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それを君から教えてもらった

自分の人生は変化過多の方かもしれないって思う反面、案外、変わっていないこともちゃんとあるんだなって思うことがある。過去を振り返ると、なんかいたたまれなくなることもあるし、でも、やっぱり大切なことも多くあったんだなって思うこともあって、うーん、結局何が言いたいのだろう・・・?!

先週、20年ほど前に、ライブで共演してきた京都在住のミュージシャンであり、謎の表現者 「マイアミ」こと、吉野正哲さんたちご家族やお仲間が暮らす壬生のシェアハウスに遊びに行った。20歳くらいの頃、本格的にバンドを始め主に京都で活動していた僕にとって、マイアミさんは「別格」の人だった。即興で弾き語りをするという衝撃的なライブを、当時京大吉田寮祭や大阪のロケッツ、そして僕がドラムを担当していた越後屋(ノイズマッカートニーレコード)のレコ発のときも、確か渋谷NESTで「マイアミバンド」として共演してもらった。これがマイルス・デイヴィスの『アガルタ』にマイアミさん独自のラップのような歌が乗る、すごくかっこいいものだったのを覚えている。

それから15年ほどが経ち30代半ばになったとき、僕自身は作曲演奏から、コミュニティに関わるプロジェクトへと表現の主体が変化してゆくなかで、彼と出逢い直しをした。奈良県立図書情報館で、介護民俗学者の六車由実さんと対談をした際に、マイアミさんが客席にいて、めちゃくちゃびっくりした。確かにマイアミさんなんだけど、以前より落ち着いたというか、僕が勝手に想像していた彼のイメージからすると、だいぶと「語る人」になっていた。でもそういえば、僕は彼とライブこそすれど、実はどんなことに興味を持っていて何を目指してあんなはちゃめちゃな(←いい意味で)ライブをしてこられたのか、ちゃんと話したことはなかったのだ。かくいう自分もそうだった。きっとマイアミさんも僕も「語るべき言葉」が当時は思いつかなかったのではないかって気がする。

その後、京都で一度だけライブをご一緒し、また10年ほど交流が途絶えていた。そんな折りの二ヶ月ほど前、突然彼から長い長いメールがメッセンジャーで届き、「一緒に作品をつくりませんか?」と。不思議な縁だ。作品のテーマや詳細はまた今後noteでも触れたい。とにかく、そんな経緯で、彼の壬生の家(この家がめちゃくちゃ素敵である)に泊まって、パートナーのまりさんや、小2の息子さんと、とてもいい時間を送らせてもらった。

翌日、家族で山の方にクワガタを取りに行くという彼らの車に乗って、京都駅まで送ってもらった。その直後に、びっくりする連絡が入った。高校のときにとても仲が良かった親友iの訃報だった。マイアミさんとの会話で、バンドを本格的に始めた20代前半まで届いていた自分の記憶のモードが、一気に高校時代にまで引き延ばされる。あまりの唐突さに、悲しみよりも「なんで???」という強い戸惑いしかなかった。そのあとの半日呆然と過ごし、翌日通夜に参列した。

iは、ブラスバンド部の仲間だった。iはトロンボーンをやっていて、テナーサックス、アルトサックス、そしてパーカッションの僕と、4人でしょっちゅうつるんでいた。進学校だった高校のなかで、iは長ランを來たり、周りと一切つるまず常に一人で佇んでいるような奴だった。僕も人とつるむのがどちらかと言えば苦手なので、たまたま部活が一緒だったということでどんどん仲良くなっていった。2年のときはクラスも一緒だったので、音楽の話や恋愛の話、なんでもした。めちゃくちゃ長渕剛が好きなやつで、あと、スカパラも好きだった。彼の家にブラバン仲間で何度もお邪魔した。5階建ての集合住宅の向い合わせの部屋をニコイチで借りていて、5人兄弟の長男だった彼の妹たちや弟、そしていつも僕らに大いに世話を焼いてくれるお母さんたちともよく交流した。

