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革命のエチュードを聴きながら【ショパンの故郷ポーランドをたずねて】

ショパンの話をしようとすると、いつも胸がいっぱいになってしまって、何から話したらいいかわからなくなってしまう。だからこの文章もどう頑張ったってムチャクチャになる。それでも想いの1/10でも記せたら良いのかなと思って書いてみることにする。

私にとって、ショパンは私のもう一つの心であり、理解者であり、気が合う人でありながら、偉大なる作曲家でもある。

クラシックの演奏はイタコに似ている。音を書き残すために作られた楽譜という情報を通して実際の音を想像し、奏で、もうとっにいなくなってしまった作曲者が、その時、その瞬間に音楽に切り落とした感情を、現在のこの場所に再現する。本当に特殊なことをする芸術だと思う。

高校生の頃はよくショパンを練習していた。ノクターンやプレリュードに続いて進んだのが、エチュードをまとめた作品集で、日本語に訳すと「練習曲」という割には、あまりに難しくて、同時に素晴らしく美しくもあった。


私の先生はいつも、新しい曲を始める前に、その曲が生まれた時代背景や作曲家の置かれていた状況、心情などについて教えてくれた。とはいえ子供心に、数百年前の歴史と音楽の誕生について解説されても実感が湧かず、そのうちのほとんどのことは忘れてしまった。

だけど、唯一覚えているのがショパンの『革命のエチュード』だった。ショパンはポーランドに生まれた作曲家で、数々の名曲を残したことはあまりにも有名である。情感豊かな楽曲が特徴であることから「ピアノの詩人」とも呼ばれている。

ショパンがこの曲『革命』を作曲した当時、ポーランドはロシアとの対立が激化していた。音楽活動のためにオーストリアのウィーンに旅立ったショパンは、情勢の安定しないポーランドに戻ることもできず、愛する祖国のために何もできない無力感や怒りに震えて『革命』を書いたのだという。


ピアノの先生がお手本に弾いてくれたその曲は、不穏に甲高い右手の和音で始まると、上下にうねり狂う左手のアルペジオがまるで激動の世の中やショパンの胸中を表しているようで、私にとって衝撃的だった。音楽は時に、言葉以上に複雑な感情を表現することができる。

ポーランド対ロシアの革命が失敗に終わったその後、ショパンはポーランド人への風当たりが強くなったオーストリアからフランスに渡り、音楽活動を続けた。ポーランドへの愛国心を常に燃やしながらも、結局、その命が尽きるまで二度と祖国ポーランドの地を踏むことはできなかった。

晩年のショパンの健康状態は非常に悪く、39歳にして短い生涯を閉じた。生前のショパンは、没後、その亡骸から心臓を取り出し、首都ワルシャワの聖十字架教会へと埋葬することを希望していた。その願いは叶い、彼の心臓はフランスからポーランドへと運ばれた。ようやく愛する祖国へと帰ることが出来たのである。

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私はショパンという人の音楽を演奏したり、聴いたりするとどういうわけかあらゆる感情の引き出しが大開きになってしまって、革命を弾いてるとすごく興奮するし、雨だれの前奏曲を弾いていると、心がとても鎮まる。単純に言うとすごく気が合うというか、感性が合うのかもしれない。

高校時代はずっとショパンを練習していたから、私の青春はショパンとともにあったわけで、穏やかな時も悔しい時も、ショパンの音楽は私の心に寄り添ってくれた。これを言うだけで泣きそうになるのはなぜなんだろう?

高校卒業と共にピアノのレッスンを辞め、クラシックからしばらく遠ざかっていたけれど、社会人になって数年目、自分の時間に余裕ができた時、原点回帰というのだろうか、なんだか無性にショパンが聞きたくなって弾きたくなった。

約十年のブランクを挟んで弾いたショパンはとても聞けるものではなかったけれど、自分の心とショパンの心を結びつけるようにしているうちに、私はショパンの気持ちがもっとリアルに知りたくなって、彼の生まれ故郷、そう、彼はどんなに願っても変えることのできなかった国、ポーランドに行きたいと強く思うようになった。


