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人魚

人魚が出るらしい。

ほとんどの時間を外れの方で過ごしているこちらにまで噂が回ってくるぐらい、話題になっていた。

磯場ではたくさんの貝や雲丹が獲れる。
この辺りにいるものは、磯に頼って暮らしている。

だからなのか、本当は人魚などいないのに嘘を流して獲物を独り占めしようとしてるなどという話も聞いた。

多分そんなことはないだろう。一見ありそうでいて、根も葉もない噂が流れることがほとんどだ。本当のことはあまり語られることがない。本当のことには、多くのものがただうんざりしてしまうのだろう。

人魚は鈍い艶のある濃海色の皮膚を持っているらしい。
体の側面に紅梅色や千草色などの鮮やかな装飾を持つものもいるようだ。

一度、遠くから見かけたことがある。波間に群れが浮かんで漂っていた。



少し天候の荒れた日、いつものように森に分け入っていると、人魚が死んでいるのを見つけた。森の中に迷い込んで体が絡まってしまい、そのまま外すことができなかったらしい。近くで見るのは初めてだったが、人魚という名前なのに、思っていたよりも私たちには似ていなかった。その体で森を進むのは難しいだろう。

しばらく迷ったが、群れの仲間が探しているだろうと思い、絡みを解いて、磯場から彼らの場所に戻しておいた。人魚は誰もいなかったが、そのうち天候が戻れば気付くに違いない。



人魚の噂も消えた頃、別の人魚がいるのを見つけた。同じように体が絡まっていたが、まだ生きているようで、泡が周りを取り巻いていた。彼らは私たちと似ているようで似ていないのだ、彼らは口からたくさんの泡を出して泳いでいる、という話を、昔、誰かから聞いたのを思い出した。

今度は迷うことなく、絡みを解いて磯場に連れて行った。その間、人魚は、私にしがみついていた。



数日後、磯場に大勢の人が集まっているのに気づいた。群衆の中には人魚たちが混ざっていた。しばらくすると、人魚たちは次々に海に入り、森を切り倒し始めた。

森は私たちの母なる場所だ。

私たちは森に抱かれて生まれ、森に抱かれて眠る。夜の眠りの間、冷たい海流に流されることなく、身を守ってくれる。

森がなくなれば、私たちはもうここでは生きていけなくなるだろう。



ケルプに絡まったとき
大きな魚が助けてくれた。

噛みちぎって岸まで連れて行ってくれた。

そのことを言ったのに
誰も聞いてくれなかった。

本当のことは何も伝わらなかった。