高校の時から舞台美術や照明に関わるデザイナーになりたいと言っていた。進学校としては珍しく、京都で美大に進んだ。iにはまったく迷いがなかった。何かしら芸術に関わる仕事がしたいと思っても、具体的に何も思いつかず、明確な意志なくだらだら浪人して大阪の公立大に進んだ自分にとって、iのそのまっすぐさが羨ましかった。iは大学卒業後にデザイナーになり、商業施設やイベントの空間デザインなどを手がけていたと、お母さんから聞いた。おそらくここ最近は独立していたのだろう。コロナ禍で仕事が滞り、もともと酒好きだったけど、さらに酒量も増えた。そして今年になって一気に仕事が立て込み直し、かなり忙しい日々を送っていたらしい。でも、以前から、肝臓と腎臓がだいぶやられていたようで、数日前に、突然呂律が回らなくなり、その3時間後には息を引き取ったという。家族に「早く病院に行って」と何度も言われても、「この仕事が落ち着いたら行くから」と言い続け、結局、間に合わなかった。その頑固さは、高校時代のiのまんまだったが、「らしさ」で片付けるにはあまりにも早い死。i、さすがに早すぎるで、お前は。

通夜は時間が止まっていた。棺の中のiは全然変わっていなかった。10年近く会ってなかったけど変わってなかったし、もっと言えば、高校のときからほんとうに変わっていなかった。もちろん歳は取っている。ちょっと身体が大きくもなったかな。でも、変わっていなかった。彼が高校のときからよく着ていた同じような和模様入りの長袖Tシャツや、腕にいつもはめていたブレスレット。そして、彼の高校時代からずっと使い続けているトロンボーン、そして大切なCDたち。一緒だった。

これはすごいことだと思った。やっていることも、生活環境も、趣味嗜好も「変化過多」な僕にとっては、iはびっくるするくらい不動だったのだ。あれから25年経っていて、お前はずっと長渕とスカパラを逝く直前まで聴いていたのか? どこまでまっすぐなんだ。

棺のiを覗き込んで、みんなで話していたら、妹さんから「お兄ちゃんの好きな曲、みんなで歌ってあげてください!」って言われ、会場に置いてあったラジカセから長渕の「とんぼ」が流れて来た。おれも、テナーサックスのMも、1番は完璧に覚えていて大熱唱した。泣き笑いながら。2番から歌詞があやふやになって笑っていると、別の妹さんが、歌詞カードを印刷してきてくれて、もう一回仕切り直し!ということで2回目の歌唱が始まる。二番が終わったところで最後のサビなのに、お母さんが間違ってラジカセを止めてしまって、会場はパニック。そこからアカペラで歌いきった。これはiが作った奇跡の時間だった。ただ歌っただけだけど、こんなこと、二度とない。こういうときにだけ起きること、もっと普通の日常のなかで起きればよかったのに、それはもう叶わない。

それから一週間経った昨日、大阪のバナナホールに小谷美紗子のライブに行った。小谷さんは変化過多な僕にとって、彼女のデビュー当時から25年間聴き続けているほぼ唯一のミュージシャンだ。時折、本やFacebookなどでも彼女のことは書いてきたが、とにかく、心から尊敬するシンガーソングライターである。コロナ以前、東京に住んでいたときは彼女のソロ弾き語りのライブを、渋谷のマウントレーニアホールに二度観に行った。そして、昨日はバンドセットだった。ギターは田渕ひさ子さん(彼女のプレイもナンバーガール時代からとても好きです)、二宮友和さんん、玉田豊夢さん。最高のメンバー。

ライブが始まる前に、一緒に行った友人と「小谷美紗子を何で知ったか話」になって、友人は「そうや、ワタルからCDもらったんやったな」と言われた。自分も同じことを考えた。「そう言えば、俺は、高校のときから聞いてるけど、何きっかけやったけ?」と。

ライブの後半、「見せかけ社会」という最初期の曲のとき、なぜか涙が流れてきて、急に記憶が蘇った。「そうだ、iから教えてもらったんだった」と。僕は忘れていた。iがたまたまラジオから流れてきた小谷さんのデビュー作「嘆きの雪」をめちゃくちゃ気に入って、「ワタルもこれ聴けや」と言って紹介してくれたんだった。それから25年間、この人をずっと聴いてるんだった。

不思議なのは、思い出したから涙が出たのではなくて、涙が出たときに思い出した、という順番だった。これはなんなんだろう。そうか、それを君から教えてもらった。自分にとっても、連続性はあった。ひとつひとつ、生活が切断され、変化のなかだけに生きてきた感じがあったし、時にはわざと切断するかのように、次へ次へと生き急いできた感じでも、変わらないものもある。それを君から教えてもらった。


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