへ流れたかというと、これは振り返ってみると分かることですが、当時は世間はバブルで浮かれていたわけですよ。 
 DCブランドのパステルカラーの服を来た人々が街を闊歩して持て囃されていたのね。テレビでは「おニャン子クラブ」とかですね。「とんねるず」みたいな体育会系の、部室ノリみたいなのに影響された同級生とかはみんな軽蔑していました。

——そんな高校時代には恋愛経験はございましたか?

 とっても可愛い不登校の彼女がいました! 不登校同士でどうやって付き合っていたのか忘れちゃいましたけど……。また、高校時代唯一仲の良かった友達がいて、彼は空手マンだったので、色々教わったりしていたんです。僕は気付かなかったけれど、その友人と彼女と三角関係みたいな感じだったんですね。 後にそれぞれが人生を選択しているうちに、関係性が変わってしまい、それぞれがもう会えないです。ものすごい喪失感を感じます。だからまた会いたい人には会える、と思っちゃているのですが、そうでもない。

——それは飯田さんの「生きる」という今後の人生や作品にも影響を与えていきますね。

 だからそんな「死」と触れてしまった中で、バブルの空虚なお祭り騒ぎみたいなものにはひたすら嫌悪しかなかった。
 僕は七十年代のカルチャーをまだ引きずっていて、八十年代にそのカルチャーに対してアンチ・テーゼのようにして立ち上がって来たものを全く受け付けられず、「もっと『明日のジョー』でいたい!」と鬱屈としていましたね。
 それは僕が時代に乗り遅れたということでもあるんですよ。そのモードチェンジに対応できなかったですね。

——ジャン・ボードリヤールや、ジャン・リオタールが七十年代に予見した、ポストモダンですね。

 だからその時代に現れたニュー・アカデミズムの人とかも、当時の僕からしてみれば超チャラかったですけどね。小難しい本を片手にトレーナーを首に巻いちゃったりして、「知の巨人、現れる」みたいな。そういうものにすごくスノッブな感じを受けていました。
 やっぱりこちとら「スターリン」だから、豚の頭投げるの最高! みたいな感じですよね。

——ただあの時代に席巻した、レヴィ=ストロース 、ジャック・ラカン、ロラン・バルトのような構造主義も大切ですし、ミシェル・フーコー、ドゥルーズ=ガタリ、ジャック・デリダ、ジャン・ボードリヤールを受け継いだポストモダンの思想を否定できないです。
しかしそこは真摯な思想家と、真摯な表現者の違いなのかな、という印象を覚えました。

 彼らの言っていた「脱構築」とか「空虚な中心」とかはすごく刺激を受けましたね。「リゾーム」とか「ノマド」という考え方は、都市に非定住者がそういうライフスタイルをしていますし、予言していたなと思います。
 ただそれが、新自由主義みたいなクソな状況を招いたのもありますね。その後、マンガ喫茶みたいなものが持っている磁力と結合しちゃうんですよね。
 思想は世界を変えていくのに、窮屈な環境に適応するための言い訳にもなってしまった。

——だからこそ時代の負の側面を生んでまった「ゲーム」というメディアに携わっている飯田さんが総括を行うことは価値があると思います。

 クリエイターの立場からね。
 ただあの時代、中沢さんが捉えていた『ゼビウス』の実像は凄まじい。神話なきゲーム・コンテンツの危険性の予期でもあった。その意味では、製作者の遠藤さんを超えていたかもしれない。批評が作品を超えていった瞬間でもある。

 だから地下鉄サリン事件さえなければ、ニュー・アカがどうなっていたのかと考える時はある。もうちょっと良い世の中になっていた可能性すらあるのかもしれない。
 概ね間違っていないのだもの。「人生をより良くしたい」とか物質文明に偏重しすぎたものを修正したいという気持ちは決して悪くない。
 それは連合赤軍の人々の活動の原点になった気持ちというのは、シングルマザーのお母さんを助けたい、だとかそういう思いだったりするわけです。そこから脱線していってしまう。その脱線はどこかで修正すれば良いと思うのですよ。ただ脱線したまま悲劇に向かってしまうバランス感覚の悪さは致命傷だと思うのですね。
 でも大学時代になって死なないまでも消えた存在が、上九一色村でヘッドギアを着けているというのはありました。

 まだオウム真理教になる前に、漢方薬屋をやるんです。それが千葉県の船橋市なんです。

——1978年から1980年にかけての「漢方亜細亜堂薬局」で、1981年の「BMA薬局」の経営ですね。

 そこそこ僕もオウムとは濃密だったんですよね。それはヴェトナム戦争以降のニューエイジから始まるもので、『ガンダム』の『めぐりあい宇宙』でも描かれているし、『イデオン』なんかまさにそういったものである。
 細野さんなんかも新しい神秘主義みたいなものに対して思想的になっていく。

 だからオウム真理教はそのカルチャーの中では、そんなに異端ではなかった。ただ出家とか言っているから、少しやりすぎかなとは思います。少女雑誌に生まれ代わる前の募集投稿なんかまさにそうなんだけれども、物質主義の限界というのがあったな、とは思うんです。それを神秘的なものに求めていく渇望感も割とカジュアルに受け入れられた。
 だからオウム真理教を単なるイカれた集団とは断定できない。

