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承認欲求の目的は承認ではなく自己肯定じゃないか

承認欲求に振り回される人生を送ってきた。
そんななかで不思議だったのは、「なぜ自分は他者から承認を求めるのか」ということだ。

欲求が生まれるには何らかの原理が背景にあるはずだ。
例えば「何かを食べたい」という欲求の背景には「お腹が空いたままでは餓死してしまう」という生理的な理由があり、だからこそ「お腹が空いたら何かを食べたくさせる」という仕組みが生物にはできあがっていったのだと思う。

でも、承認欲求に関して言えばどうもそこまでシンプルな原理ではない気がする。
他者から承認を受けても、それですぐにご飯にありつけるわけではない。
将来的に間接的にプラスに働くことはあるかもしれないが、ちょっと遠回りな気がする。
むしろ行動基準を他者に依っていると考えるとかなり奇妙だ。
そのくせ承認欲求が逐一の行動を縛る感覚は強く、このアンバランスさはなんなのだろうと思わされる。

承認欲求が存在する理由について、僕の今のところの予想は「他者からの承認を通じて得られる自己肯定感によって"正しい"行動が繰り返されやすくなり、個体の成功率(生存と繁殖率)が上昇するからではないか」というものだ。

ヒトという生物として見たときに、もっとも優先されるのは個体の成功(生存と繁殖)で、それを担保するのが"正しい"行動だとする。
なにが"正しい"行動かは社会性が高い生物ほど複雑になっていくが、なんらかのかたちで何が"正しい"か判別する必要がある。
その判別において自己肯定感(自分は大丈夫そうかやれそうかというニュアンスなので自己効力感のほうが近いかもしれない)が重要とされる。
自己肯定感は過去の成功体験や、知識や、肉体の強靭さなどを総合して決定される。

そして、その自己肯定感を決定する一要素として他者からの承認というのがあるのではないかと思う。
多くの他者から認められるとか、強い他者から認められるという承認の工程を経て自己肯定感が高まる。だから承認欲求は発生する。

遺伝した形質から"正しい"かどうかが逆算されてるのではとか自己肯定感が高いほどいいというわけではないはずとか現実的に無限に追求はされてないとかもっと書きたいことも自分もわかっていないこともあるのだけど、

とにかく言いたいのは「承認欲求はつまるところ承認を通じて自己肯定感を得るためのもの」であって、結果的に得られるものが同じであれば「承認にこだわるよりも自己肯定にこだわるほうが適切っぽい」ということだ。

他者からの承認はどこまでもアンコントローラブルだけど、実践なり勉強なり筋トレなりは自身のコントロール下で行えて、自己肯定感を得られる。
他者からの承認を通じて自己を承認し肯定するか、他者ではなく自己からスタートするかのルートが違うだけというところだろうか。

もちろん承認欲求自体は本能的に湧き出てくるものなので普通に日々感じはするものの、「承認してもらえなかったから延々と承認を得るまで再チャレンジ」みたいな地獄っぽい行き止まりムーブをする必要はなさそうと思えている。
個人的には、承認欲求の目的が別に承認じゃなさそうだな、と意識するだけで気楽になった。

承認欲求そのものが悪いのではなくてそれゆえの苦悩や暴走が悪いのだけど、「なんで承認欲求なんぞに悩まされとるんじゃい」と思っている人にこの文章が役に立てば嬉しい。

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