ポーランドへゆくの巻

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27歳の秋、そうして私はショパン会いたさにポーランドへと降り立った。

ポーランドはオーストリアの横にある小さな国で、首都ワルシャワは整備と修復の行き届いた美しい街だった。一方、都心部やワルシャワ以外の地域を歩いた印象では、少し辺鄙というか、あんまり裕福そうな国ではなかった。これが幾度の革命を経験した街であり国なのだと肌で感じた。

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ワルシャワ観光の最中にショパンの心臓が埋められたという聖十字架教会を訪れた。中は静けさそのもので、それまで記念にたくさん写真を撮っていたけれど、この下にショパンの心臓があると思うと、冷やかしのようなことはひとつもできなかった。私はただ遠く、礼拝用の席から石碑を眺め、ようやく愛する祖国に帰り着いたショパンの胸の内について想いを巡らせた。本当に、帰れてよかったね。

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(聖十字教会に十字架型の飛行機雲がかかっていた)



ショパンの故郷ジェラゾヴァ・ヴォラへ

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首都ワルシャワから電車に揺られて1時間ほど経つと、ショパンの生家がある田舎町ジェラゾヴァ・ヴォラに着いた。ショパンの聖地と言うと華やかな印象があるけど、駅前はうら寂しいなんて事のない普通の街だった。私は治安が良くなさそうな町にいると不安になるので、慌ててタクシーをつかまえて目的地のショパンの生家まで送ってもらった。

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ショパンの生家は現在、博物館のような形で管理されていて、入場料を払うと広大なお庭と邸宅の一部を見学することができる。お庭は植物に満たされていて、立派な池もあり、本当に天国のように美しかった。色々な所に設置されたスピーカーからは、いつもショパンの曲が聴こえて、静かに心癒される時間を過ごした。

ショパンの生家、といってもそこで暮らしていた期間はそう長かったわけではないようだけれど、美しく改修されたお家の中は、ショパンが昔使っていたのかな、みたいな古いピアノや、当時の風景のスケッチ画などが飾ってあった。

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昼下がりになるとピアノコンサートが開催されて、それもまた夢みたいに素晴らしい時間だった。演奏に集中できるよう建物の中は一時的に立ち入れなくなり、私たち観客はお庭に設置された緑溢れるベンチに腰掛けて美しい演奏にうっとりと耳を傾けた。

窓の向こう建物の中には、ピアノが一つとピアニストの女性が一人。開かれた窓からは音楽が溢れるように流れ出てきた。演奏していた人は地元の音大生なのか誰なのかよく知らないけれど、日替わりで様々な人が出演しているらしい。きっとポーランドの演奏家の中では憧れの場所のひとつなんじゃないかなと思った。それを表すかのように素晴らしく上手で軽やかな音楽だった。

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時間の流れを惜しむように日の暮れまで滞在して、私はショパンの生まれ故郷に別れを告げた。ここが彼の帰りたかった場所で、ここが彼の心臓が眠る国。

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ポーランドのこと、ショパンのこと、何も知らないことばかりだけど、ほんの少しだけ彼の音楽に近づけたような気がした。旅行の途中で一日中雨が降った時、『雨だれの前奏曲』がどんな雨音だったのか知ることができたから、それすらも嬉しかった。

革命の激しさを内包しながらも、穏やかな時間の流れていたポーランド。旅はタイミングが大切で、行きたいと思った時に行っておかないと、本当に行けなくなってしまうこともある。あの時に行っておくことができて本当に良かったな。

心が旅を求めた時は、またショパンを聞いてポーランドの景色を眺めようと思う。心だけはいつだって自由だから。



番外編(ポーランドで見たピアノたち)

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ワルシャワショパン空港のロビーにて


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ワルシャワ市内の公園にて
ショパン関係のイベント


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ワルシャワのショパンミュージアムにて
ショパンの使っていたピアノ



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古都クラクフのカフェにて
誰でも弾いていいピアノ
ビートルズをジャズぽく弾いていたお客さん



おしまい

上手くはないけど一生懸命弾いた私のショパン





HAPPY LUCKY LOVE SMILE PEACE DREAM !! (アンミカさんが寝る前に唱えている言葉)💞