——そもそもオウム真理教自体が、チベット密教という宗教しては強固なバックグラウンドを背負っています。

 そこに『ゼビウス』の批評家たちがコミットしていくわけですね。だから『ゼビウス』からオウムへの接続は確実にあるんですね。
 しかし、僕は割とそれを冷めた目で見ていました。
 それはやはり、初めてできた彼女や親友が自死していくということですね。明確なニューエイジからのスピリチュアリズムみたいなものは、全く救済にはならない、というのが僕の個人の経験上からの感想です。
 だから僕の思想としては「死ぬな、生きろ」なんです。あんまり死生観に囚われるのではなくて、輪廻転生より今生きている感覚の方が大事だと思うんですよ。そこが僕とオウムの決定的な違いなんですよ。
 友達が死んじゃったからそう思うんでしょうね。死を中心に物事を考えるべきではないと僕は思う。

——飯田さんの中には「友達が去って空虚になる」と「生きろ」いう感覚があったからこその思想なんでしょうね。

 まさにそうですね。

——ただ時代的には産まれるべくして産まれた、オウム真理教も概ね新興宗教としては悪くはなかったんです。信者は真摯に信仰していました。しかしむしろそれをアジテーションしてしまった世相が地下鉄サリン事件の原因なのかもしれません。

 その中にビートたけしや「とんねるず」がいたりね。そして彼らはそれをさもなかったかのようにしてテレビに出ている。

——あれは高度なマインドコントロールが行う中心人物を持った組織構造ですから、麻原彰晃と社会が信者をアジテーションしてしまったら、地下鉄サリン事件のような悲劇は起こるでしょうね。

 そのアジるのが面白がったからね。「空中浮遊おもしろーい」みたいな。非常に無責任にスピリチュアルに触ってしまったという。
 だから僕はサブカルチャーとして、スピチュアルも含めて手塚治虫から民主主義と平和を学んだ最後の世代なんです。

 ただ自分なりにここまでの個人的な昭和史を振り返ってみましたが、自分なりに安全牌だったな、と思うわけですよ。友人の死のような際どい場面もあったし、ダークサイドのようなオウム真理教みたいなものがすぐ隣の場所にあったんですよ。
 その上でこのまま僕なりの総括を行わないのはよくないです。

——オウム真理教についてはと1995年に『アクアノートの休日』が発売で、非常に一種のスピチュアルに寄った作品なので、地下鉄サリン事件も含めてそこで詳しく相互性を再考すべきだと思います。

 そうなんだよね。八十年代にニュー・アカデミズムの人々の思想を反対した僕が、極めてニューエイジ的な作品を作るんですね。

——しかし八十年代の飯田さんは、まだ七十年代を捨てきれずにポストモダンの現実に反骨していたのでしょう。

 そうですね。八十年代からはさらに世界はなかなか見えにくい。
 いじめや貧困という精神が欠乏した、平成、令和というのは荒廃したオープニングですね。日本の問題の中で破滅のビジョンというのが、より明確になっています。
 それでいて、2020年のコロナの今、ここから更にピースフルな世界は見えてこない。制度的な破滅があって、それ以前にもう精神的な破滅があるんです。

 七十年代に産まれた子供向けコンテンツというのが、あそこまで短い時間に名作、力作、珍作などなど、すごいものが短期間に成長しました。それを一言で「豊か」だと言ってしましましたけれど、今はそういう文化状況ではないですよね。七十年代のあのカオティックな土壌があったからゲームという産業が進化したんですね。
 そういったアマチュアリズムも、一つの「野生」ですよね。

——クロード=レヴィ・ストロースの『野生の思考』(1962・みすず書房)は素晴らしくて、人間から「野生」が失われていくと「神話」が失われていく側面もある。その上で中沢新一さんが『ポケットの中の野生-ポケモンと子ども』 (2004・新潮文庫) で川辺で遊びながら『ポケモン』をプレイする少年を発見したんです。

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しかし、今のゲーム・コンテンツの消費は様々な識者が指摘されていますが、『ドルアーガ』で壁を作った時のディスタンスに似ていて、「阿片窟」でみんなでわいわいやっていたのが、部屋で一人で覚醒剤に溺れていくような感覚があります。

 そうだよね。オタクとオタクをつなぐ時の通路も大事だし、東浩紀さんのいうような「誤配」が起こるとするならば、もう一度七十年代まで立ち戻って追求するしかない。
 だからこその1978年なのかもしれませんね。
 「野生」や「神話性」がなければ文化の豊穣もないわけで、それが失われたコンテンツや社会は終わっていると思います。終わっているままで、この世はおさらばできない。もう少し足掻くしかない。

 だから一つは無差別殺人が定期的に起こるようになったことだし、もう一つは嘘の爆弾予告ですよね。本当の爆弾だったら良いわけではないんですけれど、このブラフの爆弾というのはバットマンのジョーカーの美学すらない、ただの迷惑を消費している。
 その爆発が『腹腹時計』に書かれたものでなくてもいいんです。それはロックや映画で起こるべきなんです。人の心を変えてしまう一発というのはどの分野でも出来るんです。
 それこそがゲームで、本当にみんながプレイしたいものなんです。

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